湯船でスマホゲームをしすぎた所為ですっかり逆上せてしまった。なにもかも防水機能の向上したスマートフォンが悪い。俺は悪くない。ぜったいに。ふらふらの身体を引きずりながら、さすがに寒いか、と思案しつつ試験的に掃き出し窓を開いてみたら、もうすでに突き刺すような寒さはなりを潜めている。そういえば、日中は17度まで気温があがったと天気予報が告げていたような気がする。

「はあ、きもち…」
 

 

M   ETHOD

 


頬に当たる風が心地よい。バルコニーに用意されているクロックスに足をつっかけて、手すりに手を伸ばす。鉄部はさすがに寒くて首筋が震えた。しかし、極寒の時期は過ぎたということでありがたい。俺は四季の中で冬が一番嫌いだ。なにしろ寒い、シンプルに寒すぎる。加えて、湯上り、甘いものをバルコニーに持ち込んで、夜風にあたりながら物思いにふけったりまとめサイトをチェックしたりする至高の時間が奪われる。わざわざIKEAで買ったベランダ用の丸椅子まで常備させているのに。とかく日本は甘いものと四季に恵まれたいい国である。夏はシャワーの後のアイスが格別であるし、冬は湯船につかった後の甘酒やココアが無類だ。さらに暖かくても冷たくても旨いぜんざいに至っては、どんな賞賛の言葉を与えても足りないほどである。餡子は多分近いうちに世界文化遺産に認定されるであろうことは想像に容易い。ANKO万歳。

「はあ、きもちー」

世闇にぜんざいの黒を重ねながらザ・ワールドに身をゆだねていた俺の足元から、先刻の俺と同じ台詞が投じられる。はっとして、手すりから少し身を乗り出すと、ゆらゆら揺れるつむじと、立ち上る湯気が見えた。

「………はあ、あったまる…」

こんなにでかい独り言あるかよ。というレベルのはっきりとした音量で呟いた下階の人……は、マグカップを両手で包みながら、空を仰ぐような所作をしていた。今話しかけたらマグカップを落としやしないか、といささか気を揉んだけれど、さすがにそこまで阿呆ではないだろう、と信じたい。

「………てか…独り言でかない?」
「わっ、あれっ、ひっ光?」
「俺以外誰がおんねん、こわー」
「いや、そうだけどよ、急に話しかけられるとびっくりするじゃん」
「カップ落としなや?人死ぬで」
「そこまで阿呆ちゃうわい…てか、何してんの?」
「あー……、長湯で逆上せたから、冷まそう思て」
「どうせまたゲームでもしてたんでしょ」
「………ちゃうわ、ボケ」

(いや、ホンマは図星ですけどね)

ふーん、あっそ、とカップに視線を戻した彼女は、ふうふう、と湯気をどかして、その中にある暖かそうなものを啜った。上に伝う蒸気が、『それは甘くて美味しいものです』と告げていて憎らしい。どうやら、こいつも俺と同様、バルコニーで甘いものを頂戴するタイプの人間のようだ。そういえば、過去数回、バルコニーで本日同様独り言つ彼女とかち合ったことがあったのを思い出した。そのときはまだ声を投げるほど仲良くはなかったから、気にも留めなかったけれど。

「………なに、その甘いやつ」
「あ、これ?ココアにコアントロー入れたやつ、旨いよ」
「こあんとろー………?」
「………オレンジのリキュールです」

ナシゴレンだのコアントローだのの食品知識を有しているあたりは、かろうじてジェンダーが女性寄りに傾いてる証拠と言ったところなのか。世間一般の女性がどうなのかわからないから一概に比較できないけれど。まあ、それ以前に、とりあえず、オレンジとチョコレートは前世から結ばれた間柄なので、その飲み物は旨いと相場が決まっていることは俺にも判った。

「…うまそうだなー、飲みたいなーって思ったっしょ?」
「いや、思いましたけどそれがなにか」
「あ、素直」
「甘いものへの渇求だけは包み隠さず生きることにしてるんで」
「いや、知らねえよ、つうか胸張るなし」

くつくつと笑いながら、彼女はまたぞろココアを啜る。羨ましくない、といったら閻魔様に舌を引っこ抜かれる程度ではあるけれど、逆上せているから先に冷たいものを頂きたいところではある。ここで昔の俺ならファンタかスプライトを所望していたところだけれど、そこに最近ビールやハイボールという新勢力が満を持して登場してきた。飲み始めこそコーラのほうが数百倍旨い、なんじゃこの苦い炭酸水は、しょうもな、と思っていたのに…大人になる、という表現を、こんな阿呆らしいことに使役したくはないけれど、つまりそういうことだろう。そういえば、酒粕入りの甘酒も昔はそれほど好きじゃあなかったのに、今では入っていたほうがなんだか得した気分になる。
彼女がもともと美味しいホットココアにわざわざコアントローとやらを入れるのも、そういう理由かもしれない。

「………大手を振って酒が旨いと言える歳になっちまったねえ」
「その発言がもはやギリギリアウトちゃうん、齢21の癖に」
「大学生にはいろいろあるじゃん?」
「同意しかねますね、俺超絶真面目なんで」
「どの口が言うか、冷蔵庫に缶ビール常備してんじゃん」
「うわ、こわ…なんで知ってるん…ストーカー?」
「飯炒めに行ってるからだよ!ばかやろう!」
「………バルコニーやで?」

いささか大き目に響いた罵声に、はっと掌で口元を抑えた彼女は、上階の俺を見上げながら、みるみる眉間に皺を寄せた。男の一人暮らしにふさわしい閑散とした冷蔵庫を、念のため覗き見るのは彼女の癖のようなもので、そんなときもうすぐ賞味期限のハムやらチーズやらを発見すると危ないとかなんとか呟きながら炒めた飯に取り入れてくれたりするから恐れ入る。(ちなみに、『飯を炒める』というのは『調理をする』と言う意味合いの共通言語になりつつあるわけで、毎回飯を炒めているわけではない)時折、『作り過ぎたから』とタッパに肉じゃがを詰めて持ち帰ってるのを見ると、だったら自分の家のキッチンで作ってきたほうが合理的なんじゃないかと思うけれど、部屋に充満する料理の匂いはまた無類だから何も言えない。

「…よければ飲みに来る?」
「……、ははーん」
「なによ、その今日日漫画にも出てこない反応…」
「作り過ぎたんやろ、どうせ」
「うっ………、なんでそれを」
「すでに作り過ぎでお馴染みのですやろ、ぜんざい事件のときから」
「別に、飲みたくないならひとりで飲みますけど!」
「止めへんけど…、太るで、
「っく……、減らず口を!」

他愛もない問答こいてたら、いつのまに火照った顔の熱もどこへやらへ消えて、思考が鮮明になってきた。甘いものとアルコールへの渇求も丁度いい塩梅である。そういえば、彼女が言う冷蔵庫の中のビールも昨日補充されたばかりだ。

「まあ、しゃあないから降りたるわ」
「しゃあないなら降りなくてええですよ」
「そう言いなや、ビール付きやで?」
「マジか……」
「なんやねん、その微妙な反応は」
「いや、太っ腹すぎて罠みたいだn」
「今すぐどついたるから待っとけ」
「ひい!婦女暴行宣言!」

防犯だ、チェーンロックだ、とかなんとかいいながら、は部屋の奥に引っ込んだ。まあこれで本当に厳重な施錠をしようもんなら次回逢ったときどつきまわしてやるけれど、口上だけで今頃きっと下階は軽く片付けの最中だろうとは思う。ついでに、鍋いっぱいと想像出来るココアを温めにいったのかもしれない。そういう意外な甲斐甲斐しさの所以は判らないけれど、自分は到底持ち合わせていないから、恐れ入る。

(さて…)

すでに冷め始めたぜんざいをぐいっと一気に咽喉へ押し遣って、スツールから腰を持ち上げた俺は、冷蔵庫中から無造作に数本、銘柄も気にせずビールを選んで近場のビニール袋に投げ入れた。着の身着のまま、サンダルを突っかけて外へ扉の外へ飛び出し、視線を階段の下に落とすと、そこには既にが、扉をほんの5センチくらい開けてこっちを見上げていたから、少しぎょっとした。

「…やめえや…」
「あはは、ビクッとしてやんの」
「はったおすぞ、つーか、ホンマその手の行動パターンマジで謙也さんそのものやな」
「うん、多分彼とは前世血を分けた兄妹だったと思うの」
「悲劇すぎるやろその前世、輪廻転生に感謝やで?」
「あっ、ひでえな、謙也くんにチクってやろ!」
「どうぞーご勝手にーお邪魔しまーす」
「おい、ちょっと」

玄関口でやいのやいの喚くを押し退けて扉をすり抜けた俺は、想像通りココアの香りが充満した室内に足を踏み入れた。コンロでは、カレーでも煮るような鍋でココアが熱せられていて、相変わらずのセンスだなあと所論せずにはいられない。購入したココアパウダー袋ごとぶちこんだんじゃなかろうか。と疑惑の目で脇見すると、発見されたのはバンホーテンのばかでかいココアパウダー缶である。…これをこいつは一人で飲む算段で購入したのか。というかこれは、業務用ではないのか。馬鹿なのか。

「…なんでお前はそうやねん」
「ち、違うんだよ、ココアを足したらミルクが足りず、ミルクを足したらココアが足りずの無限ループで…」
「妥協と棄却を脳裏に刻めや、いい加減」
「ちょお!あがりこんどいて何様!?」
「は?財前光様や」
「っく、口の減らないイケメンめ…」

嘲笑しつつ、鼻先にビニール袋を突き出す。唐突なことに驚いたらしく、うおっ、とかわいくない声で鳴いたは、それが何かを把握してのち、ありがと、と呆気した声で漏らした。

「あ、プレモルだ、いいご身分ですね?」
「兄貴が送って来たんやて、お歳暮の残り」
「…お兄ちゃんいるんだ?」
「おん、………何?その目ぇ」
「やあ…、さぞかしイケメンなんだろうと…」
「……残念やったな、既婚者やわ」
「マジかーーーーー」

ビールを冷蔵庫に押し込みつつ、マジで残念がってるにいささかむかついたのは不覚である。内心舌打ちを決め込み部屋の奥に移動した俺は、もはや見慣れた白いテーブルの奥へどっかりと腰を下ろした。ココアの甘い匂いを嗅ぎながら、ベッドに寄りかかり、頭を預ける。見上げると、当然のようにうちと同様の天井が視界を埋めて、それからふと、この上には俺の部屋があるんだなあという当然のことを思った。いつかは互いの生活音で互いを認識するだけだったのに、こうして面と向かって会話をする間柄になるなんて、人生は判らない。挙句、こいつの元カレはあの青春学園伝説のダブルスの片割れだ。世間は狭いし、…ちょっと狭すぎる。

「随分くつろいでるなあ…」

視線を戻すと、がトレイを携えてあきれ笑いを浮かべていた。トレイの上には勿論ココアと、ビールにグラス、それから薄切りにしたサラミにキャンディチーズまである。

「つまめるもの、このくらいしかなかったけど」
「いや、充分やろ」
「それは良かった、じゃあ乾杯しようぜ」
「おん」

とくとくと注がれる冷えたビールの横には、絶え間なく湯気を放出するココアが控えていてなんだかみょうちきりんな取り合わせだ。そんなこときっと露も思っていないはグラスを掴むといやに嬉しそうに微笑った。…プレモルがそんなに嬉しいか。

「かんぱーい!」
「…かんぱい」
「………うむ、うまい!」
「むかつくくらいうまそうに飲むなあ…」
「心狭すぎじゃない!?早死にするよ?」
「まあ、お高いビール様やからな…第3とちごて…」
「…いや、残念なことに、そこらへんの味の違いがまったくわからん」
「はあ?そうなん?」
「うん、なんなら私うっすいビールのほうが好きだな、コロナとか」
「やっ」
「すい女ですみませんね!?」

サラミを掴んで咀嚼しながら、わざとらしくこちらを睨んだは、それでも二口三口とビールを煽る。どうやら、飲むのが好きなことは間違いないらしい。…まあ、そうじゃなければサラミだのキャンディチーズだの冷蔵庫に格納されてないだろう。やれやれと思いながら、甘い匂いのするカップを持ち上げた俺は、ココアの奥から微かに香るアルコールの匂いを覚えながら茶色い液体に口をつけた。

「うわ、うま、なにこれ、考えたやつ天才やん」
「そうなのよ…誰がココアに酒ぶちこんだんだろ、事故かな?」
「事故やな、確実に」
「だよねー…、アボカドとまぐろも事故、納豆とマヨネーズも事故…」
「いや、後者は認めへんで」
「マジかよ、パンに乗せてトーストするとごちそうだよ!?」
「ありえん」

それにしても、お子様的な飲み物のココアがこんな大人の味に変貌を遂げるとは、奇跡の大躍進だと大袈裟なことを考えながら、俺はビールとココアを交互に嗜んだ。甘いと苦いの無限回郎に迷いこんで気付いたらそのどちらも飲み干していた。………心なしか、顔が熱い、気がするのは、多分気の所為じゃあない。

「…お代わりする?」
「…おん」
「…あれ?光」
「…なんや」
「…顔、あっかいよ」
「…お前もな」
「意外、顔に出ないタイプかと思ってた」
「悪かったな…」
「悪くないけど」

両肘をついて見詰めて来るは先刻同様いやに嬉しそうだ。なんやねん、と零したら、なんでもない、と言いつつやおら立ち上がり、キッチンからお代わりとビールを持って戻って来た。心ばかりふらついているように思えたから、人を小馬鹿にしている様子のもそこそこ酔いが回っていると見える。そうしてまた、俺の前にどちらがチェイサーなのかわからないココアとビールが配置され、二杯目のビールグラスに口をつけたは、いやに長い息を吐く。うまい、とまたありふれたことを言うのかと思いきや、今度は感慨深げに遠くを見遣るから、少し調子が狂った。

「あのさあ、私今日でここに引っ越して丁度1年なんだよね」
「あー、そうやったんや?」
「そうなんだよー、光に今治の上等なタオルを献上して丸1年ってわけ」
「あーあの今や雑巾になっとる引っ越し挨拶」
「嘘でしょ!?」
「嘘や」
「おい…」


そうだった。俺が二回生へあがる直前だった。この人が引っ越しの挨拶に来たのは。
遅く起きて真昼間に歯磨きをしていたら、突然インターホンが鳴ったから、アマゾンさんかと慌てて口を濯いで受話器を取ったのを記憶している。

『あっ、あの、すみません、本日201号室に引っ越して来たと申します』

なんだよ、とがっかりしたけれど、無視するわけにもいかないから、適当に返事をして扉へ向かった。そういえば、何回か物音がして起こされた気がするなあ、引っ越しやったのか、とかなんとか考えながら。

『あ…、はじめまして、どうも』

扉を半分だけ開いたその向こう側に佇むこの人と初めて対面したとき、…どう思ったんやっけ。

…ああ、せやった。

「それにしても不思議なもんだよねー」
「は…なにがいな」
「あのとき、別次元のイケメンだと思ってた光と、こうして酒飲んでるんだからさ」
「まあ、一階層上のところにおるからなあ、常に」
「そういうことじゃあねーよ」
「つーか、人間関係なんてそんなもんちゃうん」
「なんでそんなに達観してんの?歳誤魔化してない?」
「はは」

何笑ってんだ、という風に眉を顰めながらサラミを齧るをぼんやり視界に入れる。実のところ、さっき少し同じ類のことを考えていたなんてことは口が裂けても言えない。

(だってほら)
(俺ってツンデレやし?)

「別次元、言うたら菊丸英二やわ」
「っぶ……、は、はい!?」
「聞いてへんの?カコの功績」
「…聞いてない、テニスやってた、ってことは知ってるけど…」

確かに、ひけらかすような性格ではなさそうだけれど、テニスをしているあいつが全てだと思っている俺にとってみたらあいつからテニスをとった部分しか知らないほうが驚愕だ。ゴールデンペアを超える中学生ダブルスなんて、もはや現れないんじゃないかとすら思っているのに。テニスを退いたしゅんかんから、過去を杵柄として顧みないと心に決めたのだろうか。あんなちゃらんぽらんそうに見えるのに、そうだとしたら、とんだ美学だ。

「ホンマ、別次元のテニスやったで、あの人のテニスは」
「…でも、光も上手かったんでしょ?」
「まあ………、それなりには」
「うっそ、天才だった癖に」
「は、はあ!?なん…それ」
「白石くん、と謙也くんが言ってた」

(…今度実家帰ったときしばこう)
(…謙也さんを、とりわけ重点的に)

思わず焦ったのが愉快だったのか、はけたけたと笑っていて癪に障る。酒が廻っているせいか、バタバタとテーブルを叩くしリアクションがでかい。鬱陶しい、と思ったが先か、身を乗り出してその手首を掴んでいた。わ、とは鳴いて、動きを止める。それから捉えられた自分の手首と、俺の目を交互に見た。

「…あ、あの」
「…なに?」
「い、痛いんですけど」
「ああ、ごめん」
「…って、離さないのかよ!」
「あんまりバタバタ煩くすると、下の階の奴が苦情言いにくるかなー思て」
「…んなっ…………そんなに煩くしてないし!」

酔いで赤らんだ顔が一層赤くなった、気がした。今度は俺が愉快になっても罰は当たらないと信じたい。脳にいよいよアルコールが飽和して、まともな思考が有耶無耶になる。致し方ない。もともと、飲みにおいでと手をこまねいたのはこいつだ。ひっくり返ってもは女で、俺は男で。それがわからないほど、馬鹿ではないと信じたい。

「……まあ、それも、悪いことばっかりやあれへんけどな」
「なんの話?」
「……こっちの話」



『201号室の、です…本日から、お世話になります
『あー、どうも…わざわざ』
『………学生さんですか?』
『まー、はい、いちおう…』
『わー!私も四月から三年生なんです』
『………はぁ』
『あっ…すみません…余計な話を……あの…これ、よろしければ使って下さい』
『あー………、お気遣い、アリガトウゴザイマス』

(あー)
(これはまた随分)

(かわいらしいひとが引っ越してきたな)




(と、思ったんや)




(あのときは)
(………迂闊にも)


空いたほうの手でこれ以上ないほど赤らんだ頬を試験的に撫ぜてみたら、こそばゆそうに眼を細めて嫌がった。小動物めいているなあと頭の片隅で考えてのち肩口に力を籠めて押し込んだら、それはもう呆気なく半身が崩れて、いかにも、わかりやすい男女の構図が出来上がった。ベッドの真下、組み敷かれたはわけがわからないとか信じられないとかいう風の表情を貼り付けていて笑えるし、笑えない。

「ちょ、うそ、ひかる、落ち着こう、はなせばわか」
「お前…アホちゃう?」
「うっ!?」
「これで……狡猾に誑し込んでるんやったら負けを認めざるを得へんわ」
「たら……、」

は絶句して、何遍も瞬いた。別に、負けでもそれはそれでいいけれど、と思う程度には思考能力を欠いている。もしかしてもしかすると、騒音事件が起きたあの日あのときから、こうなることは決まっていたのかもしれない……、なんて、それは、流石に言い過ぎとしか言えないけれど。

顔面を鼻先まで近づけると、は微かに身じろぎして避けようと試みる。マジで心の準備とかしてませんでしたすみません、やめてください、とか懇親の力で突き飛ばされて懇願されるかもしれない、と言う妄想をしつつ、それでも結局力の差は歴然だから上手くはいかないだろうと肩口を掴む。う、とは鳴いて、それから、絞り出すように掠れた声を上げた。あーこの先を、菊丸英二は既に知っているのか、と思ったらなんだかむしゃくしゃする。こいつはそのとき、絶え間なくあいつの名前を呼んだんだろう、とか。

「…………………ので、………りです」
「………あん?」
「………のこ、の、…ので、むりです」
「………はあ?」

痺れを切らせかけた俺に、は、今度こそ下階から苦情が来るというレベルの涙声を思いっきり浴びせかけた。

「だからっ……、お、ん、な、の、こ、の、ひ、だっつってんだろー!!!!!!!」
「っ………たーーーーー!!!!!!」

俺としたことが一瞬完全に怯み切ってしまい、その隙をついたのか知らないけれど、が押し出した掌が上手いこと俺の額にクリティカルヒットした。きっとそれは武道用語で多分掌底とかいうやつだった。挙句、額は人体急所のひとつである。蹲った俺を見下ろしている(見えないけれど声の来し方から判断するに多分そうである)は、ここぞとばかりに程度の低い罵倒の言葉を吐いた。

「バーカ、バーカ、クソハゲ!イケメン!」

ハゲてねえし、後半アメ差し込まれとるやろ、と思うけれど上手く声にならない。秒単位で滾々とと沸いていたものはものの見事に消滅して、代わりに痛みと怒りとやるせなさが交互に押し寄せた。


………………ひとまず、拒まれた理由が理由すぎてぐうの音も出ない。
ムードとタイミングよ、空気読め、全力で。


「………あれ…、だいじょうぶ?」
「………だいじょうぶに見える?」
「………あ、あんまり」

現状に至った元凶が呟く台詞ではない。と強く思いつつ、俺はどうにか身体を捩って視界に彼女を入れる。真っ赤な顔で俺を見下ろしつつ、眉を顰めるその顔には、『仕舞った、やりすぎた』と書いてあった。むかつくほどわかりやすい。わかりやすくて、なんだか無償に笑けた。

「っはは………」
「えっ、どうした光…」
「っはっはははは……やばい」
「いや…やべーのはあからさまに君のほうだが?頭打った?」
「はは、うっさいわ、ボケ」

口悪いな、もー、となんとか言いつつ、悪気がある様子のは、断続的に笑いながら起き上がった俺の後頭部をいやに優しく撫ぜた。定めて、コブを探しているらしい所作である。そんなもんは探してもどこにもないけれど、それにしても、こいつ。

(…ちか)

さっきまで襲われそうになっていたのに、どんだけ無防備なんだ。男として意識とか認識されてないとかそういう類のアレだったら癪に障るけれど、多分こいつの場合そうではなくこいつ自身に女としての自覚と尊厳が足りないだけで、…まあありあまる女の自覚で迫られたりしていたら、きっと俺もここまで油断して、のひととなりを受け入れたりしなかっただろう。

「……つーか、光さあ……」
「……なに?」
「……よっきゅうふまんなのはわかるんですけど…」

はじっとりと、俺の両目を捉えて詰め寄った。だから近いて。距離感が掴めないのは、大概目前のこいつも酔っぱらっているからなのか。

「時と場所、はともかく………人は選んだほうがいいよ?」
「………はあ………………お前、本当に救いようのないアホやな?」
「アホアホ言うなっつうかそんなアホを押し倒したのはあんたでしょ!?」
「俺かて選んで押し倒したっちゅーねん腹立つ!わかれやいい加減!」
「わかっ…………え、」
「…キョトン、やないわボケ」

鼻先10センチのところにいたの唇を奪うのは造作もなく。ただ直後、んー!とか色気のない声が響いたのは不愉快だったけれど、読んで字の如く、目を瞑ることにした。なんだかんだ、震える指を肩に預けて来る所作はいとおしくて口惜しい。未だじんじんと痛む額を鬱陶しく思いながら、薄目での顔を確認したら、この世の終わりみたいな顔をしていてむかついた。

「…なんて顔してんねん、しばくぞ…」
「もういっそしばいてくれ!?」
「あん!?」
「夢だから痛くないと思う!」

言い切った顔のに懇親の力を籠めてデコピンしたら、痛い痛いとのけぞって何故かそのまま蒸せて咳込んでいた。たいそやな、と呟いた俺は、改めて、耳まで赤くなった目前の人をぎゅうと、力強く抱き留めた。

「い、いたい…」
「そらそやろな」
「……シュミ悪いんだね、光」
「おい謝れ、俺と、あとついでに菊丸に」


微笑むの口元から、ココアと、コアントローの匂いがする。


 

〔脱稿〕 20170410 METHOD