鬼シフト10時間労働の所為で今日の私はすっかりゾンビになっていた。いつもならシャワーのあとだらだらテレビを見たり、爪に色味をほどこしてみたり、ヘッドフォンで音楽を聴きながら雑誌をよんだり、ただひたすらにだらだらしたりする宵っ張りの私だが、今日ばかりは早々ベッドに突っ伏し、まどろみに身を委ね始める。
(あー…)
(もうこれあと10秒で寝れる)
ゆめとうつつのはざまの時間、思考がぬかるんで夢と綯い交ぜになる心地良さを覚えていた私を、無機質で無思慮なバイブ音が遮る。ローテーブルの上、雑誌の下敷きになっていたらしいスマートフォンは、死ぬ間際の虫みたいにけたたましく震え、私は飛び起きた。
「んだよ!」
長めに設定されたバイブ音は、着信の類だ。私は舌打ちを漏らしながらスマホに被さっている雑誌を放り投げると、荒っぽくスマホを掴みにらみ付けた。それから液晶に表示されている名前を確認し、目を剥いた直後、再びの舌打ちを決め込む。
「着!拒!」
言い放ち、再びベッドで丸くなった私の傍で、やがてスマホは静まり、ほっと胸を撫で下ろす。
やいなや、今度は短いバイブ音が鼓膜を貫いて、私の胃にもやりとしたものが宿る。
(いやな予感)
見ないほうがいい、と頭の中で誰かが警鐘を鳴らす。しかし、見ても見なくても結果は変わらなかっただろう。
<終電逃した〜!>
<今んちの近くにいんだけど>
<行ってもいい?>
「ふざけんなよ…!エージ…」
二行目の時点でこいつの中では顛末が決定していたよな?と腹を煮やしつつ、私の瞳と思考は口惜しいことにしっかりすっかり覚醒した。
扉際攻防戦
「おっひさー」
「……あんたのそーゆーとこ、大っ嫌い」
「あはは!ごめんてー」
(あははじゃねーんだよ、マジで)
今日何度目かわからない舌打ちを遠慮なく漏らすと、怖いなあ、とまた慎みなく肩を竦める。そう、こいつのこういうところになんとなくほだされて生きていた。愛ってやつは、恋ってやつは、いつも論理に反していて、とりわけ恐ろしいものだ、とらしくないことを考えられる程度には私も大人になったのかもしれない。けどとりあえず今はそんなことどうでもいい。
「カラオケとか、ネカフェとか、駅前にいくらでもあったでしょうが」
「だって近くに住んでたし、元気かなって…あとお金かかるじゃん」
「最後のが本音だよね!?スケスケですけど!?」
「ちっがうよー、もー」
(こっちが「もー」だ)
(馬鹿エージ…)
この顔だけは非常にかわいらしい菊丸英二という男は所謂私の元カレというやつである。簡単に言えば考え方の不一致でお別れすることを選択したけれど、私の悶々とした気質と相反して彼はこざっぱり「でも、これからも仲良くしてよ!」と言ってくれたから当時は助かった。助かったけれど、この通りまあ不躾なところがたまにキズだ。その不躾さが、別れの一端を担ったことを、多分エージは判っていないだろう、と思う。
「…ねえ、エージ」
「うんにゃ?」
「……もしこの部屋の奥に男が居たらどうすんの、君は」
「あはは!」
「あはは、じゃ、ねーんだ、よ!あはは、じゃ!」
「その例えしてくる時点でいないっしょ〜、は!わっかりやすいな〜、相変わらず」
(く)
(クソうぜえ!!!!!!!!!!!!!!!!!)
かようにお気楽な男にわかりやすいと評されるとは、私自身ヤキが廻ったものだ。うん、口惜しい、とてつもなく口惜しい。拳に力を篭めつつ、唇から自然と低い声が漏れ落ちた。
「…はったおしていい?」
「それは勘弁!とりあえず入れてよ」
「…隣の駅に24時間やってるマックあるよ?」
「え〜つめた〜」
元カレに優しくする所以がどこにある、と強く思いながら、付き合ってきたときのクセでまあいいかと言う妥協が心の隅っこに生まれる。いや、だめだ、もし流れでそのまま再び男女の関係に縺れ込んだら、明日の私は自己嫌悪の海で入水自殺出来る。自分を買い被りすぎかもしれないが、まあなんかこいつの場合ありえそうで怖い。
「…とりあえず、私も疲れてるし、今日はぐっすり寝たいの」
「え〜、じゃあ何もしないから〜」
「じゃあって何!?」
「あはは、冗談だよ〜」
「薄ら寒い冗談やめてくれる!?」
私が自分の二の腕を摩って身じろぎした刹那、エージの後ろ側にぬっと翳りが生じたから油断していた私はひどく驚いた。私がひっ、と短く悲鳴した直後、影はぼそりと言葉を発した。
「…邪魔なんすけど」
聞き覚えのある声色に途端心を緩めて、エージの後ろを覗く。そこには上階に住まう財前光が、コンビニの袋を携えてぼんやり佇んでいた。
「あ、ざいぜ」
「邪魔、って…、ええええええええぇええ」
「おい、エージ、夜中だぞいい加減にしろ!バカ!」
「アンタもアンタで大概うるさいと思いますけど…ここ響きますよ」
「はっ…迂闊」
思わず両手で口を塞ぐ様を、財前くんがハッ、とバカにした笑みで一蹴した。
「つーか、痴話げ」
「マジで、いたんだ今彼!うわー初めまして!」
「ハァ…?」
得意技早合点のエージが、多分同じく早合点しようとしていた財前くんの台詞を全力で遮る。財前くんは眉間に深い皺を刻んだものの、すぐにことを咀嚼してくれたようだった。財前くんは意外に空気が読めるやつだからな、いつもあえて全力で読まずに生きているみたいだけど。とりあえず、エージがいい感じで勘違いしてくれて助かったと言えば助かった。財前光よ、お願いだからここで集中力を切らせず、空気を読み続けてくれ、と願いつつ、私はごくりと咽喉を鳴らし、気概の塊を吐き出した。
「…ひ、光、遅かったじゃん、おかえり!」
エージ越し、引きつる笑顔を投げた私に、財前くんは刹那目をまあるくして、それから、そう来たか、と息を漏らす。のってくれるのか、それともそってしまいやがるのか、どっちだ、読めない…。後日いくらでも飯を炒めてやるから、私の瞳の奥にある希求を感じてくれ、後生だから。なんなら、サービスでぜんざいをつけてやってもいい。
「………今日は遅なる言うとったやろ」
(よし!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)
私は内心力いっぱいガッツポーズしながらそっか、ごめんね、と出来るだけ優しく微笑んだ。いやいやと言う香りがこれでもかと言うほどプンプンするけれど、まあイヤだろうから仕方ない。とりあえずのってくれて助かった。エージには悪いけれど、この流れで隣駅のマックに誘ってしんぜよう。一晩くらい寝なくても大丈夫だよ、だって男の子だもん。
「へえ、またクリアヒットってやつ捕まえたね」
「は…?クリアヒット?」
「だって、君みたいな男すげえタイ」
「あーーーエージエージエージ黙ろうか、少し黙ろうか?」
「………元カレっすか?」
「そう!元カレ!菊丸英二だよ!よろしく!」
こんなに清々しく相対する元カレと今カレがあろうか。いやない。まあ実際今カレではないけれど。とりあえず余計なことを言う癖は今も健在なのだなと苦笑する私の目前で、何故か財前くんはエージと握手を交わす羽目に陥っている。何故俺が、と言う心の声が強く響いて来て内側から鼓膜が破けそうだ。
「…というわけなので、エージ、ごめんね」
「えっ、何が?」
「何が、って…泊める話に決まってんでしょ」
うん?と小首を傾げるエージの様子を受けて、不穏な空気が汗となり首筋を伝う。エージの向こう側で財前くんは、早く帰りたいオーラを全面に押し出しているからことさらに気が焦れた。この前財前くんの諸先輩方と盛り上がって朝まで自宅に居座ったことを根に持っているのだろうか。そのことなら後からスイーツ持参で謝罪したじゃあないか。持ってったナボナについて、『あー…バニラ味かあ』とありていにがっかりされたことを私のほうが根に持ちたい、マジで。
「男がいるなら、逆にケーカイする必要ないじゃん!」
「…はぁ!?意味わかんないんですけど!」
「光?くん?だっけ?終電逃しちゃってさー一晩だけでいいんだよー泊めてくんない?」
「……えっと…」
「あ、ん、たのそういうところが嫌いで別れたんだ私はー!くそエージ!」
ふてぶてしいにも程があるエージに堪忍袋の尾が千切れかけた私は、再び声を荒げる。ご近所さんすみません、全てこの阿呆でデリカシーのかけらもない菊丸英二が悪いんですなにもかも!
「…ひとまず、ここでごちゃごちゃやってへんで中入ったらええんとちゃいます?」
「そうだねー、お邪魔しま」
「い、いやだ!一度入れたら絶対出ていかないぞこいつは!」
「はあ、めんどくさ……」
「ざ…、光!?光―っ!?」
本音が口元から露骨に零れているぞ財前光、もうここまで来たら乗りかけた船なのだから最後までよろしく頼むってば!強めの眼力を財前くんに送りつけた私に、財前くんは軽く肩を竦め、そっぽを向いた。
「ええから四の五の言わず入れたれや、」
「うっ!?」
(嘘だろ!?)
協力体制のベクトルが完全自分主義モードに移行したらしい財前くんは、いつになく低い、ドスの利いた声で吐き捨てた。あまつ私の名前まで呼び捨てて。(まあ人のことは言えない)
「ホーラ、ひかるんもこう言ってるし!」
「な、なれなれしんだよ、てめわよ!」
「何分、散らかっとりますが、良ければどうぞ」
「……ざ…………、光………」
「なんやねん、怖い目ェして」
わざとらしく目を細めた財前くんの黒々としたひとみが、『こんな阿呆なことに付き合わせやがって、後で覚えておけよ』と告げている。怖い目は財前くん、君のほうだ間違いなく。
「じゃあ、彼氏の許可も得たので遠慮なくお邪魔しまーす!!!」
「ちょ、遠慮はしろ、せめて!!!」
「ほな、ただいまー…」
傍若無人の申し子のように、二人はずけずけと玄関先で靴を脱ぎ、私の横を擦り抜けた。二人の背中を見詰めながら、虚しく手を伸ばした私は、あああ、とか細い声を絞り出す。顛末が黒く塗り潰された私は、いっそ二人を残して隣駅のマックへ旅立ってしまいたかった。しかしまあそれは立派な現実逃避というやつで、かような形で巻き込んでしまった財前くんにぜんざい100杯、苺大福100個、100ナシゴレンではまだ足りないとのたまわれそうだから怖い。
「あー、んちの匂いがする!懐かしー」
「開口一番キモい所論はやめてくれないか!エージ!」
「…つーか、のもんばっかじゃない?この部屋」
「うっ…」
当然のことを指摘されて言葉に詰まった私は、ちらりと財前くんを脇見する。財前くんは、どことなくシニカルな笑みを湛えて吐き捨てるように呟いた。
「まー、転がり込んだヒモみたいなもんやから俺」
「ヒッ!?」
「ヒモ!?マジで!?」
「…まあ、それは冗談で、ちゃんと自分のウチは在るから、この近くに」
(………上階にな)
よりにもよってエージみたいな口の軽そうなやつに品格を問われかねないことを言い放ったから肝を潰したけれど、流石財前くん。うまく逃げた。逃げたというより、ただの事実を放り投げただけなんだけれど。
「なーんだ、びっくりしたあー」
自由気ままに伸びをしながらふわわ、とあくびを決め込んだエージは、なんとそのままベッドへ転がり枕へ突っ伏した。あまりのことにヒッ、と戦慄の声をあげた私はわなわなと震えながらその首根っこを捕まえる。
「泊めて貰う分際でベッドとかどんだけ厚かましいわけ!?」
「えー、いいじゃん、ゆるしてよぉ…」
枕に突っ伏したら2秒でまどろむ癖は変わってない…、そんなことまで覚えてる自分を含め腹を立てながら、私は本日何度目かの涙目で財前くんを見た。
「ひ…、ひかる…、なんとか…」
「あー…、はいはいはい」
このはい、は、了承ではなく、納得のイントネーションだ。唐突になんなんだ、と目をぱちくりさせたら、世間は狭いなあ、どうでもいいけど、と独り言つ。いやそんな謎めいた挙動の隙に目前の馬鹿はスヤスヤしてしまうんだってば、私の話を聞いてくれ。と気を揉んでいたら財前くんが驚愕の一語を吐いた。
「俺、この人知っとるわ」
「……ぇ?……そんなわけ…」
「一度戦ってんねん、…先輩が」
(戦う…?)
穏やかじゃない単語に顔を歪めた私だったけれど、普段の財前くんの生活を考えたらすぐ合点が行った。
「ああ、ネトゲ…」
「…しばくぞ、コラ」
「うわ……タメ語だと破壊力ぱねぇ…」
ボソリと呟いてのち、はっとエージを見たら、もう8割型あちらの世界へ足を踏み入れている。まずい、このままでは侵略される。こんなやつにベッドを乗っ取られて溜まるか。私だって疲れているんだ、こいつのせいで、さっきの数倍。
「エージ、ちょっと、せめて床で寝てくれ!?」
「んや、もう無理、数ミリも動けないょ〜」
「じゃあもう四の五の言わずに引き摺り下ろしますのであしからず…光、手伝って」
「はあ、もうええんちゃう」
「せやせや…」
「い、い、か、げ、ん、に、し、ろ!?」
髪の毛を、と掴もうと思いすんでで堪えて枕を掴んだ私は、そのまま横へスライド移動を試みた。が、なかなかどうしてうまくいかない。エージは頭蓋骨の振動を受けて、うー、とか、あーとか言っているけれどほとんど堪えてないようだ。むかつく。
「てかさー…」
「は!?何よ!?」
「…ここで一緒に寝るの嫌なら、彼氏んち行っても、いい、よ…お」
言うに事欠いて
何を言っているんだ、こいつは!?
絶句した私は本能の赴くまま拳をエージの後頭部に振り上げたけれど、後ろから伸ばされた腕に止められ、我に返る。振り向けば、当たり前だけれど財前くんがこちらを見下ろしていて、
「女でも手出すとこじれるからアカン」
とぼやいた。
「う……」
本当に、なんでこいつは時々こんなにまともなんだろう。少し自分が恥ずかしい。鼓膜を、微かな寝息が叩いて、ことさらに脱力した私は、財前くんの足元に崩れるように座り込んだ。
「つ…疲れた…」
「いや、俺のほうが疲れましたけど?」
「もう…それは、なんと詫びればいいのか、本当にすまんかったとしか…」
「…まー、しゃあないっすわ」
はー、長い息を吐いた財前くんは、自らの携えるビニール袋をはたと見て、今度こそ永遠のように嘆息した。半透明の向こう側に、うっすら『モナ王』の文字が見える。あっ、と私は鳴いて、瞬間、財前くんの黒目があからさまにこちらを直視する。
「どう落とし前つけてくれんねん…」
「も、もっかい凍…」
「死んだモナ王は二度と蘇らへんわ!あー…風呂上りの楽しみが…」
(知らねえよ!!!!!!!!!!!!!!)
…まともだなんて、前言撤回もいいところだ、と口元を歪めた私は、そういえば我が家の冷凍庫にとっておきが眠っているのをふと思い出した。それこそ、私の風呂上りの楽しみだったのだけど、かように面倒なことに巻き込んでしまったことへの代償と考えれば安いものかもしれない。
「ひ…財前くん、財前くん」
「あん?」
「代わりと言ってはなんですが、うちの冷凍庫にハーゲ」
「しゃあないなー、許したるわ…」
「…………ゲンキンもそこまで来るといっそ清々しいわ?」
「ええやろ、細かいことは…、で、何味?」
「…………バニラ…」
「あー…バニラかぁ……」
「モナ王もバニラ味じゃあねーか!!!」
ほど近くで喧々囂々とやってのけたのに、エージはぴくりとも起きる気配を見せなかった。ハーゲンダッツのバニラ味と、何故か貰い受けたモナ王の配置を交換しながら、ああ、何が悲しくて元彼とひとつ屋根の下…と思って居たら、玄関先でサンダルをつっかけながら、財前くんがぽつりと声を投げる。
「…で?」
「…は?」
「……ホンマに来るん?」
「…え?」
「別に、俺はええけど」
刹那、心臓だけふわっと宙に浮いたような心地に見舞われたのだけど悟られないようかすかに脇見した。いいや、わかっている、そういうことじゃあない。ハーゲンダッツのカップに張り付いた霜を撫ぜながら、私は動揺と格闘する。
「いや……悪いよ?」
「まあ、元彼の隣で眠りたいなら構へんけど」
「すみません…あの、甘えてもいいですか?」
「……高いけどな」
知れたことだ、と笑顔を張り付けて、財前くんにカップを投げる。ああ、こんなことになるならもう少し色気のある恰好をしていればよかったなあとか迂闊すぎる思案をした私は自己嫌悪に下唇を噛み締める。ひとまず、エージがいつ起きてもいいように、置手紙のひとつくらいは残して行かなければ。別段、見られて恥ずかしいものは家の中に置いていないはずだ。
『鍵は投函してあるので、帰るときポストの中に入れておいて下さい
P.S.次来たら殺します(^o^)』
これでよし。
私がそうこうしている間に、財前くんはいつの間にか、部屋から姿を消していた。軽く片付けでもしているのかもしれない。かわいいところあるな、一瞬思ったけれど、今まで幾度となく行われた突撃家庭訪問を思い返せば、彼の部屋が散らかりとは無縁なことが判る。単純に、さっさと帰りたかったのか…、かわいくないやつめ。
「まあ…いいけど」
エージのいやにかわいらしい寝顔に舌を出した私は、バイト帰りのまま放っておいたバッグだけ片手に携えて、家を飛び出した。301号室をノックすると、空いてる、と声が放られて、何故か少々どきりとする。ノブを下げ、扉を引くと、そこには歯磨き片手の超リラックスモードの家主が佇んでいて、今度は少々脱力した。
「…アイスは?」
「もおくいまひたけど?」
「早すぎるだろ!?もう少し味わってくれ!?」
「はは、ごひほーはまです」
(はは、じゃねーよ!!!!!!!)
歯磨きしながらもごもご喋る財前くんに判りやすく鋭い視線を送りながら、私はその脇をすり抜ける。自室と同じ配置のベッドに焦点を合わせた、と思ったら視界がぶれる。ああ、眠いのか、と私は思って、誘われるように部屋の奥へ進んだ。背中に響く、歯を磨くシャコシャコと言う音がなんだか心地良い。子守歌のようだ、とぼんやり思う。
「おえ、シャワーあびうんで、あほはてきとーに」
「あーうん、ありがと、財前くん」
「ひかう」
「………ん?」
ベッドに腰かけた私は、振り向き首を傾げた。財前くんはユニットバスの扉に手をかけて、なんだか少し不服そうにこちらを見た。わかれよ、と言っているように見えるが、違うだろうか。
「ひかう」
今一度告げて、財前くんはそのまま扉の奥へ消えた。
(ひかう?)
自分に伸し掛かる重力に逆らえず、そのまま横に倒れた私は、財前君の言葉を反芻し、瞳を閉じる。シーツから自分の家とは種類の違う、でも清潔な香りがする。財前くんの香りだ。このまま眠るのは失礼だろうか、せめて財前くんが出てくるのを待って…、しかし、そこまで持ち堪える自信がない。
「あ」
扉の向こうから、シャワーの音が小気味よく響き始めたのと同時に、私は言葉の意味を理解した。せっかく上手にまどろんでいたのに、刹那単純なほど覚醒してしまった自分が口惜しい。
「……ひか…る?」
試験的に呟いた自分に後悔しつつ、改めて、今の自分の状況に悶えた。顔が熱い。さっきまでオネムモードで、起きていなくては、と格闘していたのに、今はもうどうしたらいいかわからないから眠ってしまいたい。でもこんな状態でのんきに眠れるわけ、眠れるわけ…。
「…………まあ」
「…………しゃーないっすわ」
遠くで、長い溜息が聞こえた気がした。ふと頬に触れた、冷たい指の感触。心地よい。
「んー…」
「…………………ナマゴロシ」
既に楽しい夢の内側ではしゃいでいた私に、その声が届く由もなく。
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