押し付けがましく手渡されたおすすめのCDアルバムはなかなかどうして琴線を刺激して、室内でエンドレスリピートしていたものだから、上階の人間はしめしめと思ってるかもしれない。少々悔しいが、まあ自惚れさせておいてやろうと思いながら、私は今日も必死に歌い出したい衝動を制御している。雨の所為で溜め込む運びとなった洗濯物を干し終えて、一息ついた私は、決して聞こえないようお気に入りの3曲目にあわせて軽くハミングした。もうすでに音源は落としてあるし、歌詞カードもちゃっかりスキャンさせて頂いたから、さっさとアルバムを返してしまいたいのだけど、アルバムを借りてからこのかた財前光の顔を見ていない。そういえば稀なことだ、と思いながら、私は天井を睨み付けた。
「……死んだか?」
屍
と ナシゴレン
聞こえないのをいいことに手酷い言葉を放った私は、サイドボードに置きやられているCDアルバムに手を伸ばす。投函、と言う文字が脳裏に浮かび、私は薄手のパーカーを拾い上げて短い廊下を辿った。それなのに、玄関を潜り抜けてすぐなぜか上り階段に足をかけてしまったのは失態である。扉の前にたどり着いた私は、まあしょうがない、いなければ投函するのみだ、と思いながらしぶしぶインターホンに手をかけた。いやに聞き覚えのある呼び鈴が室内へ木霊する。私は腕組みをしながら、開口一番何を言おうか考えている。だがしかし、応答はない。
「……やっぱいないのか」
彼女でもできたのか、っていうかもともといたのかもしれない。インドアで偏屈だけれどイケメンであることに違いはない。まあ一緒に街を歩いたらこんな不細工が隣に並んですんません、くらいの恐縮ぶりにまみれる程度にはイケメンだ。っつーか単刀直入に顔だけで見ればむちゃくちゃタイ……いえ、なんでも。
「…ん?」
ふと足元を見てみると、扉の下に何か挟まっている。定めて、宅配便の不在票か何かだと推測出来た。屈んで手を伸ばし、拾い上げようとしたら体制が崩れたから、支えを求めて片手の平が意図せずドアノブに伸びた。
「うおっ!?」
途端腕を伝って感じたラッチの外れる感覚に、私は頗る驚いた。その反動で尻餅をつきかけたのをどうにか阻止して扉に両手を預ける。手のひらの中で不在票がくしゃりと潰れたけど仕様がない。…アルバムはとりあえずひび割れたりしていないようだ。
「不用心すぎるでしょ…」
いくら男の一人暮らしとは言え、鍵をかけ忘れるとは粗忽すぎやしないか。私は内心多いに突っ込みながら、ゆるゆると立ち上がると、扉に溜息を吹き付けた。一応オートロックではあるし、最上階だから危険は少ない。きっと財前光のことだから、指摘したところで『ああ、うっかりしてましたわ』とか、『別に、盗られて困るもん、ないんで』とか、まるでのれんに腕押しであろうことをのたまうに違いない。…かわいくないやつ。(顔以外)
「…ふん」
まあ響くかはわからないけど、ささやかに怖いことでもしてやろうと思い立った私は、うちで言えば玄関マットが敷かれているあたりにアルバムと不在票をそっと置いておいてやることにした。置いた覚えのない代物たちがそっと置き遣られるのはいくら無機質代表財前光とはいえ恐怖を覚えるに違いない…刹那程度は。アルバムを見て、すぐに犯人はつきとめられるから、それ以上の恐怖を与えることもない。…侵入してあれやこれやを物色したのではないかと言う邪推をされるのは腹立たしいけれど、まあそれも、弁解すればどうにかなるだろう。私は再びドアノブに手を添えると、静かにそれを沈めて、手前に引いた。安易なまでに引き寄せられた扉の向こうからは、うちとは少し毛色の違う部屋の匂いがした。私は恐る恐る部屋の中に視線を送る。ささやかな明かりが見て取れて、違和感がふわりと心を過った。
「おじゃまし…」
まーす、と言いかけて、やめたのは、心臓が潰れそうになったからである。そのまま、しゃくりあげるような声をあげた私は、履いたものもそのままで室内に飛び込んだ。
部屋まで続く手前の廊下、誂えられたキッチンの前で、こともあろうに、財前光が死んでいたのである。
「ざ、財前くん!?」
うつ伏せになって倒れるわかりやすい屍に駆け寄った私は、念のため固く、冷たくなった身体に触れた。すると、固く冷たくなっていると思っていた身体は意外にも暖かく、それなりに弾力すら感ぜられたから驚いた。
「…あれ、死んでんじゃないの、これ」
「…………勝手に、殺すな、て…」
「ひい!喋った!」
財前光の伏せられたかんばせから大いなる舌打ちが響く。…どうやら早合点が過ぎたらしい。いや待てよ、ゾンビとかそういう可能性も…。
「…まあたアホなこと考えとるんとちゃいます…?」
「…かっ、考えてねえし」
「…………ちょ、ひとつ頼まれてくれませんかね」
「な、なに」
死に水を取るとかそういうのだったら勘弁してくれよ、と思いながら目をぱちくりとさせたら、財前くんの顔がぎちぎちとこちらに向けられた。青い。やはりゾンビなんじゃなかろうか、と思わせる程度には。
「……なんか食うもん下さい」
「………は?」
「腹減って………このままだと、マジで死ぬ」
再び顔を伏せた財前くんの、腹のほうからはかない虫の音がタイミング良く響いた。私は、思わず財前くんの傍にうずくまり、ひとしきり腹を抱えて爆笑した。
「……うける…」
「……笑ってへんで、はよ…」
いやに使い勝手のいいキッチンで、持ち込んだ調理器具を振りながら、私は断続的に笑い続けていた。財前くんはと言うと、最後の力を振り絞り這うように部屋に戻って、今は黒いローテーブルに半身を預け、項垂れている。
「せめて食おうよ、飯くらいは…」
「…キリがいいとこまで思うと、いつも後回しになるんすわ」
「…今までよく死ななかったね?」
どうやら大学の研究レポートにかまけていたらしい財前くんは、ここ一週間相当食事をおろそかにしてきたらしい。もともと小食でもないみたいだから(ぜんざいをどんぶり2杯ぺろりと食べていたことから推測)身体はすり減っていったに違いないが、夢中すぎると我を忘れるタイプのようだ。いつの間に簡易食もストックが尽きて、まあいいかと思い没頭していたら、終わった瞬間糸が切れ、コンビニに行こうとして台所で力尽きた、とのことである。なんというわかりやすいアホさ加減だろうか。
「私だったら何を疎かにしても食欲を優先させるけどなー」
「…あんたといっしょにすんなて…」
「あ、なんか言った?」
「いえ、なんも」
言いたいことを垂れ流すのは性分だろうか。それともあえてのことだろうか、とわずかに悶々として、私は醤油を鍋肌から垂らし投入した。醤油の焦げるわかりやすい香りが彼のもとに届いたらしく、くぐもった声色とともに定めて腹の虫であろう音が微かに鼓膜を叩く。しめしめ、と思いつつ、食器棚を
覗いたら、それはもう簡素な皿が数枚置かれているだけだったからで泡を食った。仕様がない、多分男の1人暮らしなんて、多分どこもこんなもんだ。炒めたご飯を茶碗に入れて皿にひっくり返していたら、痺れを切らしたらしい財前くんの唸りがいよいよピークに差し掛かる。声色にカロリーを消費するくらいだったら黙っていればいいのに、と思いながら、目玉焼きを皿に滑らせた私は、やっとリビングへ足を運んだ。
「お待たせ、財前くん」
「…HP残量1なんすけど」
「おい、クレームか、食わさねーぞ」
「すんません、許して下さい、後生です」
「素直すぎてキモイ」
皿とスプーンを目下に置き遣ると、財前くんはいただきます、と一瞬だけ手を合わせて(こういう律儀さは持ち合わせているんだなあと少しだけ感心した)思い切りよく目玉焼きの中央にスプーンを突き立て、ライスに貫通させた。口いっぱいにご飯を頬張る姿は、なんだかいとけなく見えて可笑しい。頭になにやら一瞬疑問符を浮かべて、それをすぐさまやり過ごした様子の財前くんは、ふたくち、みくち、と食事を進めていった。
「あれ?もしかして…おいしくなかった?」
「いや…ただのチャーハンや思たんで、驚いただけっすわ」
「ごめん、家に賞味期限間近のチリソースがあったから、ナシゴレンにしちゃった」
「なしごれん…、ふーん」
頷きながらも咀嚼をやめないところを見ると、味に支障はなかった模様である。ただ、雰囲気から察するに財前くんはナシゴレンと言う食べ物と初めて対面したと見えた。とりわけ男のひとというのは東南アジア系の食べ物に通じていないだろうし、無理もない。そういや元彼も『生春巻きって全然春巻きと違う』と馬鹿みたいな文句を垂れていた。…余計なことを思い出してしまった。
「てか、危うくスルーしかけましたけど」
「うん?」
「まごうことなき不法侵入っすよね…、さん」
「うっ………」
1.5人前のナシゴレンを半分以上平らげたあたりで、思考が明瞭になったたらしい財前くんが面倒なことをのたまった。不在であろうと踏んで侵入し、挙句の果てに「おじゃまします」の一声まで聞かれている。悪気の塊とも言える所業。もはや言い逃れは出来ない。事実、悪さするつもりこそなかったとはいえ、悪戯をするつもりではあった。あっ、悪戯って、悪い戯れって書くんだった、そういえば。
「い、いろいろと偶然が重なりまして、鍵が空いていることに気付き、かような運びに…」
「言い訳乙」
「す、すみません…いや、CD置いて帰ろうと思ってたんだ、本当に」
「……まあ、盗るもんもないし、結果オーライやったんで、目を瞑りますけど」
「……ありがたいことです」
「カノジョでも来てたらどうするつもりだったんすか」
改めて口に運んだご飯を咀嚼しながら、財前くんはそれとなく言った。私は思わず目をぱちくりとさせて応じてしまい、しまった、と思った。財前くんは薄く笑み、直ぐに言葉を継ぎ足す。
「挙句取り込み中、とか、笑えへんで」
「…そこまで来ると鍵かけないほうに悪意を感じるわ」
「あー……、なるほど」
納得したのか、そうでないのか判らない相槌で、財前くんは先に目玉焼き部分を全て平らげた。好きなもの最後残し、かつ卵大好物の私にとってはありえないなと頭の片隅で考えながら、なんとなく胃の腑が悶々とする。残念無念また来週、とでも思いあぐねているのか。先刻真っ先に自分で仮定していたことじゃあなかったか。カノジョがいなかったらどうするつもりだったのか。馬鹿なのか、私は。
「………まあ、いないっすけどね、カノジョなんて」
「………はっ、いないの?」
「いませんて、こっち来てからこのかた、ずっと」
しらっと言ってのけて、財前くんはウーロン茶をがぶがぶと飲み干す。再び呆気を纏わせた私は、悶々としていた胃の腑からじわじわと熱いものがこみあげてくるのを覚えた。たばかったな、こいつ。しかしまあなんで嘘ついたんだこの年下野郎と罵倒するのも完全なる筋違いであるし、一体全体どんな類の怒りだよ、と言うものであるから、私はローテーブルの下で拳を握って、フーンと、それはもうそれとなく返答するに留めた。
「…まあ、財前くん、顔はいいけど変だしね…」
「はあ?俺なんすこぶる一般的やと思いますけど…、アンタに比べたら」
「すこぶる一般的なやつはゼミの論文でゾンビになりません」
「齢21にして夢中になると言う素敵な言葉を見失のうたら…、30でバアサンっすよ」
「っく…、口の減らないクソガキめ…」
「1個しか違わへん言うとんねん」
そんなに早く米をブドウ糖に分解出来る力を持ち得ているのか知らないが、さっきまでのしおらしさはどこへやら、財前くんは見る間にいつもの超舌を捲し立てるまでに回復した。かわいそうだなあとかかわいらしいなあとかいうファンシーな気持ちを湛えた私の穏やかな心、グッバイ。嘆息をついて、それでもペットボトルからウーロン茶を注いでやる私の慈悲たるや菩薩レベルだ。そしてそのコップを傍若無人に煽るこいつ。こいつは何に例えればいい。眉間に皺を寄せながら目前の人を見つめていたら、いつの間に最後のひとくちを終えたらしい彼が、そっと手のひらを合わせて、会釈した。そういえば、頂きますもちゃんと手を合わせていたことをふと思い出す。
「ご馳走様です」
「あー…、どうも、お粗末様でした」
「うまかったっす、店始めたらどうですか」
「………バカにしてんでしょ」
えも言われぬ笑みをふと口元に含ませて、食器を持った財前くんが立ち上がる。もしかして、いや、もしかしなくても、流しに持っていくつもりだろう。食べたまましばらくテレビをぼんやり見て片付けを後回しにする私とは大違いだ。普段不躾なのに、こういう部分は細かいのか。親の教育のなせる技だなと思いながら、私は見も知らない彼の両親を崇め、自分の両親に謝罪した。
「…私やるよ、財前くん」
「あー、いいっすわ、そこまでやらせたら流石に悪いし」
そうして、キッチンへ向かった財前くんは、玄関の方向に目をやってふと足を止める。食器を水につけてのち、そのまま歩み進んだ彼は、そういえば玄関脇に置き去られていたCDと不在票を手に取った。あー、ごめん、と何とはなしに謝罪を投げると、財前くんはなるほど、と小さくごちてこちらに戻ってくる。
「これ、返しに来たんや」
「うん、そう」
「別に、投函してくれて良かったのに」
「いやまあ…、一応感想でも伝えられたらいいなと思って」
「聞かんでもわかるって、爆音で聞いとったやろ、毎朝」
「え、うるさかった?」
「毎朝アレで起きとりましたって、…ほら、俺繊細やないですか?」
「知らねえよ、ってか後半虚位だよね?間違いなく」
CDケースをひらひらとさせながら、部屋に戻ってきた財前くんは、鈍感な私でも分かる程度には満更でもなさを滲ませていた。かわいいところあるじゃん、と心で呟いた私は、ありがとう、ととりあえず述べて、軽く一礼した。
「不在票…アマゾンさんや」
「…うん?」
「多分このアーティストの新譜なんで、データ落としたらまた貸しましょか」
「え、マジか、それは嬉しい」
「………そんかし」
「……はっ?」
率直に喜んで見せたのがバカみたいな交換条件の口火が切って落とされる。私はたぶんあからさまに歪んだ顔を張り付けて、財前くんの不躾であろう言葉を待った。なんだろう。なんだって言うんだ。
「引き換えに1なしごれんいただきますから」
「………なに、いちナシゴレンって」
「わかるやろ、なしごれんひとつで1なしごれん、なしごれんふたつで2なし」
「あーあーあー、わかりました、なんかもう軽くゲシュタルトが崩壊しそうだからやめて」
「おおきに」
あれっ。
わかったっていうのはそういう意味じゃないんだけどなと思いながらも、撤回しようと思った頃には財前くんは身を翻し、再びキッチンのほうへ足を運んでいたからうまくいかなかった。しかも、なんだか知らんが鼻歌混じりで。
(……腹が満たされてご機嫌と見える)
(……単純なやつ)
ひとまず
なんだか知らんが私はあのキッチンでもう一回、ナシゴレンを作ることになりそうである。…新しいチリソース、買わなくちゃじゃん。
ハミングにはいつのまにか歌詞が織り交ぜられ、私の鼓膜を叩く。あー財前くんってこんな歌声なんだ、と思いながら私は、意図せず口元をゆるませて瞳を閉じる。
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