久々の独占権を得て、馬鹿みたいに浮かれきっていたのがまたよろしくなかった。売店でジュースを2パック購入した光は珍しく鼻歌交じりで廊下を突き当たり、左に折れ、階段を上がる。3階の踊場付近に誂えてある椅子が2人の定位置で、何事もなければ昼食を終えたがそこに鎮座している。はずだった。
しかし階段を2階まで登りきったあたりで、光は酷い憂き目に合う運びに至る。

「…な…!」

何故自分の大事な人に、自分の決して大事ではない先輩が覆いかぶさっているのか。

「あっ、財前、これは」

かぶりをあげ、多分大事ではない先輩の謙也は上体を起こし、弁明しようとしたに違いないが、うまくいかなかった。なぜならば刹那謙也は光のとび蹴りを食らって壁際にふっ飛ばされたからである。謙也は遠のく意識の内側で、『足元だけはちゃんと見ときや』『ああやっぱり言わんこっちゃないわ』と言う親友の優しい声色を聞いた気がする。

「…人のもんに何さらしとるんすか、先輩マジ死んだほうがいいっすわ」
「……いや、ちょ、光、私あんたのもんちゃうし…って謙也あ!」


ガムシャラバタフライ
-Z氏の場合-



財前光はの幼馴染である。7年前、光の家の近くにが引っ越して来たことがそもそもの発端だった。年がひとつ離れているのもあってはじめは小学校や街中で擦れ違っても互いに気付かなかった2人だったが、光には年の離れた兄がいて、にもまた年の離れた兄がいて2人がたまたま同じ大学だったことからやっと関係が繋がる。そして何より、2人の兄は自分の年の離れたきょうだいのことを溺愛していた。ある日兄に手を引かれて連れて行って貰った財前家で、小さな光に初めて対面した日のことをはとてもよく覚えている。声をかけるまで傍若無人ですました様子だった光が、自分の存在をみとめた途端ぱっと兄の後ろに隠れたのを忘れられない。

「なんや、光、可愛い子来たから照れてんのか」
「ちゃうもん、ばか兄」

指摘されてとりわけもじもじと赤くなった少年はたったのひとつしか年が違わないのにとてもいとけなく思えて抱きしめたくなった。でもこの警戒ぶりではそれも容易くはないだろう、と思いながら、はとりあえずにこりと笑って見せる。

です、よろしくね、光くん」

のちの光曰く、『まーあれが所謂一目惚れの瞬間っちゅーやつですわ』らしいが、この時舌を出され逃げられた覚えのあるからするとイマイチ釈然としない。まあ光が7歳、が8歳の時の話だ。美化や脚色も多いにありえるだろう。
あんなにいたずらでかわいらしかった光くんがどうしてこうなったのか、いろんな意味でよくわからない。小学校高学年くらいから周りの女子に取り沙汰されるようになったのはなんとなく覚えている。兄の顔の造りもさることながら、光の容姿も違わず端正と言えた。そして同時期から内面に眠っていたであろう生意気さがこんこんと溢れ出し、このまま重箱の隅をつつきたがり、尖りたがる中学生特有の性質に成り下がってしまうんだろうと予感した瞬間、たまたまばったりと出くわした通学路であっさりと愛の告白まがいのことをされた。まがい、と濁してはみたけれど、あれはまごうことなき愛の告白だった。

「中学にあがったら言お思ってたんすけど」
「うん?何よ改まって」
「はあ、告白の時くらい、改まったほうがええんとちゃいます?」
「え?どういう意味?」
「せやから、好きなんすわ、姉のこと」
「…え?どういう意味?」
「そのまんまの意味」

俺のもんになってくれませんかね?と続け様に言われたは、あの日あの時、兄の後ろへ咄嗟に隠れることの出来た光が羨ましくなった。隠れたくてもどこにも隠れることの出来ないは、道すがら唐突に蹲ることしか出来なかった。

「…姉、通行人の邪魔やで?」




とりあえずその場は濁したけれど、いかんせん近所であるし文明の利器は発達しているし、なにしろ同じ学校に通っているからいつだって居場所の目途は立っている。最近の光はダウナーじみていたから油断していたけれど、いざとなった時の馬力たるやすさまじい。常に低体温で怠惰を気取っているのは、こういうときのための温存で、彼の処世術なのだろうとはこのとき痛感した。付き合う云々については、最初イエスかノーかの選択肢が用意されていたけれど、ここ最近は『いつになったら靡いてくれるんすか』という類の台詞が目立ってきたから恐れ入る。まあそんなんでも光はかわいいかわいい弟のような存在で、だから『駄目っすか』なんてしおらしく言われた日には、首をぶんぶんと横に振って抱き締めてやりたくなるのだけれども、ここで情に流されたらお仕舞いだ。にとって光は可愛い弟でも、光にとっては決して頼りになる姉ではない。そこの相違が生じる以上、光の声に応じてはならないとは心に決めている。

兎に角そんなわけで、光はのことがこれ以上ないほど好きらしい。はじめてまみえたあの瞬間から、ずっと、と光は言っていた。




…まあ、だからと言って、事情も知らず跳び蹴りはあんまりだ、とは湿布のはくり紙を剥がしながら大きな溜息を漏らした。

「ごめんなぁ、謙也ぁ」
「え、いや、なんでが謝るん?」
「せやって…」
「もとはと言えばこいつがアホみたいに爆走してたからアカンねん、なあ?」
「ったぁ!!!」

丸椅子で項垂れていた謙也の背中(きっと患部)を叩いた保健委員の蔵ノ介は、涙目の謙也を尻目にへ宥めるような笑顔を送った。事実、下り階段を暴走して教室へ向かおうとしていた謙也と階段を上ろうと曲がったの正面衝突。それがあの事故現場に至った所以である。

「でも唐突に跳び蹴りはないやろ、跳び蹴りは…」
「頭に血ぃ昇ったんやろ、ゾッコンのにこないなやつが覆いかぶさってたらそら蹴り飛ばしたくもなるて」
「おい、白石それどういう意味や…」
「せやったらやっぱり私のせいちゃう」
「はあ、なんでそないなるん」

の掌から湿布を奪い取った蔵ノ介は、これまた豪快に謙也のワイシャツを捲るとぞんざいに患部へ押し当てた。そこでまたひとつ謙也が鳴いたけれど、蔵ノ介は勿論、いささか肩を落とすの耳にも届いてない様子である。謙也は虚しくなりながら節々の痛みを擦りつつやれやれと言葉を漏らす。

「俺なんかより財前の心配したほうがええんちゃう…」
「はっ…?」
「あーまあ、…せやんなあ」
「やろ?」

困惑の最中2人の間で視線を行き来させるは、あのとき起き上がってすぐ蹴り飛ばされた謙也にかまけてしまった自分の傍から、いつの間にいなくなっていた財前のことをふと考えた。

「…本人は、助けたった気持ちなんとちゃう?」
「まあ、俺にとっちゃ幾分か不本意やけど、状況的にそうなるわな…」

その折の財前の顔は見えなかったけれど、2人分のジュースを携えながら、寂しそうに俯いてその場を後にした姿が頭を過って、なんとなく仕舞ったというような気持ちになった。


「…うん…」
「まだ休み時間5分あるで」

トントン、と腕時計を指差しながら蔵ノ介が片目を瞑る。弾けたように立ち上がったは、保健室の扉に手をかけてから、振り返り、今一度謙也にごめん、と告げた。

「なんぼ謝りよんねん!重み薄れるわ!」
「いや、せやってウチの光が…」
「ええからはよ行けやもう」
「うん、ありがと!」

ぱたぱたと小さな足音が遠ざかるのを聞きながら、クラスメイトの2人はほとんど同時に息を吐いた。

「…なあ謙也、『ウチの光』ってどういう意味なん?」
「…知らんけど…たいそうやわ…かなり」

本当の本当は、財前より自分が一番かわいそうなんじゃないだろうか、と思うくらいは許して欲しいと軋むからだを抱えながら、謙也は再び項垂れ、蔵ノ介はそんな親友の肩に小さく掌を預ける。



光はすでに中身の失われたいちご牛乳のストローを噛み潰しながら外国語で紡がれる旋律を鼓膜でただひたすらに受け止めていた。どこの国の言葉かもよくわからない洋楽は歌詞が入ってこないから聞き流してストレス解消するには持って来いの産物なのだけど、今はどうにも効力を発揮しない。胃の腑がむかむかして仕様が無い。3階の踊り場。二人の定位置だ。脇を見れば、本来居るはずだったの代わりに献上する予定だったコーヒー牛乳が置かれている。ふん、と鼻を鳴らして携帯の液晶を覗くと、もう休み時間はたったの5分しか残っていない。諦めを胸に宿して、曲の切れ目で退散しようと心に決めた。
もともと、何故ここに居座ってしまったのか判らない。そんなに執着するなら、二人の後を追って保健室に行ったって良かったはずだ。あの折は逆上して見せたけれど、後から思えばあれはどう転んでも行き当たりばったりのシュチュエーションで、ヘタレの謙也に女を(しかもありていに光が惚れ込んでいるを)押し倒すなんて根性爪の先ほどもあるわけがない。ありきたりに爆走していた謙也にぼうっとしていたがぶつかってそこにたまたま自分が居合わせた、それが正解に決まっている。そう整理したはずなのになお内臓をとりまく、この不快感は何だ。

ね…』
『ったた…死ねるで、これ…財前…』
『け、謙也、大丈夫、ちょっ、いける!?』

ああ、あのとき、が謙也の元へ駆け寄ったあのしゅんかん、自分は拗ねたのか。だからこうして自暴自棄にひとりきりたそがれているのか。そう咀嚼して光は大概自分がいやになった。

「…クソガキ…」

呟いて、爪先を見詰める。改めてかじったストローからはもはやいちごの香りすらしない。曲がアウトロにさしかかろうとしている。刹那、左耳に違和感を覚えた。カナルがはらりと抜け、顔を上げるとすぐ傍にの顔が控えていたからぎょっとした。

「ひかる」
「…わっ…と、ビビッた」
「声かけてんのに全然気付かへんねんもん」
「あ、すんません」
「ええよ、良かったここに居て」

は光の左側に座り、横に落ち着いていたコーヒー牛乳を手に取る。貰っていいの?と首を傾げると、光が遠慮がちに頷いた。

「ごめんな、光、ほったらかしにして」
「…別に…、平気っすわ」
「ごめんごめん」

機嫌が斜めと推測されているのか、は光の前髪をふわふわと撫ぜた。加えてこんなことで宥められると思われている自分はどうなんだと感じるけれど、事実彼女に対してはかように安易な部分も持ち合わせているかもしれない、と思う。

「…あれはただの事故やから」
「気付きました、あとから」
「せやろ、あの謙也やで」
「ホンマですわ、アホでした、俺」
「謝っとき?」

光はその折一瞬だけ眉を潜めたけれど、それからちらりと上目での瞳の色を確認して、すぐにこくりと首を縦に振った。従順でかわいいな、と思いながら、ふと指を御髪から離すと、少々名残惜しそうに瞬く、長い睫。ああそうだ、光はもうあのときの小さな男の子とは違うんだと感じながら、無造作にパックへ差し込まれたストローにくちびるを寄せる。その時、唐突に振って沸いた感情は、口内に広がるコーヒーの味よりずっと苦くて驚いた。

姉?」

自分が今のまま答えを濁し続けたら、光は、きっとーーーー。

ほとんど焦点があっていなかった瞳の先がぐらりと揺らめくのを他人事のように覚えていたら、急にぬくもりが振って沸いたから驚いた。驚きのあまりに燻っていた思考もわやくちゃになってままならないまま弾け飛ぶ。気付けば光の半身がすっかり自分に覆いかぶさっていて、ほどなく、伸びた手にそのままぎゅうと抱きしめられる格好になった。コーヒー牛乳が掌から零れ落ち、転がったけれど、はっきりいってかまけている余裕はなかった。

光が、自分を抱き締めている。

咀嚼した途端、足元からせりあがるように羞恥の波が訪れて、どうしようもなくなった。

「ひ、光っ、なにして…」
「……せやってやっぱり納得いかへんから」
「は!?」
「謙也さん、ずるいっすわ」
「…な……」
「俺かてずっと、こうしたかったし」
「い、ま、することやないでしょ」
「いまがいい」
「よくない!」

授業開始間際、人はまばらとは言え過ぎて行く踊り場の隅で押し問答している二人は定めて微笑ましいバカップルに思われていたに違いない。先に感じた侘しさのようなものを返してくれと思いながら、胸を突き返そうと思うけれど流石スポーツ部エースなだけあってうまくいかなかった。こういうときに限って早く鳴らないチャイムは本当によく出来ている。すっかり赤くなった耳元で、わざとらしく光が呟いたのは、もはや常套句だったけれど、いやに鼓膜に馴染んで、眩暈がした。

「やっぱちょー好きっすわ」


 


20130907 ガムシャラバタフライ-Z氏の場合-