あ、やばい、と思ったのも束の間、ぐらつく身体、傾く視界。砂混じりのグラウンドに尻餅をついた私は、わっ、と言う、あまり女らしくない悲鳴を漏らした。大丈夫、と駆け寄る体育教員。申し訳程度に張られたパーテーションネットの向こうから、男子の視線まで引き寄せてしまったらしい私は、もはや痛いというより恥ずかしくて仕方がなかった。先の悲鳴とは打って代わったか細い声で、はい、と頷いた私はそのまますっくと立ち上がろうとした。けれど、うまくいかなかった。痛みで身体が支えられず、再び尻餅をついた私の、羞恥たるやひとしおである。

「保健委員、連れてってあげて」

体育教師の声を受けた保健委員が慌てた様子でこちらに駆け寄る。ごめんね、と呟いて、私は彼女の肩を借りた。ええよ、と人当りよく笑んでくれたから、ひとまず、安堵の溜息を漏らす。右足のじくじくした痛みをこらえながら、私もどうにか笑みを張り付かせた。盗み見たパーテーションネットの向こう側は、すでに私のことなどどうでもいいという風でこちらも安心した。そうだ、ハードルにひっかかってずっこけた私のことなど、話のネタにもならないから早く忘れてしまえ、と思っていたら、ただひとつの視線がふとこちらにぶつかる。ナンバリングビブスを着ている彼は定めてサッカーの試合中だったけれど、ボールは遠くでやりとりされているから、もしかしたら暇だったのかもしれない。というか、そうであるに決まっている。


-ザ・ジャッジメント-



湿布が功を奏したのだろう、放課後にもなると右足の痛みはだいぶましになっていた。それでも、全体重をそこに預けると流石に辛いので、壁に手をつきながら、ホームルームが終わりさんざめく廊下を私は一人静かに歩いている。課題のために借りたい本の返却日が一昨日だったから、今日あたり図書室へ借りに行こうと思っていたのだけど、足の所為で心が遠のいた。しかし、万が一借りられて、再びのお預けに耐えていたら、課題の提出期限がスレスレになってしまう。どうせ図書室は1階、昇降口を横切った廊下の少し先だ。歩くと言ってもたかが知れている。加えて今日は木曜、テニス部がお休みだから、財前くんが受付に居るかも知れない。いつもお気に入りのソニーさん(ヘッドフォン)を耳にひっかけて音楽を聞いていたり、眠そうに携帯をいじくっていたりするいやにアンニュイな彼は、決して受付向きではないけれど、その様子を垣間見に来る女の子が少なくないことも、私は知っている。 臆面もなく、話かけられる自分は、もしかしたら疎まれているかもしれないなあ、あの転校生調子に乗ってやがるくらいは思われてるかなあ、と呑気に悩んでいたら、すでに図書室の扉はもうすぐそこまで迫っていた。鞄を左肩に引っかけ直した私は、図書室の扉を開いて、受付へ視線を預けた。
…誰もいない。最悪誰もいない場合は受付に置かれている貸出手順を読みながら自分でバーコード読ませればいいだけなのだけれど、このずさんな雰囲気を受けて一層、今日の当番は財前くんだろうと決め込んでいる私は少々手酷いかもしれない。幸い人はまばらで、貸出に来る人も繁くはなさそうだ。

「…そこにぼーっとつったってられると、入れへんねんけど」
「わっ!」

勝手な見解を覚えている私の後方から、唐突に財前くんの声が降って湧いたから驚いた。財前くんは気配を殺すのが上手(本人はそんなつもりないと言う)だから困る。わたしはにじり寄るよう壁に避けて、財前くんはまったりとした足並みで室内に進入する。

「やっぱ今日財前くんだったんだ?」
「ホンマはちゃうねんけどな、さっき先輩から代わってくれってメールが来てん」
「よく断らなかったね…?」
「こっちも部活でよう休むしな…かったるいけどしゃーないわ」

ふわわ、と欠伸をかます様子は、まさに『本当に本当に面倒臭いけど仕方なくやって来た』感が滲みでていて、私は思わず笑ってしまう。財前くんは少し迷惑そうな顔をしたけれど、何も言わず、ふん、と鼻を鳴らしただけで、そのままだらだらと歩みを進めてカウンターの内側にある椅子へ腰を落ち着けた。

「ウチの制服なん着てるから、遠目一瞬か判らへんかったわ」
「そういう見分け方、やめてよ」
「前のほうが似合ってたで?」
「…財前くん、わざと言ってるでしょ」

イヤ本音、なんてさらりと言ってのけるのがマジで本心臭くて憎らしい。確かに今まではセーラー服だったから、ワンピースに袖を通して、鏡の前に立ったとき少し違和感を覚えたりはしたけれど、そんなにありていに告げてくることないのに。むっとした顔で踵を返した私だけれど、まあ堪えていないであろうことは重々承知だ。どちらかと言うと足のことを忘れて勢いよく背中を向けたから、重心を間違えた自分のほうがつらかった。たた、と情けない声を漏らしながら、借りたい本のあるべき場所へ向かう。蔵書が増えて多少のレイアウト変更がされたのか、欲しかった本はもとあった場所よりさらに奥まった場所へと移動されているようだった。空中で指を這わせて、背表紙の頭文字をぶつくさと読み上げる。違う違う、これじゃない、これでもない。そうやって最終的に視線が行きついたのは、なんと本棚の一番上の段であった。うわ、と意図せぬ声が唇から漏れて、じわりと脂汗が滲む。

「うっそ…」

通常ならば颯爽と近場の脚立をくみ上げて、スカートの中身だけ注意しながら手を伸ばせばいいだけだけど、この足ではそれをするにも抵抗がある。万一脚立の上でぐらついて、床で潰れた蛙みたくなったら体育の時間以上の参事である。しかも第一発見者は受付にいる財前くんである可能性も高く、そんなみっともない姿を見られたら後で何言われるかわかったもんじゃない。どうしよう、と俯いて、唇に指を寄せて唸っていると、本棚で出来た暗がりにさらなる影が重なって、私の脇で動きを止める。

「何してるん」

顔をあげると、財前くんが数冊の返却図書を持って傍らに佇んでいた。自分で借りたものは自分で戻すのが基本ではあるけれど、多分それらはこの界隈レイアウト変更に伴って返す場所が判らず匙を投げて図書委員に預けられたものたちなのだろう。まがりなりにも図書委員である財前くんは、それなりに図書室のレイアウトも把握出来ているようで(あまり勉強を頑張っている感じはしないけれど、成績が拙くないということは頭の出来がいいんだと思う)ほとんど悩むいとまもなくひょいひょいと返却をこなしていく。

「借りたい本があそこにあってさ」
「…脚立つこたええやん?…あ」
「…あ?」
「足痛いんや?」

大きく背伸びしながら、2段目の本棚に最後の一冊を差し入れた財前くんは、そのままこちらをちらりと見遣る。

「随分派手にやらかしとったもんな」

矢張りあのとき、多いに余所見を仕出かしていただけのことはある。お前の失態しかと見届けたぞ、と言わんばかりのせせら笑いで背伸びを止めた財前くんは、持ち上った学ランを引っ張って、ふうと大きな息を吐く。

「で?」
「…で、ってなに?」
「どれ?」
「は…?……主語」
「わかれや、取ってやるゆうてんねやろ」
「わかるか!」

不覚にも図書室でやや声を荒げてしまった私は、両手で口を押えてあたりを伺う。伺ったところでここはそびえる本棚の影だから、視界に留まる財前くんの姿以外見える道理はないけれど。アホ、と呟いた財前くんは吹き出して、私の額をグーで小突いた。まったくもって痛くはないけれど、むっとした私は上目でその面立ちを睨みつける。

「おー怖い怖い」
「うわ、マジむかつく…」
「まーええやないか、で、どれやねん、はよ言って?」
「…………『審判』」

言い様は気に食わないけれどとりあえず助かるには助かるので、お言葉に甘えようと気持ちを切り替えた私は、本棚の最上段、丁度真ん中に位置する厚手のハードカバーを指差した。あれな、と零した財前 くんは、そのままそれに向かって手を伸ばそうとしたから目を見張った。さっき2段目の本を返却するのに背伸びをしていたのは、記憶に新しすぎて言葉もない。

「ちょ、脚立持ってくるよ?」
「えー、いらん、平気やって」
「無理っしょ、だって財前くんチ………」
「……………あ?」

母音一文字に美しく濁点をつけた財前くんはぎろりと言う漫画的効果音を携えてこちらに視線を預けた。一方、私の頭の中はやばい、まずい、と言う単語でごちゃごちゃと犇めき始める。

「…ちー…ち、ち、…ちょっと身長が足りなくない?」
「何の為に言い変えてん!ふざけんなよ

平均身長は多いに上回ってるっちゅーねん、と続けた財前くんは、今度は先刻よりいささか強く私の頭を小突いた。確かに、14歳の平均身長から比較して考えれば、財前くんの背丈は大きいと言えるだろう。彼が小さく見えるのは、環境の所為だ。彼がいつも身長のすらりと高い先輩方や友達に囲まれているから損をしているだけなのだ。しかし、一般的にチビじゃなかったとしても、本棚に手が届くか否かはまた別の問題である。一般的にチビじゃなかったとしても、今は脚立なしで本棚の最上段に手が届くかどうかが問題なのだ。…一般的にチビじゃなかったとしても。

「ごーめんごめん、言葉の綾ってやつですよ、財前さん!」
「俺の貴重な優しさポイント返せや!ホンマ腹立つ…」
「でも、だって、…だあーって、届かないでしょ、実際」

開き直って腕組をした私は、一瞥するような瞳を差し向ける財前くんを蹴散らすべく身を乗り出した。しかし財前くんもそんなことくらいで怯む道理はなく、対抗するように腕を組んで顔を近付けてくる。近い近い、と、逆にやや怯んでしまった自分が恥ずかしい。

「ほーん、ほなら、巧くいった暁には、何してくれるん?」
「は、なに?どういうことよ」
「ドチビの俺にはどうせ不可能やねやろ?」

せやったら不可能を可能にする労働報酬くらい、払って下さいますよね?とたしなめるように続けた財前くんは、引きつった笑いを口元に浮かべている。どうやら地雷のようなものを完全に踏み抜いてしまったらしい私は、立場的にも感情的にももはや財前くんの売った喧嘩じみたものを買うしか術を持たなかった。

「そんなに言うなら、とってみなさいよ!そしたら何でも言うこと聞いてあげるから!」
「…言うたな、お前、見てろよ」

このときの勝ち誇った笑みを見てなお、届くわけない、だって2段目ですらあんなに無理をしていたもの、と余裕めかしていられた自分はどうにかしていたかもしれない。だってどうやら財前くんはテニス部では天才とか呼ばれていて、とりわけテニスじゃなくても運動神経のポテンシャルはピカイチだった。(真面目にやれば、の話だけれど)財前くんの体力測定の結果なんて知ったこっちゃないけど(だってその頃私はまだこの学校にいなかったし)足のバネを巧みに利用した華麗な垂直跳びの成績は、学年男子上位に躍り出ていたことが容易く想像出来る。

「せい、やっ、!」

目前で繰り広げられたそれら一連の綺麗な流れを、口をあんぐりと、だらしなく開けて見詰めながら、私は、後悔の二文字がじわじわと近寄ってくる音と、財前くんの満面から放たれる、どや、と言う類の効果音を確かに聞き取った。やばい、これはやばい。だって私、さっき何て言った?ふわふわとしてしまった記憶の奥底から自分の発言を手繰り寄せる。
『そんなに言うなら、とってみなさいよ!そしたら何でも言うこと聞いてあげるから!』
ああ、売り言葉に買い言葉、とは言え、何であんなことを言ってしまったのだろう。よりにもよって、よからぬことを頼まれるのは想像に容易い、この人、財前光に。

「ほれ、お望みの」
「あ…り、が、とう…?」
「その疑問符、いらんわ」

胸元に突きつけられた『審判』がずしりと両腕に圧し掛かる。図書室の本ひとつで、随分重い貸しを作ってしまったものだと私は痛感して、恐る恐る上目のまま財前くんを凝視した。見目だけは麗しいその人は腕を組んで、あたかも品定めするような瞳でこちらを見下げていた。(実際そこまで身長差はないけれど、心情的な問題だろう)

「…ホンマに何でもするん?」
「あ、あの、お小遣いは月3000円しか貰ってません、テストの成績がよくても、ご褒美で2000円ボーナスがいいとこで、その、あの、ぜんざい食い放題とか、新しいソニーさんとかは、その」
「はぁ?お前そないなこと要求されると思っとったん?相変わらず想像力がお粗末やな」
「ざっ、財前くんのアイデンティティがお粗末なのが悪いんでしょ!」
「お前みたいなザ・無個性に言われたないわ!」

気にしていることを!と思いつつ図星を指されなおかつ優位に立たれている私はぐうと言葉を飲み込み、本を持つ指に力を篭めた。別段成績は悪くないから自分の代わりにノート取れだとか言ってこないだろうし、食べ物に大きな関心もないから、毎日購買でパンを買ってこいとかそういう横暴もしてこないだろうと踏んでいたけれど、可能性が高いと思っていたぜんざいもソニーさんも潰されたらいよいよ何をされるか判らなくて怖い。財前くんの腹黒は所詮底が見えたかわいらしいものであって欲しいと思うけれど、実際問題自分はまだよく財前くんのことを知らないのだ。

「ち、チビとか言おうとしちゃったことは、謝る、ごめんね?」
「や、蒸し返さんといて?折角忘れとったのに…あと、アイデンティティの下りも地味に傷ついてるから」
「う、ご、ごめん…、…だからとりあえず、出来ることはする、つもりだけど」
「ほーん?」

本棚と本棚のさほど広くない空間で、本を抱えながら小さくなった私へ、さらに一歩財前くんは詰め寄った。少し怖くなって、後ずさろうとしたらちくりと足が痛んで、自分が今どうしてこうなっているか所以をひさびさに思い出した。近い。近いと、矢張り財前くんは私より大きくて体格もよくて、男の子なんだなあと思う。いずれずっと大きくなって、チビと口を滑らした私を笑うんだろう。成長期である彼にとって、それはけして遠くない日の出来事なのかもしれない。

「…ほんなら、とりあえず言っとくわ」
「な、なに…こわいな…」
「こわいのはこっちやねんけど?」

不意に財前くんの左手が伸びたから意図せずわなないたけれど、御髪に触れた指先は優しかったから何だか余計に、驚いた。なんで財前くんがこわいんだ、と言う疑問が降って沸いて、同時に、目前の唇が少しだけ強く呼吸するのが見えた。

「付き合うて、俺と」

吐き捨てるように、けれどいやにしっかり声にして、唇を噛むまでのそのひと連なりをほとんど瞬きもせずに、私は見ていて、元来のろまな私の頭はそれに拍車がかかったどころか一時停止を余儀なくされた。私の脳内にある陳腐な国語辞書が付き合う、と言う項目を探し当てる。それはつまり、私と財前くんが恋人同士になると言うことであり、さらに方程式に当てはめれば、イコール、そんなこと要求されるなんてありえない、いやまさか、そんな道理ない、という答えに結びつく。だって、そうでなければ財前くんは私のことを…。

「ありえへん、みたいな顔せえへんでくれる?」
「いや、だって、それじゃまるで、財前くんが私のこと好きみたいだよ?」
「何でそこまでアホなん、…、かわいそうやな、もうここまでくると」
「なんでよ!くそ真面目なんですけど!」
「せやったら、もう欠陥や、何か特化した部分がないと割あわへんで、それ」

はあ、と大きく、長い息をついて、財前くんは私の頭をぐちゃぐちゃとかき回した。いやだ、やめてくれ、そんなことされるとむやみやたらに意識してしまうじゃないか。今まで張り詰めていたものが解けて、じわりとこころの外側に滲む。もうお仕舞いだ。自分が足を痛めたことを一瞬でも気にかけてくれた瞳が嬉しかったなんて、そんなこと、思い出したくなかったのに。何だか泣きそうで、俯いたけれど、そこにはけして綺麗とは言いがたい字で財前と書かれた上履きがあって、自分が誰のことをどう思っているのかまざまざと見せ付けられた気がした。

それから

そろそろ気付いてくれる?と、ほどなくして、財前くんは囁くように言った。私が答えないでいると、いよいよ痺れを切らしたのか、舌打ちののちにさらなる言葉が降ってくる。

「好きでもないやつに、告白なんてようせんわ」

私はもうどうしたらいいかわからなくなって、ぐちゃぐちゃの意識と格闘しながらさらに本をぎゅうと握り締めてのち、これ以上ないほど縮こまった。財前くんがそんな私の身体を抱き寄せた時には、月並みに、心臓が止まるかと思った。うああ、とかわいくもなんともない悲鳴をあげた私にくつくつと笑う声が直接響く。

「で、どうなん

何でもするって言いましたから、と可愛くない返事をしたら、だったらソニーのヘッドフォン今すぐ買ってこいと憤慨されたけれど、それからすぐ嬉しいですと告げると、はじめからそう言え、とそっぽを向く。赤くなった耳が、機嫌は上々だと告げていて、こういうところが財前くんはもの凄くかわいい人だなあと思わずには居られない。

「てゆうか…負かせたはずなのに、何なん?この敗北感…」
「まあまあ」
「宥めんな、惨めやろ!」

私の手を振り払うと、財前くんはそのまま踵を返して、元居たカウンター方面へと進んでいった。私はその場に暫くぼうっと突っ立って、何だか怒涛の数分間を思い返しながら笑いやら恥ずかしさやらを反芻していた。



本当は家で読もうと思っていた本を殆ど読み終えてしまった私は、少し遅めの下校を迎えた。指先には、財前くんの少し冷たい指先が繋がっていて、さほど歩くのが早いわけでもない彼がとりわけゆっくりと進むのは、思い違いでなければきっとこの右足のためだろうと思う。一石二鳥とか考えているあたり、自分でも酷くおめでたいと感じるのだけど、口に出したら輪をかけた罵倒が返ってきそうだからあえて口にはしなかった。そういえば、今日はソニーさんを耳にひっかけていない。にまにまと笑むと、不機嫌そうな彼の瞳が覗いて、ああ、この人が自分は好きだ、好きだったんだと改めて、恥ずかしいことを考えた。


 


20130320 ザ・ジャッジメント