「ホンマ、俺きっとこのまま死んでしまうんやろなーと思ったから、財前に後を頼むって遺言メールまで打ち込んでてんで?」
「…充分元気やないすか、しかもメールって、軽すぎっしょ…ありえへんっすわ」
「そんなん言うてー、ホンマは俺のこと心配やったくせに、財前クンは素直やないな」
「や、殺しても死なへんと思ってるんで、安心しとって下さい」
「…それは、俺が安心すべきところ?」
「そんなんどうでもいいんで、練習っすわ、部長」
「け、謙也ァ、財前が反抗期やでぇ、どないしたらええ?」
「財前、そろそろ白石泣くから、そのくらいにしといたり?」
あの時、白石部長を無碍にしたバチが当ったのかもしれない、と俺は茹だる頭でぼんやり思案していた。誰かにメールをしようにも、節々が痛くて腕が上手く持ち上がらないし、部長みたく一体全体誰に何を託すか考えも及ばない。死ぬかもしれへん、なんてアホかと思ったけれど、これはマジ、死ぬかもしれへん、せやって俺、白石部長よりデリケートに細胞構成されてますもん、ぜったいに。耳に痛い電子音が布団の内側から忽然と響いたから驚いたけれど、そういえば体温を計っている最中だったと言うことをすぐさま思いだした。デジタル表示を覗いた俺は、蒼くなった。
「…ざいぜんひかる、りんかいてん、とっぱ」
俺は、ひとりごちてから、何言うとんねんとまたひとりで突っ込んで、枕に突っ伏した。
3 9 度 8 分
42度くらいになると、たんぱく質が凝固して、人間はゆで卵みたくなると前にテレビ番組で聞いた覚えがある。いや、その前に多臓器不全だろうか。どちらにせよ、無事ではいられない。そもそも自分は低体温だから、人の身体の限界より1、2度上限が低く設定されていてもおかしくないだろう。こんなに熱いのに、めちゃくちゃ寒くて、何かに触れている部分がチリチリと焼けつくように痛い。挙句家には俺一人だからついてない。こんなときに限って父は出張、母は兄夫婦と旅行中とは、如何なものか。いたいけな中学2年生の男子をひとり家に残して、あんまりじゃないか、半ばネグレクトじゃないか、と俺は大袈裟で不毛な抗議を心の内側で繰り広げる。通常家族団欒に積極的ではない身として、こんなときだけ泣きつくのは不当かもしれないが、死と隣り合わせの身として、背に腹はかえられないのが実情だと俺は今強く主張したい。しかも、近所の内科はどこもかしこも木曜休診日らしく、いよいよ終わっているな、と俺は感じた。
「だっる、ほんま、かなわん…」
氷枕はすでにぬるくなっているけれど、もはや身体を動かす気力はミジンコたりとて残っていない。多分何か食べたほうがいいとは思うし、いささか咽喉も乾いたけど、勿論冷蔵庫もレトルト食品の入ったストッカーも下階のキッチンである。ついでに言えば、薬箱すら下階のリビングだ、こんなことになるなら、昨日微熱がみとめられた段階で、ありていのものを上へ移動させておけばよかった、それでなくてもせめてまだマシだった朝のうちに。思考はすでに飽和状態で、俺の身体はすでに半熟くらいにはなっているんじゃないだろうかと言う気にすらなった。熱の所為で意図もしない涙まで滲んで来て、まどろみか朦朧か判らない意識の内側で、誰かが、『寝たら死ぬで』と場違いなことを叫んでいる。そないなアホなことを言い出すのは白石部長か謙也さんに違いない。
(雪山遭難やないっちゅーねん)
(でも)
(マジな話)
(このまま死ぬかも…)
耳の真横で、ぶぶぶ、と音を立ててスマートフォンが震え始める。突然のことに驚いて、身を捩らせながら瞳だけを液晶に預けると、そこにはむかつくほどの笑顔でピースサインを差し向ける慣れ親しんだ面立ちと、『』の文字が浮かびあがっていた。
「なんやねん、ぶかつちゅう、やろ」
俺はゆるゆると腕を伸ばして、通話ボタンに指を這わせた。スマートフォンに耳を押し付けて、横寝をしたまま、もしもし、と呟く。触れる頬が冷たくて、ほんのりと心地よい。
「財前?生きてる?」
「…お察しの通り、死んどりますわ」
「うわ、凄い声やん、白石熱やな、かわいそうに」
「その薄ら寒い病名、控えて頂けます?俺浮かばれないんで…ってゆーか、今部活中やないんですか?」
「せやねんけど」
さんは何だかへらへらと嬉しそうである。訝しむべきところだとは思うけれど、いかんせん頭が廻らないし、割とどうでもいいし、何よりめんどくさいから余り考えないで、へえ、と相槌を打った。
「財前が心配やから見てこいってみんなが煩くて、今玄関におるんやけど」
「……は、マジっすか」
びっくりする余力も残ってない俺はどうにか上半身を起こして、匍匐前進のように窓の傍らに向かう。鍵を開けるのに難儀しつつ、ガラス戸を引くと、携帯を耳に当てながら玄関を見つめるさんの姿が視界に映った。
「…ホンマやわ」
「あ、あー!財前!」
何やらごっつい紙袋をふたつ足元に並べて、こちらを仰いださんは、ひどく嬉しそうに手を振った。振り返す気力もないので、窓から顔を引っ込めた俺は、とりあえず、入ってきて下さい、勝手に、と吐き捨てる。
「勝手に!?玄関開いてるん!?不用心やない?」
「…玄関脇の傘立ての下に合鍵が隠れてるんで、それつこて下さい」
「あー、なるほど」
「じゃ、上の階にいるんで、適当に」
「えっ、ちょ」
いささかおせっかいなきらいのあるさんが若干いやかなり鬱陶しいかもしれないのは置いといて、ほとんど身動きが取れない自分にとっては天の助けでしかないと率直に思うことにした。さんに頭を下げれば、多分自分の望むほとんどのことが叶うだろう。…生理現象だけはどうにもならないけれど。ほんのわずかな運動で死ぬほどぐったりした俺は、熱の所為もあって布団の上でぜえぜえと息をしていた。じきに、階段をあがる足音が鼓膜に届く。先刻垣間見えた紙袋が相当重いのか、足取りはかろやかとは言い難かった。
「ざいぜんー?入るよー?」
「はい、どうぞ」
扉を潜ったさんは、俺に負けじと息をあげていた。矢張り、両手に圧し掛かる紙袋が重かったのだろうと推察出来る。うつ伏せで寝ながら、瞳だけをさんのほうに寄越して、わざわざありがとうございます、と紋切り型の言葉を舌に乗せる。ええんよ、たいそやね、かわいそうにとさんは俺を子供扱いして頭を撫ぜたけれど、(いつものことだ)今だけは何も言い返せない。傍らに添ったさんの向こうに、無造作に置き遣られた紙袋は、よく見ると二重に重ねられている。底抜け防止、と言うことだろう。
「はーそれにしても重かったわ!マジあいつら人使い荒すぎやし、ありえん」
「…なんすか、それ」
「お見舞い品、みんなから預かってきたんやけど」
なるほど、他のマネージャー達に比べて、業務にやたら熱心なさんが部室を空けるなんて珍しいと思ったけれど、これもマネージャー業務の一貫だとすると合点が行く。やれやれ、と腰を落ち着けた彼女は早速どっしりとした紙袋に手を突っ込み、くじ引きさながらに見舞い品とやらをひとつ引き抜いた。まず現れたのはりんご、りんご、またりんご、…。
「りんごばっかりやないっすか」
「うん…、みんな朝駅の八百屋で買うてきたみたい、あとで剥こか?」
「…お願いします」
りんごの出現は4玉で打ち止めだったらしく、5回目に袋の中から現れた手のひらには、別のものが握られている。…バナナだ。
「りんごとバナナをセットで買うてきた方が若干名いらっしゃいました」
「その安直な企み、師範やないと許せそうにないねんけど」
「ほな、プライバシー保護の観点から今回の贈答者の氏名は石田様以外伏せさせて頂きます」
「どないやねん、それ」
ひとつ目の袋に入っていたのはそれらの果物と、ポカリの1.5リットルボトル計2本。軽く片手だけで4キロ程度あったことは、熱に浮かされた頭でも容易に計算が出来る。あの人ら、マネージャーを何だと思ってるんだ?快諾したであろうこのひともこのひとだとは思うけれど。
「もうひとつの袋は、缶詰め部門です」
「いやな予感しかせえへんですわ」
「えー、絶対喜ぶと思うねんけどな」
両手を突っ込み、取り出されたのはいかにも判りやすい渋い色味の250ml缶。描かれた文字にも絵柄にも酷く見覚えがある。俺が毎日、部活のあと、学校の脇道の自販機で購入して、飲んでいる『しるこドリンク』だ。好物だ、これは確かに好物だけれども、俺は硬直せざるを得ない。それをどれだけ面白おかしく買い漁ったか、これまた容易に想像出来るからである。
「…な?」
「…嬉しくないことはないですけど、これって、俺完全におちょくられてますやんな?」
「ええやん、栄養価も高いし、あったまるし、財前大好物やし」
「俺がこれ飲むの見つかる度、サンドバッグ見付けたかのようにおもしろおかしく突っ込まれるの、知ってはりますよね?」
「うん、今日はもうこれで売り切れランプ点滅しとったで」
(完全に悪ノリや)
紙袋にはごっそりとこちらを見つめるしるこ、しるこ、しるこ…。その奥にひっそりと垣間見える桃の缶詰は、定めて小春さんか師範が買ったんだと思う。笑いながらボタンを連打する白石部長と謙也さん。そして、好物や言うても飽きてまうやろ、と桃缶を差し入れる二人の姿が脳裏に浮かんだ。それは完全なる俺の空想の産物だったけれど、大きく間違ってはいないと断言出来る。そののち『汗かいたあとにあったか〜いしることか、四天宝寺の次期部長はイカれてはりますなぁ』と炭酸をガブ飲みする謙也さんの姿が矢継ぎ早に瞼の裏にやってきて、俺はぐっと拳を握り締めた。
「あかん、桃缶ぬるくなっとるわ」
「当たり前ですやん、アホっすか」
「こんだけ甲斐甲斐しい先輩にアホはないやろ?アホは…!とりあえず、冷蔵庫入れてきてもええ?」
「あ、ついでに…」
「うん?」
「いくつか頼みたいことがあるんですけど」
「なになになに!何でも言うてよー財前!今日だけはお母さんって呼んでもええねんで?」
「……さん、ウザいっすわ」
いつも必要以上に縋らない俺の頼みの一語が嬉しかったのか、さんは執拗に身を乗り出して尋ねてくる。こういう、調子に乗りやすいところがなんつーか、わかりやすくておもろいなあと思ってしまうのはどう考えても不覚だ。この人ほどマネージャーという責務に向いている人間か他にいようか。
ありていの事項を頼んだあと、紙袋を抱えて扉の奥へ引っ込んださんは、もう一度顔だけ出して、シビンとかはあらへんの?と真顔を貼り付けて聞いてきたから枕を投げた。あるわけないやろ、こんな一般家庭に!っていうか、それ以前の問題や、と俺は階段を降りる足音に向かって突っ込みをかます。しかし、枕投げで無駄な体力を浪費してしまったので、声にはならなかった。あがってくるまでに少しのいとまがあったから、多分りんごを剥いているんだろうなと考えながら、ほったらかしになっていたスマートフォンを確認すると、先輩方から大丈夫?とか無理すんなや!とかいう、ありふれた励ましのメールと、男見せたれ!とかに変なことすなや!とかいうお門違いのメールが混在して届いていた。あとで返信しよう、そして後半は無視しよう、と心に決めた頃、再び階段をあがる足音が響く。開け放たれた扉の音と同時に、馬鹿になった鼻腔をかすかに、甘い香りがくすぐった。
「おまちどうさま」
「……しるこ、あっためてくれはったんですか?」
「ようわかったね!さすがやな」
サイドボードへ置かれたトレイには、綺麗に切られたりんご(一切れはちゃんとうさぎになっているあたり、芸が細かい)の隣でマグカップに注がれたしるこドリンクがさもあたたかそうな湯気を立てている。しかもその脇には薬を飲むための水が入ったグラスとポカリを注ぐ為のグラスが用意されていて、彼女のきめ細やかさが伺えた。
「しるこに入れたろ思て丸餅も買うてきててんで!食べられる?」
「…なんやスペシャルやないすか、ありがたいっすわ」
俺の声が弾んだのに気を良くしたさんは、やろやろ!?と陽気に身を乗り出してくる。こちらが動けないからやたら顔が近くてどないやねんと思うけれど、ありがたいことに違いはないのでひとまず、はい、と首を動かしておいた。その稀に見せた素直さが、さらにさんを調子に乗せる一因になったわけで、俺はこの軽はずみな行動をすぐさま後悔する運びとなる。鼻歌交じりでポカリを注ぎ始めたさんを横目に、軋む半身を無理矢理持ち上げた俺は、トレイに置かれたしるこのカップに手を伸ばした。否、伸ばそうとした、と言った方が正しいだろうか。その刹那、丁度ポカリを継ぎ終えたさんの右手が俺の左手の指をはたき落としたのであった。
「いった!何するんすか!」
「病人やねやからじっとしときなさい!」
「せやって食えへんやないですか!」
痛む手の甲を押えながらありったけの力で眉を潜めると、スプーンを片手に携えたさんは、にい、と見るからに不審としか言いようがない笑みを浮かべる。そして、俺の大方の予想通り、そのスプーンをおもむろにカップに突っ込んだ。
(…まさか)
(そんな)
(ありえへんやろ)
「ほうら、財前、あー」
「いやいやいやいや、ないないないない!」
「ちょ、財前!動きなや!」
「さん、何考えてはるんすか!?ガキやないんですから」
「何言うてん、まだ誕生日も来てへんくせに〜」
わざわざ一口サイズに切られているらしい餅の乗っかったスプーンを持って、こちらに近寄ってくるさんを許すまいと座ったまま後ずさる。しかし、そう遠くない場所に窓際の壁が控えているのは言うまでもないことで、俺はすぐさま、まあ完膚無きまでに追いつめられた。ベッドの上で向かい合う男女、と言う言葉の響きだけとれば、諸先輩方は高い声をあげて大騒ぎするシュチュエーションに違いないとは思うけれど、これは、その、何か違う、とても違う、全然違うやろ!心なしか頭がくらくらしてきた。
「財前、観念しぃや?」
「…それ完全に悪役の台詞ですやん…」
「母親は鬼になって、我が子を、千尋の谷に落とさななんときもあんねん」
「……はぁ…もう突っ込み疲れたっすわ…」
俺は両手を小さく掲げて、降参のポーズをして見せた。やった、と口の中でささやかにのたまったさんのさも嬉しそうな姿を、俺は一生忘れないだろう。恨みがましい、と言う意味で。
「ほな口開けてー!」
「…うあー」
壁に寄りかかりながら開いた口の中に餅を捻じ込まれた俺は、心の底から何してんねやろうと言う気持ちになった。これで喰わされたものが不味かったらいよいよ逆上のし甲斐もあるけれど、自分で太鼓判を押している飲み物に常日頃から、これがあったら完璧だと感じていたものをぶち込まれたら文句のひとつも言えない。こんちくしょうと思いやがれである。
「おいしい?ざいぜん?」
「…熱の所為であんまり味わかんないっすわ」
「素直やないなー、ほら」
「…んあー」
こののち、俺はしるこだけでは飽き足らなかったらしいさんの手により、結局剥いたりんごも最後の一切れまで食わされた。終盤はもはや恥ずかしいとかそういうんじゃなくてすでに腹いっぱいなんです、勘弁したって下さいマジで、と言う気持ちで首を振ったけれど、到底許してもらえる余地などあるはずもなく(病人やで?俺)、空っぽの皿をトレイに置いたさんはいやに清清しく、満足気だった。やっと追い詰められた壁際から元の位置に落ち着いた俺は、薬を飲み下すと再び枕に突っ伏して、大きく息を吐く。新しくやってきた氷枕が心地よい。
「それ、苦しくないん?」
「いつもこうなんで、落ち着きます」
「そうなんや?」
「はい」
俺の顔を覗き込んださんは、にへら、と笑って、何を言うかと思えば、弱ってる財前はしおらしくてかわいいなあーと前髪を撫ぜてくる。鬱陶しいっすわ、と一喝してなお止めないから腹が立つ。指先が冷たくて、気持ちいいと思ってしまったのは不覚だ。薬の所為か、何だか瞼が重くなってきた。このまま眠ってしまうのはなんだかほだされたみたいで情けないような気がして俺は鉛のようなくちびるをどうにか起動させる。
「…ホンマさん、少しお節介自重せえへんと、勘違いされますよ?」
「ん?どういうこと?」
「うーん、その、まんまの意味っすわ」
「あれ?財前眠いん?眠いねやろ?」
「眠ないっすわ…」
「嘘吐けや!白目なっとんで!寝えや!」
「んー…じゃあ、少しだけ、寝ますわ…」
「少しと言わず、ゆっくり寝とき?」
「ありがとう、ございます…」
「あー、せや、最後に言っとくな、財前」
こんな恥ずかしいこと、アンタにしかせえへんで?
遠くで
何やら聞こえた気がするけれど、その時俺はすでにまどろみに片足を突っ込んでいたから、起きたときにはほとんど寝入り端の記憶を失っていた。カーテンを開けると、外はもうすっかり夜で、もちろんそこにさんの姿はなく、ただりんごとバナナとしるこドリンクが紙袋の中で行儀良く陳列して、寂しげにこちらを見つめているのみだった。首からつう、と滴る汗。なんだか暑苦しいと感じながら、身体を思い切り伸ばしてみる。
(あ)
(からだ)
(軽いかも・・・?)
栄養と薬と睡眠のおかげだろうかと俺は考えながら、手洗いで向かうべく久々に下階へ足を運ぶ。通りがかりのキッチンには、洗われたマグカップとグラス。ふと見たダイニングテーブルの上には、何やら置き書きのようなものと、小鍋が鎮座している。
「なんや、これ」
キャラクターが描かれたパステルカラーの付箋紙に、踊るまるまっちい文字は部活日誌でよくまみえるさんの文字だ。
「はよ、戻っておいで」
読み下しながら、小鍋の蓋を開けると、中には卵で綴じたうどんが入っていた。まだ、少しだけ温かい。
(どんだけやねん)
(恐れ入るわ!)
付箋紙をパーカーのポケットに突っ込んだ俺は、小鍋を取ってコンロの火を点ける。熱はだいぶ下がっているような気がする。この分だと、明日には戻れそうやな、と薄く笑んだ俺は、温まったうどんを食べながら、いつかさんに今日の仕返しをしてやる、と心に誓った。のだった。
「あ、もしもし、白石?うん、お疲れさん、うんうん、今帰りやで」
「あー、せやな?ごめんな、お見舞い行きたいとか無理言うて」
「あはは、なんだかんだで喜んでたと思う!おちょくられとりますよねとか言うてたけど!」
「ぇ、なに?なんて?はぁ?馬鹿馬鹿、してへんよ、相手病人やで」
「…や、そういう問題でもあらへんけど、してへん、っていうかできへんやろ」
「もう、あかんわ、嫌われたら死ぬし!」
「うん、まぁ、せやな、ありがとう!役得やったわ!」
…うどんを食べながら勃発したでかいくしゃみは、ただの風邪の諸症状だと信じて疑わなかった俺は、まさか噂由来のものだとは夢にも思わない。
「ちぃーす、昨日はすんませんでした、部長」
「おー、財前、早かったやないか、心配したで」
「元はといえば部長菌の所為ですからね?肺炎にでもなったら慰謝料もらおと思っとったくらいですわ」
「……ホンマ、元気になってくれて何よりやわ…」
なんだか肩を落とした様子の白石部長はほっといて、俺はきょろきょろと辺りを見回す。意気揚々と顔を出して驚かせてやろうと踏んでいたのに、対象人物の影がどこにも見当たらない。さんは部長と謙也さんのクラスメイトだから、ホームルームが長引いているということもなさそうだ。
「財前!死んでなかったんやな?」
「病み上がりっからウザいっすわ、謙也さん」
「完全復活やな…毒舌もよ…、それよりな、財前、なんやけど!」
俺がはい?と眉を顰めると、二人は顔を見合わせて、ふふふと笑った。いいからはよ言えよ、お前らのおちゃめな笑顔とか世界一どうでもええねん、と内心悪態を吐いたのは秘密である。
「風邪ひいてんて、しかも高熱、さっき電話したら、凄い声やったで!」
「財前、お前昨日何してん〜?移るようなことしたんとちゃうん?」
「どつきまわしますよ、謙也さん」
「な、俺だけかい!」
(どちらか言うたら、されたんはこっちのほうや)
とか言ったらことが大きくなるのは明白なので、声には出さず仕舞いで、俺はラケットで落ちていたボールをひょいと救い上げた。そして、人知れず、ゆったりと笑む。これは好機だ、と言わんばかりに。
「部長、ちょっと野暮用思い出してもうたんですけど」
「は…?きゅ、急すぎやろ、奔放なのもたいがいに…」
「謙也さんから1ゲーム取れたら帰ってもええっすか?」
「…それ、俺が首振ったら諦めるんか?財前」
「ええっすよね?部長」
「………しゃあないな」
「な、なあ、お前ら、俺の意思、は…?」
サーブ権を取った俺はベースラインの外でボールを弾ませながら、彼女にどんな仕返しをお見舞いしてやるか思案していた。もしかすると俺が今玄関に居るってだけで、さんにとっては充分なドッキリかもしれないと思うと少しだけ、ほんの少しだけ心が躍る。
そういえば、さんの好物って何なんだろう?とりあえず白石部長と謙也さんに問い詰めて、いやがらせと言うほど紙袋に詰めてもってかなあかんな、と俺は頷いて、ラケットに力を篭める。
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