探検がてら、放課後の校舎を練り歩いていたら、階段の踊場に差し込める光が影を作っていて、ふと見上げると、屋上へ続く扉がわずかに開いていた。こんな時間まで開放されているんだ、と私は思って、あまり深いことは覚えずに階段を踏み締める。まだ少し寒いかもしれないと、マフラーを巻きなおして、私はゆらゆら揺れる門戸に手をかけた。解き放たれたように飛びかかって来る冷たい風に瞼を閉じる。ほとぼりが冷めてゆっくり瞳を開けると、そこには
なんてことだろう、屋上にはよく生息すると覚え聞く……自殺志願者である。
「は、早まるなーーーー!」
「わあああっっ!?」
志願者は叫喚したと同時に甚だ体制を崩す。(後から聞いた話だと、諌止の声に驚いた反動だったらしいが、この時はまさかそうだとは思わなかった)欄干を掴み、両足をしかと屋上のアスファルトに着地させた彼はわなわなとふるえながらこちらを振り返る。
「お、お前…」
耳のピアス、黒い髪、制服の下のパーカー、確か、…クラスメイトの財前くんだ。廊下側の席なのに、いつもぼんやり気だるそうに窓の外を眺めているイメージがある。別に、意識して財前くんを見ているわけではなく、私が窓際の席だからたまたま視線があって気まずい思いをするだけなんだけれど。
(まさか、空を見てたのも)
(自殺願望の表れ!?)
青くなった私は再び強硬手段に出られたら堪らないと財前くんに駆け寄ったのだけど、半径2メートル付近に近付いたところで浴びせかけられた罵声に立休らう羽目になった。
「何してくれんねんボケンダラ!死ぬとこやったやないけ!」
「っ、…はあ?死のうとしてたから止めたんじゃん」
「死なへんわ!誰が短すぎる生涯に幕やねん!」
「だって超乗り出してたし…足かけてたし」
「……あれやって」
財前くんは、手摺りの向こう側へ人差し指を差し向けた。示した方向を点線で辿っていくと、張り出した雨樋部分の金具に何かが引っ掛かっているのが見える。
「何よ、あれ」
「俺のヘッドフォン…、昼休み、風に煽られて落ちてって、あすこに引っかかった」
「何で!?コードは!?」
「Bluetooth」
「は!?」
「知らんのかい、ワイヤレスっちゅうことやって」
あー、なるほど、とぼんやりした返事を零した私に、財前くんは盛大な溜息を落とす。つまり、彼は自殺しようとしていたわけでもなんでもなく、落としたものがただちょっと面倒なところに追いやられてしまったから、取り戻そうとしていただけだった、という事で、先の言葉は完全なる私の恥ずかしい早とちりだったと言うことだ。だからと言ってあんなところから身を乗り出していたら少しは勘違いもするだろうと思ったが、危うく手を滑らせて不慮の転落事故を招きかねなかったと考えれば、背筋が凍り付く。
「ホンマな、ホンマええ加減にして?」
「ご、ごめんなさい」
「ただでさえ大事なヘッドフォン飛ばして最悪やのに、これで死んだら笑えへんねんからな、サン」
アンタも転校早々人殺したないやろ、と加えて、財前くんは欄干の手摺りに両腕で体重をかける。極めて人に関心ありませんよと言う顔をしているから、財前くんが私の名前を覚えてくれていたのは意外だった。東京から大阪に引っ越してきて1週間、クラスメイトはあらかた賑やかで、休み時間には何かと構って来てくれる人ばかりだったけれど、財前くんは大抵机に突っ伏しているか、携帯を弄くりながら音楽を聞いていることが多かったし、友達が話しかけてきて面倒そうにあしらっていた様子も目撃したことがある。正直、少し怖い人なのかもしれないと思っていたくらいだ。
「…名前、覚えてくれてたんだ」
「そら覚えるやろ?あんたと違うて俺らは一人覚えればええだけやん」
「あはは、そうだね、でも財前くんってあんま人に興味なさそうだし?」
「なんやそれ、ナルシストって言いたいん?」
財前くんは不機嫌そうにぷいと脇見をして、そのままヘッドフォンがぶらさがってる方角を覗きこみ、露骨な溜息を洩らした。そして、あまつはへにゃへにゃとお尻から座り込み、項垂れて、二回目の溜息。
「あかん、最悪や…」
「た、高かったの?」
「ん、いちまん…」
「高!!!!」
「せやから最悪やねんて…」
頭痛ぉなってきた、と、呟いた彼の声はほろ苦い哀愁を漂わせていて、なんだか私は急に小動物を見ているような気持ちになった。継いで『ソニーさん…』(多分メーカー名)、と零した折にはなんだか撫ぜてやりたくなる衝動に駆られたけれどもぐっと我慢する。面立ちだってどことなくうちで買っている中型犬(雑種・黒毛)に似ていなくもない。アンニュイでダウナーな感じだと思っていたけど、もしかして、この人。
(結構かわいいんじゃ…)
「…棒きれとかでひっかけて取れないの?」
「まかり間違うて落ちたら多分木端微塵やで?下コンクリやし」
「んー……それは悲惨かも…」
「……せやかてこのままにしておくわけにもなぁ…」
すっくと立上り、再び愛するヘッドフォンの惨状を目の当たりにした財前くんの隣にさりげなく佇み、同じものを見るふりをして財前くんを盗み見た。黄色と緑のピアスが形の良い右耳にぶら下がっている。漆黒の髪と相反して、コントラストは抜群に良い。インドア派かと思いきや、手摺りにかけた腕は意外に逞しいから少し驚いた。
「なあ、ちゃんと考えてる?」
「あっ…、やっぱこれ私も考えなきゃいけないとこ?」
「あたりまえやん、乗りかかった舟やぞ…っていうかこの数分間の貴重なシンキングタイムにお前何しててん?」
「えっと…ぼーっとしてました」
私が(何故か)申し訳なく返答すると、財前くんはほんの少し高い目線からじっと私の目を見下ろした。(多分、見下した、が正しい)そして、無言のまま軽くおでこにチョップを寄越した。
「気絶してへんでまじめに考えろや!ソニーさんの命の危機やねんぞ!」
「な、なんかご、ごめん、…えっと、じゃあさ」
「あん?」
「私、下でスタンバってるから、財前くん、あそこにあるデッキブラシの先でソニーさん落としなよ?」
私の指差す先には物置倉庫の扉があった。その扉に、立て掛けるようにしておいてある、ぼろぼろのデッキブラシ。我ながらこれは名案だろう、と思ったが、財前くんの表情は依然曇ったままである。
「えー…」
「な、なに?名案じゃん!?」
「ホンマにちゃんと取れるの?サン」
「そこは、大丈夫!多分…恐らく…」
「…そんな不確定要素の高い奴に、ソニーさんの命預けられへんわ…」
(…なっ)
(こいつ、人が協力するって言ってんのに…!)
肩を竦めた財前くんに、ふつふつと、言い知れぬ苛立ちを覚えた私は、唇を噛んだ。かわいいな、なんて、思ったけれど、こいつ、ひねくれてやがるな、と私は気付いた。まだ傾ききっていない初春の太陽が、財前くんのピアスに反射して、煌めいている。それが綺麗で、なんだか余計に腹が立つ。そんなことを思いながら、胸に一物抱えた私は、再びソニーさんを覗きこんだ財前くんの背中にありったけの声を投げたのだった。
「…わかった、じゃー、ソニーさん助けられなかったら私もこっから飛び降りる」
「はっ!?アホ、お前、何言うてん」
「と、言うわけなので、絶対受け止めるから、財前くんも変なとこに落とさないでよ!」
「おい、…!」
はためいたマフラーを、再び巻き直し、財前くんの静止を振り切る。階段を下りる私の足取りは、ほとんど駆け足に近かった。紺色のスカートが揺らめくたび、通りすがりの生徒たちがこちらを振り返るのは、私がまだ四天宝寺の制服を手に入れていないからで、セーラー服で校内を駆け抜ける女子生徒は、きっとなんだか異質めいていたのだろう。事実、
私はまだ此処にとって異質で、それは四天宝寺の制服に袖を通したからと言って変えることが出来るのかと言ったら判らなくて不安だ。クラスのみんなは優しいけど、東京から来た私は言葉も違うし、なんだか腫れ物にさわるような節を感じる一瞬もある。しかし心細くても、私は此処でやっていかなければならない。だから、と言うわけじゃないけれど、あの捻くれ野郎の、財前くんのヘッドフォンをちゃんとキャッチするくらいのことは、きっと朝飯前だ、と、そう思わなきゃやってられない。馬鹿馬鹿しいことなのに、少し涙が出たのは、きっと財前くんが思いの外おもしろいやつで、思いの外むかつくやつだったからだ。
何故だか頭の内側で転嫁めいたものが実行された頃、気付けば私は昇降口を抜けて、校舎裏に廻りこみ、先ほどまで佇んでいた場所を仰いでいた。幸いにも、人は少なかったため注目は避けられたが、不運なことに、風は止む気配を見せなかった。4階の教室、窓の右上で、ちら、ちら、と動き見えるもの。あれがきっと財前くんのソニーさんだろう。そして、その奥で、ちら、ちら、とこちらの様子を覗き見ているのは、他の誰でもない、財前くんである。憎らしい、と思いながら、私は高く右腕を掲げた。
「いつでもどうぞー!」
「お前、物騒なこと言うて消えんなや!」
「物騒も何も、私は本気ですけどー?」
「冗談でも寒気するからやめろ!」
「…そんなことより、ブラシ用意したの?」
「したわボケ!」
「言うに事欠いてボケとは何よ!絶対キャッチして様ありがとうございますって言わせるからね!」
「いや、言いませんけどねー?」
不機嫌そうな声色を張り上げながら、財前くんは欄干の間からデッキブラシの柄を伸ばした。どうやら、文句を言いながらもやる気にはなってくれたらしい。頷いた私は風の向きを考えてソニーさんの真下より少し右の風下よりで財前くんの動向を見守っている。
「ソニーさんの命、お前に託すからな!」
「判ってるわよ!私の命もかかってるんだからね!」
「せやから怖いねんて!」
デッキブラシの柄の先が、ヘッドフォンに触れる。耳にかけるタイプのものだから、重量はあまりないだろう。思いの外風に流されてしまいそうだ。私はさらに風下にゆっくり進んだ。外は涼しいのに、背中に僅かな汗が滲む。
そのとき、煽るような突風がびゅうと音を立てて通り過ぎた。思わず驚いて、刹那でも瞳をきつく閉じてしまったのは過失だったと思う。そのしゅんかん、ほとんど留まる場所を追いやられていたヘッドフォンは、風の中に投げ出されていたのだから。
「「あっ!」」
ソニーさんの向こう側で、多分私と同じように口をあんぐり開けてデッキブラシを握りしめている財前くんの姿が見えた。私は落下するヘッドフォンにありったけ手を伸ばす。着地点は、定めて私の稼働範囲を超えてない。届く、と思った矢先、てのひらにソニーさんがするりと滑り落ち―――すり抜けそのまま私の頭上に間抜けな音を立てて、ぶつかったのだった。
「やっ、あいたーーーー!!!!」
「ぶっ!!!!」
私の頭の上でワンバウンドをかまし、ソニーさんは私の爪先にひっかかる形で落下した。万歳をしたまま、片足を前に出し、素っ頓狂な顔をして立ちすくんでいる私に降りてくるのは、口惜しくも、財前くんの断続的な笑い声ひとつである。
「な、ナイスキャッチやんか…」
「ちょっと!笑わないでよ!」
「お前もこっから自分見つめてみ?堪えられへんで?」
「せっかく頑張ったのに!」
ぶーぶー言いながら、足元に追いやられたソニーさんを拾って軽く埃を払ってやる。最後の最後までむかつくやつだな、と心で呟いて、私は溜息を吐いた。
「なぁ、お前鞄教室?」
「えー?うん、そうだけど」
「せやったら鞄持って降りてったるから、昇降口で待っとき」
「いいよ、屋上まで持ってくし」
「ええから、まっとけって」
そう言い残して、早々財前くんは消えた。財前くんの居た場所にはデッキブラシだけが残っていて、私は暫くそれを見つめながら、今あの場所で最後にふわりと笑んだ(ように見えた)少年は、さっきまでのあのむかつく財前光と同一人物なのだ、というようなことを考えていて、なんだかそれは、私対私の戦争のようだった。
もう人もまばらな薄暗い昇降口に、財前くんはのろのろと現れる。急いでやって来たのだけど、そう急ぐ気もなかったらしい。なんとなくそうだろうとは思っていたけれど。下駄箱からスニーカーを出して、つっかけながらこちらに向かってきた財前くんは、いつも通りぼんやりしていたけれど、矢張り表情は格段に緩やかである。
「さんきゅーな、様?」
「っは?どうしたの???」
「どうしたのって…様が言えって言うてたんやろ?様」
だが、御礼を言いながらソニーさんを受け取って、開口一番がこれである。確かにまあそんなことを言ったような気はするけれど、それは少しくらいありがたく思いやがれこんちくしょう、と言う意味であり、敬うようでいて少し小馬鹿にしたように軽々しく酷使して欲しくはないのである。小馬鹿にしている証拠に、その唇にはしてやったりの笑みが貼りついていた。
「…もういい、普通でいい」
「ええのん?残念やわ」
「残念なのは財前くんの性格じゃない?」
「…今日初めてまともに喋った奴に良くそんな口聞けんな?」
「だって事実だし」
「ああそうですか、せっかく奢ったろ思ってたのになー」
「はっ!?マジで言ってる?」
「駅の向こうに美味い甘味処があんねんけどなー」
(…今日初めてまともに喋った奴に良くそんな口聞けんな?)
私は内心で先の言葉を繰り返し、いつのまにかソニーさんを仕舞いこみ、かかとを整えて昇降口を後にする財前くんの後ろを追いかける。
「じゃあー、せっかくだからお言葉に甘えようかなあー」
「別に無理しゃんでもええで」
「してないし、頑張ったらお腹すいちゃった」
「頑張ったのは頭蓋骨やけどな?」
「うるさいなあもう…」
意地悪な含み笑いを浮かべる財前くんを横目で見遣りながら私は、ああ、財前くんって実はこんなに笑う人だったんだ、と不覚にも感銘に似たものを覚えてしまったから腹が立つ。だって仕方ない、いつも教室でうなだれているような財前くんしか知らなかったんだから。
「それにしても、死ぬ死ぬ言うからマジでビビったわ」
「は?なんで」
「実はこいつ思いつめて屋上やってきて、仕舞いには自殺の責任俺に擦り付ける気かと思った」
「なんでよ!そんな簡単に死なないし!」
「せやって、教室でいつも沈んだ顔してんねんもん、お前」
「…………は?私が?」
「他に誰がおんねん、転校が嫌すぎて思いつめてるんかと思っとった」
財前の表情は、先刻よりいささか真面目で、その視線は真っすぐ前を捉えている。私は驚愕した。自分が他人からそんなに思いつめて見られていたのかと言うことよりも、財前くんが自分を目で追って、何かしら考えを心に含ませていたことにびっくりした。
「財前くんだって、そうじゃん?」
「はぁ?」
「休み時間はぼーっとしてるし、授業中もぼーっとしてるし、空見てるし、何考えてるか不明だし…」
「低血圧低体温やねんから仕方ないやろ!あと、空なんか見てるかぁ?そんなロマンチストやないですけど」
「見てるよ!」
「見てへんし、第一俺の席やと、窓見てもグラウンドしか見えへん…」
「じゃあ、なんで目が合うのよ!」
諍いのようなやりとりがテンポよく続く中、財前くんが急に言葉をやめた。そして、同時に足取りすら重くなる。私が首を傾げると、んーとか、あーとか、言葉にならない声を2,3回漏らして、私の顔と爪先あたりを交互に見つめ出した。
(な)
(何なのよ!)
(何なのさ!)
ひとしきりわけのわからない時間が流れて、私の頭の上にはすでにたくさんの疑問符が連なっている。そして、10メートルは歩いたかと言うところで、やっと財前くんがまともな台詞を音にした。
「…グラウンドを見ててん」
「うわー!嘘だ!絶対嘘だ!」
「ってか、そんなんどうでもええやんな?世界一どうでもええことやんな?」
「どうしたの!?あからさまに怪しいけれど!」
「そうそう、これから行くとこな、フルーツクリームぜんざいが絶品で…」
「話逸らす!?ここで!?」
傍から見ると多分ボケとツッコミのようになっていて不本意だ。不本意だけど、今日の6時限目までダウナーでアンニュイだと思っていた財前くんは実はおもしろくて、性質が悪くて、ときどきなんだかかっこいいような気がするときもあることを知ったのは、収穫だと思う。結局話は逸らされて、そののち何故か赤くなっていた耳の裏のことも追及できず仕舞いだったけれど、なんとなくこれからの生活に光が射したような気がして、フルーツクリームぜんざいを食べながら、私はまだ見ぬ四天宝寺の制服が、とても待ち遠しい心地に見舞われた。
「っていうか、結局普通のぜんざい?」
「俺はこっちのほうが好きやねんもん?」
自殺未遂と幇助志願
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