高等部で生徒が死んだと言う噂は瞬く間に中等部校内へ広がった。体育倉庫を目張りして、焚かれた練炭。さらにその内側で余ったガムテープを首に巻いた彼は、翌朝、消防隊の助けを得て抉じ開けられた倉庫内で、変わり果てた姿となり発見された、と、特別集会ののち早めに帰宅した家のテレビから情報収集した。何を好き好んで自ら、と笑ってしまうのは、俺が俺である揺ぎ無い所以であると思う。精市くんは果敢無い、と、その昔誰かに言われたのをふと思い出した。それは自分に病気の兆候が見られるより遥か昔で、病室の白い壁を見つめながら、途方もないことを考えるなんて夢にも思わなかった頃だ。もしかして、その頃から自分には、自分ではどうすることも出来ない大きな流れに飲まれていたのではないだろうか、と思案する。こうしてまた、代わり映えのしない色ずんだ生活が送れるようになってもまだ、自分を生まれ落ちた瞬間から決め付けられた宿命のようなものが蝕んでいて、取り除くことの出来ない、深い部分まで絡み付いているのではないか、と。
アナザー・レイン
短い検査入院があった。テスト期間は避けて貰ったから、授業の大半は柳の精密なノートを写すだけで事足りたけれど、実技はそうも行かない。とりわけ美術は静物の油彩を行ったらしい。次の二時間で完成させなければならないと聞いたけれど、下書きも手をつけられていない2号サイズのカンバスが、それは難題だと告げていた。考慮する、と先生は言ってくれたけれど、絵を描くことにかまけていれば余計なことを考えなくて済むし、今は幸い(と呼ぶか判らないけれど)時間もある。描こう、と思った。絵を描くことは嫌いじゃない。到底、テニスとは比べ物にならないけれど。そうして俺は、美術部の活動がない放課後を見計らって、美術室へ向かう運びとなった。廊下の突き当たり、極めて静かな場所に配置された教室は、まさに絵を描くのにうってつけの場所と言えた。硬い扉を引いて、薄暗い室内へと足を運ぶ。
「……っ!!」
息を呑む音、が聞こえるような面立ちで、その人はこちらに見返り、佇んでいた。先生には、コンクールも終わったばかりだから、誰もいないだろうと聞き及んでいたので、ほんの少し吃驚する。呆気して、瞳をまたたくと、あっ、と小さく声を漏らして、彼女は目前のタッセルによりかかっていたカンバスを裏へ返した。
「ご、めん」
ふるふる、と首を振ると、彼女の伸ばされた長い髪が遠心力に合わせて揺れる。微かに開かれたカーテンの隙間から、秋の陽がこぼれて、色素の薄い髪とカンバスの裏面を照らす。
(…傷?)
おそらくあからさまに、心なくあたえられたのであろうカンバスの傷は、いささか裏面へ貫通していた。触れられたくないだろう、と、俺は視界の脇で捉えていたそれを見ないふりで、黒檀はどこかな?と空々しく尋ねる。
「準備室入って右、油絵の具のストッカーの二段目…か、三段目」
「ありがとう」
目尻を下げる様を、彼女はいささか睨むように見つめていた。
ストッカーの引き出しを確かめながら、隣の部屋の彼女について思案する。彼女のことは知っていた。昨年クラスメイトだった、確か下の名前はだったと思う。取り立てて賑やかしい部類の女子ではなかったから、あまり関与はしなかったけれど、誰かとさしてつるむ様子もなく、そういえばどことなくクラスから浮いていたような気すらした。記憶の中、彼女の向こう側に浮かぶのは空ろな窓枠。外の景色はけぶるようにおぼろげである。ユトリロの絵の内側にポツンと取り残されたような、そんな印象を彼女に当て嵌めながら、黒檀を手にした俺は準備室の扉を閉めて、現実のを双眸に映した。
は先刻の場所でほとんど静止しているように見受けられた。その背中は矢張り空ろで、どこか心もとない。色素の薄い指の先に、今にもこぼれ落ちそうに、危うく、レタッチブラシが握られている。しかしその筆先に色味はなく、脇に造作なく置かれたパレットには、黒すぎる黒と赤すぎる赤がひねり出されているのみであった。絵の補修を試みようとしたのか、と俺は思った。油彩ならば、絵の具の厚みでどうにか、傷を有耶無耶にすることが出来るかもしれない。絵を見ることは好きだけれど、技術的なことについてはことさら侵食されていない知識のほどから来る推測なので、ちっとも当てにはならないけれど、定めて。
「石膏像とクロス、置いてもいいかな」
はちらり、と茶色いまなこを向けて、ん、と小さく鳴いた。ありがとう、と俺は続けて、隅に追いやられたありきたりな胸像とクロスを飾りテーブルに置き遣る。そのいとまも、ほとんど動かないのほうが静物のようだ、と、俺は心のどこかで悪魔めいて考えていた。
タッセルを組み立て、小さなカンバスを立てかける。黒檀に巻かれたアルミホイルが剥がれかけていたのが気になったから、少しだけ几帳面に巻き直してから、俺はカンバスに適当な曲線を泳がせた。脇からほんの一瞬視線を感じたから、気付かないフリを決め込もうとしたけれど、幾度か繰り返されたそれは存外気が散ってカンバスに集中出来ない。視線がぶつかるのも恐れずに、俺はへ視線を送る。逸らされることなく受け入れられたのは少々意外だった。
「もしかして、邪魔かな?」
「それ、来週締切りの課題?」
「…ああ、そうだよ」
疑問を疑問で返されて、俺は煮え切らないものを抱えつつ返答する。笑えているから、多分何も悟られていないはずだ。それに、疑問が通過していったということは、邪魔ではないと言うことだろうと勝手に俺は咀嚼した。
「また、どこか壊してたの?」
「随分ストレートだな?」
「ゴメン」
「いいよ、腫れ物みたいな扱い、好きじゃないからね」
感情の変化を表に出さないのか、出せないのか、罰の悪そうな謝罪の言葉に反して、表情の変化は乏しかった。淡々と、飄々と、に対する俺のイメージはもともとそんなものであったけれど、あながち間違ってはいないようだ。
「ただの検査入院、然したる異常もなかったよ」
「それは、何よりだね」
「ありがとう」
瞳を緩めた俺に、少々は怯んだ、ように見えた。何故だかは判らないけれど。
探究心(加虐心と言うべきかもしれない)がふと芽生えた俺は、それよりさ、と思いつきで言葉を継ぐ。
「そのカンバスの傷、どうしたの?」
思うまま
息を詰まらせた様子のは、なんだか小動物的で愛らしいな、と思う。
「俺も秘密を明け渡したんだから、こうするのが平等じゃないかな」
別段隠していたわけではない検査入院の下りを勝手に昇華させた俺は至ってあざとい。しかし、あからさまに怪しいそれにあえて触れぬまま同じ空間に生きるほうが人として冷たいような心地がしたのも事実だ。加えて、何より、飄々と生きる彼女があまり踏み入れられたくない心の闇のようなものが何なのか、純粋に興味があった。
追求すると、ことのほか彼女はあっさり返していたカンバスを元の通り、表へ返す。傷がつけられていたのは激しい色味の抽象画だった。そういえば、彼女が市のコンクールで佳作を受賞したのも、カンディンスキーかピカソさながらの美しい抽象画だったのを不意に思い出した。タイトルは「空」。今目前にある禍々しい色使いのものとは対象的な、清清しい色彩の作品だったのを覚えている。それに引き換え、目前の色彩は赤と黒、黄色を中心に構成されていて、まるで視覚野に直接攻撃されているような印象を受ける。
「随分、派手にやられたね?」
「うん…でも、仕方ないかな」
「どうして?」
「気持ち悪かったんだと思う、私も、この絵も」
そう言って、が筆先を示した絵の左端には、虚空に佇む、青黒い人物のようなものが描かれていた。
(いや、これは)
(浮かんでいる、のか…?)
人物の足元に、離れてポツンと、人物の影が見える。その人物は、否、彼は、浮かんでいる、と、俺は思った。そして、俺はこの絵のありていを悟った。ほんの僅かに、首筋が粟立つ。
「…体育倉庫…」
尋ねるでもなく呟いた俺に、彼女は何も言わなかったけれど、多分それが、何よりの答えである。僅かな沈黙。カンバスから、目を逸らしたくても逸らせなかった。ものものしい傷跡が、またカンバスを一層異形に思わせて仕様がない。
が描いたのは、数週間前校内を震撼させた、高等部体育倉庫での自殺風景だった。
「兄が」
唐突に話し始めたの声が、俺を現実に引き戻す。の面立ちは、矢張り平生に見える。
「忘れ物をしたから、届けに行ったの…、高等部まで」
は、じっとカンバスの傷跡を見つめている。定めて、は今絵の内側へと意識を飛ばしているに違いない。
「通り道に、あの体育倉庫があって、立ち入り禁止になっていたけれど、私、興味本位で」
ほんのわずかに、視線が落ちた。依然、考えていることは読み取れない。彼女はカンバスを指して、静かに語る。
「そしたら、これが飛び込んできたの」
「…これが、って?」
「……信じてくれなくていいよ、でも私」
気付いたら咽喉がからからになっていたから、俺は固唾を呑んだ。の伏し目が今度はこちらへ預けられた。薄い唇が、いやにゆっくりと動く。
「見えるんだ、たぶん、こういう有象無象が」
「……それって」
「気持ち悪いでしょ、不気味でしょ」
だから、しんじてくれなくてもいい、と、吐き捨てるようには続けた。
つまり、
彼女はもう人でなくなったものが見える体質ということか、
と俺は単純に飲み込んで、なるほどね、と掠れた声を送った。はじめて、の眉尻が小さく動いたのを見止める。
「…幸村くんって、変だね?」
「変な体質の君に言われたくないよ」
「そう、そうだね…」
俺は、改めてそれを瞳に焼き付けようと、の3号カンバスに歩み寄った。抽象的ではあるが、これがあの体育倉庫の内側で起こった全てなのだろう。彼は姿が見えなくなった今も闇雲に体育倉庫で叫んでいるのかもしれない。は何を思ってこれを描いたのだろうか。描けば彼が成仏するかもしれないとか、そういう安易な気持ちだったとしたらまるでひとつの物語みたいで、悪くはないと俺は微笑った。
「直るのかい?」
「…多分、でも、迷ってる」
「直せよ、せっかく描いたんだから」
軽く傷跡に触れてみたかったけれど、生乾きのそれに指紋がついては台無しだから寸前で踏み止まる。返事がないことが、少々不服だったから、すでにすぐ傍にある瞳に言葉を促した。躊躇っても、傷を付けた犯人たちがへ抱く印象が変わる道理もないし、描いた時点でもはやの手抜かりなんだから悔やんでも仕様がない気がした。噂はひとりでに歩く、ということを俺は誰よりも理解している。
「抽象画なんだから、いくらでも言い逃れ出来るだろ?」
戸惑いつつ、はやっと首を縦に動かした。俺は満足して、口元に笑みを湛える。も、つられたように、笑った、ように見えたから、何だか変な心地がして、何故か不意に、言わなくてもいいようなことを舌に乗せた。
「俺がいなくなっても、がいれば見つけて貰えるかな」
多分、そのとき空気が妙に濁った心地がしたのは、気の所為ではなかったと思う。しまった、と思ったときには遅すぎる重い沈黙。の顔面に張り付いているのは、もうすでに答えの導かれている疑問符である。
「御免、別に、深い意味はないんだ」
無理矢理切り裂いたしじまが肌に突き刺さる。の、無機質な瞳もまた、今の俺には痛かった。
(やめろ)
(やめてくれ)
その切れ長の内側で丸く輝くいやに淡い色の瞳はもしかして俺のカルマさえも見透かしてやいないだろうか。だとしたら、も俺のことを果敢無いだなんてほざくんだろうか。胃の腑が締め付けられて、きりきりと呻くけれど、変に虚勢ぶる癖が災いして、まばたきをする他術が見当たらない。薄い唇が、小さく震える。何か言ってくれ、言わないでくれ、と矛盾する願いを胸に篭めた俺は、淀みなく齎された声を鼓膜で受け止める。
「幸村くんでも、不安になるんだね」
「…どういう意味?」
「幸村くんみたいな強いひとは、そんなことないと思ってた」
前触れもなく、パレットに筆先を押し付けたは、カンバスの傷に赤を塗りたくる。
「強い人間なんて、いないだろ」
「そうかもしれない、でも、幸村くんはここにいるから」
「…もっと、判りやすく言ってくれ」
「非日常に勝って日常に、戻ってきた、ってこと」
捻り出されたインディゴブルーが赤に重ねられて、毒のように踊った。絶望の躍動感が、確かにカンバスの中に存在している。
「このカンバスの中なんか似合わないよ、幸村くんは」
「………誰も、こんな場所に行きたいなんて思わないよ」
「じゃあ、ここにいなよ、生きていてよ」
にわかに涙腺が緩んで、を捉えていた視界が歪んだから、そんな無様な姿は見られたくなくて、を強く引き寄せた。からん、と音を立ててレタッチブラシが床に踊り、赤とインディゴブルーの斑点を床に刻む。の髪の匂いに混じって、さらに強い、油絵の具の香り。先刻まで、眼下に見えてきた白い腿の感触をさらに手繰り寄せると、が腕の内側で小さく鳴いた。不思議と拒絶の色は見えないから、きっとはこんなことをされて尚、非生命的な瞳で肩越しの世界を眺めているのかもしれないとすら思ったけれど、伸びた細い指が自分の後頭部を撫ぜたから、それは杞憂だと判った。
「ゆきむらくん」
「少し」
「…ん」
「だまってて」
俺はぬくもりを抱えたまま、声なく数粒の涙をの肩口に落として、はその間、俺に言われるがまま何一言も音にしなかった。ただ、指先のぬくもりはいつまでもすべらかに、俺の後頭部を彷徨っていたから、こそばゆかった。いつのまにしぐれた空が雨粒を窓に打ちつけていて、何だか皮肉のようだと思わずにいられない。脇見をすれば、そこにはあの光景がグロテスクに浮かんでいて、それすら綺麗だと思える俺は、今まさにどうかしている。
通り雨はあがり、俺は再び黒檀を握り締め、はほんのわずかに、淡い配色をカンバスへ乗せている。何事もなかったかのよう、とは嘘みたいな表現だけど、カンバスに集中している俺達にとって、その言語はまさにうってつけと言えた。黒檀はアルミホイルにかかるほど短くなり、それと引き換えに、やや不恰好な石膏像がカンバスに浮かびあがる。
「…ボルゲーゼのアレス」
「……なんだい、それ」
久々に、しかもから切られた口火に俺が視線を送ると、は今度こそ、口元に薄い笑みを浮かべる。俺は驚いたけれど、けして表に出さないように首を傾げる。
「その石膏像、ローマ神話の神様なんだって…、勇敢な理想の青年像で絶世の美男子」
「ふうん」
「まるで幸村くんだね?」
「……馬鹿にしてる?」
「幸村くんのこと嫌いなんて人、見たことない」
笑顔の内側に嫌味をたっぷり篭めて言い返すと、はふふ、と今度は声まであげて、瞳を緩めた。しかし、その直後、再び表情は通常運行を始める。
「私とは、正反対」
孕まれる確かな自嘲、俺は息を吐いて、黒檀を手放すと、カンバスをタッセルから外し、小脇に抱える。片足で、タッセルを畳む姿を、はじっと脇見していた。
「じゃあ、その正反対が一緒にいたら、みんな目を丸くするかな」
「…ぇ?」
意味がわからない、と書かれた顔で、はこちらに視線を送る。俺は何食わぬ顔で石膏像を片付けて、クロスを、元の状態より綺麗な4つ折りにした。
「昇降口で待ってる」
の
顔も返事も確認せずに、後ろ手で美術室の扉を閉めた俺は、きっと彼女が憮然とした顔で現れるだろうことをほとんど確信していた。廊下を歩きながら、俺は、またあの絵が傷つけられることがあったなら、俺が引き取ってやってもいいと提案しようと小さく頷いて、彼女のぬくもりが残るうなじに、そっと指を這わせる。
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