とつき
中庭の内側で泣いている少女が ぽつり。
ホ
ロ
グ
ラ
フ
その後ろ姿は、朝そうそうまみえるものではなかったから少々驚いた。あ、と小さく啼いて、口を噤む。驚かしてやろう、と言う邪な心がむくむくと芽生えたのだ。抜き足差し足で彼の直ぐ傍らへ歩み寄ったは、笑いを押し殺しながらひとつ、ふたつ、肩を叩いた。そして言うまでもなく、ひとさし指を伸ばしたまま、掌を肩へ鎮座させる。
「」
名を呼ばれて、ぎょっとした。さらに振り向かぬまま伸びた右手が、左肩に置かれた掌を掴んだから、言葉もない。やんわりとのたなごころを取り払いながら、見返り、萩之介は瞳だけで微笑った。…と言うのも、顔の半分をマスクが覆っていたから、大方の表情は隠れていたのである。風邪でもひいたのか、だからこの時間に、とは刹那推察して、自分の失態に苦笑しつつ朝の一語を舌に乗せる。
「おはよ…萩之介」
「うん、おはよう、朝から元気だね」
「…萩之介は…風邪?」
首を柔らかく縦に振ってから、萩之介は決まりの悪そうな色を瞳に滲ませる。傍らに落ち着いたが大丈夫なの?と心配すると、大事ないよ、と果敢ない声を漏らした。
「最近、急に寒くなったからね」
「そうだね、も気をつけて?」
人の心配より先に自分を案じて欲しい、と内心思ったけれど、そんなところが実に萩之介らしいなと感じながら、は素直に頷いた。満足気に笑んだ萩之介は、乾いた咳をもらして、小さくごめんと謝罪した。あまり気掛かりめいた台詞を起こすのは逆に萩之介を配慮させるだろうから自重したけれど、心なしか顔も赤いし、家で寝ていなくていいのかと少々気を揉んだ。うつむいたら、その横顔に視線を送った萩之介が、ぽつり、と疑問を漏らす。
「……しんぱい?」
「……え」
「隠し事は無駄だよ、ただでさえ判り易いんだから」
仕舞った、顔に出ていたか、と目をぱちくりさせたら、マスクの奥で盛大に萩之介が吹き出した。多分、今の自分の顔は風邪を引いた萩之介のそれより、ずっと赤い自信がある。
「かわいいね、」
言葉を失ったは、ことさら赤面し、俯く他に術を持たない。
萩之介はにとってひとつ年上の幼馴染だった。出逢った頃から下の名前で呼び合っていたから、定着しすぎて今更、滝さんとか萩之介先輩とか言うのは逆に恥ずかしくて憚られる。萩之介に恋慕を寄せている先輩がいたならば、多分ふてぶてしいくらいは思われているだろう。幼馴染とは言え何様、と。実際、先輩から呼び出され、萩之介と付き合っているのかと問い質されたことが記憶によれば3回ほどあった。そんな先輩は、首を横に振ったらだいたい眉間の皺を緩くし、先までとは違う種類の声で謝罪して、踵を返してくれるのだけれども、もしかしたら、声をかけないだけで恋人同士だと思っている輩は他にもいるのかもしれないと思うと非常に複雑な心境ではある。
(恋人、かあ)
先生の声をどこか遠くで聞きながら、ノートの罫線に視線を落としたは、人知れず深い息を吐いた。萩之介を小さい頃から良く知る親は、彼みたいな人がお嫁に貰ってくれたら安心なのに、という類のありがちで気の早い所論を述べてくることがあるけれど、実際に萩之介以上の男など易々見つけることが難しいと思ってしまっているからも大概救えない。家も近い、学年は違えど学校も一緒だ。その上親同士の交流があるから、割に頻繁に逢瀬しているとは言え、そのたび独占欲は募る一方で、だけど萩之介はどこか自分を家族めいて接しているようなきらいがあるからはこころともない侘しさで胸がいっぱいになるのであった。いっそ告白してしまおうか、とも思う。成就する可能性はゼロではない、とも。しかし玉砕したことを考えたら、もう今後一生萩之介の顔をまともに見られる気がしない。
『のことは、可愛い妹だと思ってるよ』
限りのない慈しみを孕んだ声で、の頭を撫ぜる萩之介を想像したら、なんだかひどく、泣きそうになった。いつのまに力を籠めていたらしく、押し付けていたシャーペンの芯がぱきりと折れて頬にぶつかった。わ、と小さく啼いたのを見て取った先生が振り返り、小さく微笑った。
「、次、お前ここ訳してみろ」
ありあまる自業自得さで散々な訳文を披露したことはかなりの痛手だった。の今日の思考の殆どはそれと萩之介の様態のことで犇いていたと言えよう。恥ずかしさに頭を抱えつつ、帰り支度を終えたは、萩之介にメッセージを送って見る。
[ 体調どう? 帰り今なら一緒に帰らない?]
ややあって、の携帯が返信に震えた。
[ 少し熱があがったから早退した だから、もう家 ごめんね]
驚いて液晶を二度見したは、少々躊躇われつつ、言うだけは無償だからと次の返信を手早く打ち込んだ。
[ 何か食べたいものある?おうち持っていこうか? ]
マフラーを巻いて、教室を後にしたは、昇降口のあたりで萩之介の返信を受け取った。少々心臓が上擦ったけれど、返信は病気の只中にいるとは思えない余裕を孕んでいて、は笑いを禁じえなかった。
[ なんでも食べられるよ 移ると大変だから、マスクしておいで]
緩んだ頬に、訳文の失態のことなどすでにどこ吹く風になったは、家の近くの洋菓子屋さんでプリンを買っていくことに決めて、早々校門の外へ駆け出した。
だからお休みしなさいって言ったのに、と苦言を申し伝えられながら、その口調は母親らしい憂いを纏っていたから申し訳ない気持ちになった。これくらいの軽い風邪で、と思っていたけれど、自覚していたよりずっと程度は悪かったらしい。学校で熱を計ってみたら、体温計の数字は37.8度を指していた。病院で貰った風邪薬を服用してのち、氷枕に頭を埋めて、萩之介は嘆息する。
(は…)
(さすがに少し、めまいがするな)
しばたたくと、白い天井が少しちかちかして見えた。頬にかかる毛が少し煩わしい、と耳の後ろに追いやったけれど、唐突に鳴った呼び鈴を受けて、半身を起こしてしまったからすぐに有耶無耶になった。
(…)
(思ってたより早い)
サイドボードに手を伸ばした萩之介は、薬の脇に追いやられていたマスクに手を伸ばす。定めて躊躇われたであろう呼び掛けは、体調を考えれば定めて断るのが筋だった。手を伸ばしたのは自分のわがままなのに、配慮を欠くのはよろしくない。遠くで、母とが
会話するのが聞こえた気がした。(玄関は遠いから、実際は聞こえるべくもない)それから、階段をあがる足音が、軽快に鼓膜を叩く。そして扉のノック音と、自分を呼ぶの優しい声色。頬を緩めつつ、萩之介は応じる。
「、ありがとう…入って?」
「……萩之介…、大丈夫?…じゃあないよね…」
扉を開けたは、中の萩之介の顔色を伺うようにそっと顔を出した。言いつけ通り、ちゃんとマスクを着用している。萩之介は首を振って、が思ってるほど酷くはないよ、と、瞳を緩めた。
「朝より辛そう…」
「ベッドにいるから、そう見えるだけだよ」
「そう…?」
「別に、ただの風邪なんだから、そんな顔しなくても」
だって、と呟いて、ベッドの傍のスツールに腰を下ろしたは、サイドボードの空きスペースに買ってきたプリンの箱を置き遣った。
「…俺の好きなパティスリーのやつ」
「うん、そう思って」
「ありがとう、一緒に食べようか」
「ぜんぶ萩之介が食べてもいいよ?」
「だって、ここのプリン好きだろ」
が思わずうっと言葉を詰まらせた。加えて消化にいいものと思って選んだのは辛くもプリンだから居た堪れない。まるで自分が食べたくて買ってきたみたいだ。空けるのが憚れるけれど仕方がないと思って箱を開封したら、案の定中身を見た萩之介は多いに吹き出した。違うよ、と弁解しても説得力がないから困る。はなんとなく口惜しくなって唇を噛みながら、少々乱暴にプリンの容器を萩之介へ突き出した。
「はい!」
「ふふ、ありがとう、嬉しいな」
「…本当に、思ってる?」
「思ってるよ?ちゃんと消化にいいもの、選んでくれたんだろ」
「…、!」
二の句が継げなくなったは、途端萩之介から瞳を逸らして、二つ目のプリンに手を伸ばすと、間髪入れずに包みを取り払い、マスクを下げ、付属のスプーンでぱくぱくと頬張った。事実なのだから照れる必要はないと判っているのだけど、こうもありのままに指摘されるとかくも恥ずかしいものである。
「…頂きます」
とは裏腹、丁寧に包みを剥がして、萩之介もまたプリンの表面にスプーンを差し込んだ。マスクを外したから、咳には留意しないといけないな、と思考しつつ、一口目を口に運ぶ。牛乳とバニラの香りが口の中を充満して、萩之介は幸せな気持ちになった。どうやら、熱は味覚をおかしくするほどまでには至っていないらしかった。
「おいしいね、」
「……うん」
「やっぱおいしいものは、一緒に食べてこそだよね」
なぜ、そんな台詞を流れるように音にすることが出来るのか、には判らなかった。かような暖かい言葉のすべてに裏があるとしたらこれほど怖いものもないけれど、萩之介はとても優しく、でもときどきとてもいじわるで、だからどちらが本当の萩之介なのか往々にして判らなくなるときがある。ただでさえ、の思考を読むのが得意な萩之介だ。何を言えばが喜ぶかなんてことは、ひょっとして手に取るようにわかってしまうんじゃないだろうか。だから萩之介の言葉に、安易に一喜一憂して目を細める自分を、萩之介はどんな瞳で見ているのだろうと、は時折酷く気にかかるのだった。幼い時分から中性的な物腰の柔らかさを携えていたのは、一重に、しとやかと呼ぶに相応しい萩之介の母の影響だろうことは明白だろうけど。
一足先にプリンを平らげたは、マスクの取り払われた萩之介の面立ちにじっと視線を貼り付けた。しかし、萩之介が今何を考えているかなんて露ほども判らない。判ることと言えば、多分プリンに舌鼓を打っているであろうことくらいである。視線に気付いた萩之介は、咀嚼を中断して小首を傾げた。がなんでもない、と言う風に首を振ったら、今度は口元を含めて微笑み、それからぽつり、と声を落とした。
「…迂闊だったなあ」
「…うん?」
「もう中学生活も残り少ないのに、ね」
勿体無いなあ、と零す萩之介は、侘しさと名残惜しさを吐露する程度には中学生活を満喫しているのだろう。クラスでの時間はもとより、定めて気掛かりはテニス部のことに違いない。辛くも正レギュラーは外されてしまったけれど、殆どマネージャー業務に近いことを任されていた萩之介がいなくなることはテニス部の大きな穴であり、そしてまた、テニス部での生活に重きを置いていた萩之介にとっても心の空洞になりうるだろう。
「…はやくよくならなきゃ?」
「うん、勿論」
プリンの残りを口に運んで、ぺろりと食べ終えた萩之介は、再びマスクで口元を覆う。おいしかったよ、と告げた声は掠れかけていて、風邪の程度が伺えた。無理が祟ったら拙い、と思ったは、ゆっくりとスツールから腰を持ち上げた。ほとんど同時に、萩之介は半身を横たえ、氷枕の冷たさを頬に纏わせる。しかし、視線だけはの居る場所を捉えていた。
「帰っちゃうんだ?」
「…うん、ゆっくり寝て欲しいし」
「じゃあ、眠るまで傍にいてよ?」
思わぬことに、驚いたは目を瞬いて、無言になった。返すに返せない踵が憎らしい。それより何より、無邪気であろう萩之介の我侭が。
「…なにそれ」
「俺だって風邪のときくらい心細くなるんだよ?」
「お母さんがいるじゃん」
「折角来たのに、それは冷たくない?」
結局は、スツールに再び腰を落ち着かせる他術を持たなかった。別段、帰りたくて帰る訳じゃない。時間もたくさんある。どういった力が作用すれば、ここから立ち去ることが出来たのか、は毛頭判らなかった。
「ありがとう」
謝礼してのち、すぐさま萩之介は瞳を閉じた。風邪薬の所為か、瞳の周りはまどろみで覆われている。きっとものの数分で眠りの淵に誘われるだろう。自分の息遣いの外に、の細かな呼吸と、微かな絹擦れの音がする。その視線は、怪訝めいているだろうか。
瞼の裏に夢の影を感じながら、萩之介は、そういえば前も秋深いこの時期に、風邪をこじらせたことがあったのを思い出した。途端、夢の影はその折の情景に姿を変え、萩之介の記憶を抉じ開ける。萩之介は片足だけ夢の内側に漬かりながら、果敢無く声を漏らした。
「…誕生日だ」
「……え?」
「俺が、風邪をひいて…は、ひどく泣いて」
「…何の話?」
「……むかしの、はなしだよ」
もしかして寝ぼけているのか、と思ったけれど、何か覚えがある気がして心あたりを模索する。そういえば、大昔、萩之介の誕生日に当の本人が風邪をこじらせたことがあった気がした。一度記憶の蓋を開ければあとを引きずり出すのは安易なもので、それがただの風邪ではなくおたふく風邪だったから、面会謝絶を言い渡されたことまで思い出した。多分あれはまだが4、5歳くらいの時の思い出である。
「うちの中庭で…、名前を呼んでただろ」
「…お…覚えてないよ、そこまで」
「…歯痒かったんだよ、あのとき」
「なにが…?」
「ほんとうは、すごく」
まどろみとは不思議なもので、あの日まみえることの出来なかったが、脳裏でははっきりと映し出されていた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、萩之介の部屋のバルコニーを見詰めるは、その声を必死に窓の向こうの萩之介に送っている。萩之介は朦朧とする意識の中での声を聞きながら、多分何度も心の中でごめんと呟いた。誕生日はお母さんの作ったケーキとごちそうを囲んで、一緒にパーティしようと約束していたからだ。
「すごく…?」
少しだけ身を乗り出して、は萩之介の顔を覗き込む。返事の代わりに、萩之介の長い睫が小さく震えた。息衝く胸元は安らかで、もしかしたら、もはやその言葉はうわごとに近かったのかもしれない。
「……あ、いたかった、…から」
ひゅ、との咽喉が啼いた。その微かな音を、萩之介が拾っていたかどうかは知れない。兎も角、次の瞬間には確実な寝息が、萩之介のマスクの隙間から零れていた。
「っう…」
なんてものを残していったんだ、と相手を攻め立てたい気持ちに駆られたけれど、こんな状態の萩之介を揺り起こすほどの神経は備わっていない。困惑に眉間の皺を濃くするとは裏腹、萩之介の顔はこれ以上ない安寧に彩られている。
あの折、記憶によれば確かは母に、我侭を言うんじゃない、パーティーはまた別の日に出来るのだから、と叱咤された覚えがある。しかし、それはの思惑とは外れていたから、萩之介の家から無理矢理引き剥がされ、帰宅を余儀なくされたはことさらにむくれたのだった。ただはその日一目でいいから萩之介に会って、おめでとうとただそれだけを伝えたかった。パーティーが出来なかったのも勿論涙の要因として一役買ってはいたけれど、あの日の一番の心残りは、萩之介に会わせて貰えなかったことであった。
まさか、萩之介はあの時分からの心のすべてをすべて、汲み取っていたのだろうか。それとも、それはただの買い被りで、ただ単純に、自分の萩之介の意思が同じところで交わっていただけだとしたら。
(今日も、本当は)
(……逢いたかった?)
(逢いたい、と、思ってくれていた?)
思い上がりだったとしても、身ままに、天にも昇る気持ちを手にいれたは堪らなくなった。意図せず目元に溢れる涙。そういえば、あのあと元気になったは、萩之介に縋り付き、改めて号泣したような気がする。重ね重ね、迷惑で恥ずかしいやつだと思うけれど、そんな自分をいつだって萩之介は受け止めてくれていた。止め処ない気持ちが胸に満ちて止まない。ひとりで夢に逃げ込んだ萩之介は身勝手だ。
(…萩之介の、バカ)
致し方ないとは思いつつ腹が立ったは、仕返しをしてやろうと思い立った。それは自分でも驚くほどの果敢さを備えていたけれど、なんとなく、後には引けない。
マスクを取り払い、くれぐれも音を立てないように萩之介のかんばせに近付く。数センチまで距離を詰めたあたりで、心臓が潰れてしまいそうになった。重力にまかせて流れる髪を耳にひっかけて、決して起こさないように、息を殺して。
「、………」
掠め取った萩之介の唇は、不織布越しとは言え暖かかった。もしかしたらそれは熱の所為だったかもしれないけれど、の胸を締め付けるには十分で、さっきまでの漸進的な動きが嘘のように身を翻したは、直後逃げ去るように萩之介の部屋から立ち去った。苦しくて、息が巧く出来ない。家に帰って自分の部屋のベットに突っ伏しても、心音は鳴り止まず、これではまるで自分のほうが、何かおかしな病気にかかったようだと思いながら、は瞳を閉じた。
(なんてことを…)
萩之介のきれいなかんばせと、唇の感触が頭から離れない。
(なんてことを…)
が帰って数時間後、目を覚ました萩之介は汗ばんだ額を拭いながら小さく呻いた。夢かもしれない、と思ったけれど、きっと、多分違う。何故ならベットの脇に、のものだとしか思えないマスクが転がっていたからだ。眠る間際、しっかりと彼女の口元を覆っていたそれが、なにゆえここに転がっているのか。答えはひとつしかない。
(ときどき出し抜いてくるから)
(油断できないよ)
()
長い、長い息を吐いて、仰向けから横に転がった萩之介は、扉の傍に掛かっているカレンダーに視線を送る。気付けば、今年の誕生日ももうすぐそこまで近付いていた。唇には、マスク越しに感じたのぬくもりが宿っている。
今年はふたりきりで過ごそうか、と提案してみよう。そう決意して、萩之介は再び目を瞑る。その前に、風邪のウィルスを撃退しなければ元も子もない。耳たぶが熱いのは、きっと熱の所為だと自分に言い聞かせて、萩之介はマスクの下の頬を柔らかく緩める。
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