「…はっ!?」
「…あれ?」
やや本気めかしたダイエット及び体力作りのために始めた早朝のランニング2日目、ばったりクラスメイトに出くわす早朝。なんだかとってもついてない、気がする。
命
短
し
疾走
れ
よ
乙女
それはまだ朝日とやらが日常に追いついていない黎明と呼べるあたりの出来事だった。滲んだ汗を拭おうと、伏せ気味のこうべをいささか持ち上げたのが良くなかったのかもしれない。そうしなければ、きっとパーカーの奥に顰められた面立ちはみとめられるに容易くはなかった。同じく土手を滑るように走り抜けていたのは滝萩之介である。他の人にならば見つかっても良かったけれど、何故よりにもよってこの人なんだ、と、は溜息を禁じ得ない。遠くない場所に住んでいることは知っていたけれど、朝ランニングの日課があったとは知らなかった。手抜かりだった、とは落胆する。
「も走ったりするんだね?」
うるさい、だまれ、ついてくるな、ルート違うだろ、と胸の内側が悪態で埋め尽くされる。汗が微かに滲んでいるものの、まるで余裕の滝とは違い、はかなり、否、比較するとしたら絶望的に疲労していた。だってまだ2日目だもの、仕様が無いじゃあないか。という類の言い訳も、口に出してみることは簡単だけれどもとかく意味のないものだろうと思うから決して舌には乗せなかった。軽く受け流されて無様な自爆に流れるのは明白な事柄である。
(馬鹿馬鹿)
(私の馬鹿)
(滝の馬鹿)
ぜえぜえと鳴る胸の内側ではしきりに『馬鹿』と『よりにもよって』の領地争い・押し問答が開始されている。そんなこと露も知らない滝は憎らしいまでに清々しい。爽やかを辞書で引いて出てくる表現の全てを今の彼に当てはめても遜色などないだろう。棚引く髪が軽く結われている様子は希少で、テニスの折はけして纏めたりしないのにな、と少し余計なことを考えてしまったは、自分がいやになった。
「、運動部じゃなかったよね?」
「…うん」
「なのに走ってるんだ?」
「…うん」
「偉いね?何だか」
「……私から、したら」
「うん?」
「……既に部活でたんまり動いてるのに、なお且つランニングしてる滝のほうが偉い」
ワンブレスで長文を述べたから、余計に息があがって後悔が込み上げる。酸素の足りない頭の奥に、そういうもんかな、と笑みを孕んだ優しい声色が染みて、くらくらした。
「どこまで走るの?は」
「…あの高架の脇、スロープから降りるから」
「そう、じゃあ俺もそこで折り返そうかな」
涼しげに言ってのけた滝は、柔らかく笑んで、ひとしおの動揺を誘った。もうやだ、と言う思いと、心ばかりの寂寞と、酷い呼吸の乱れ。朝日が煌々と、煌々と照って、の面立ちを露呈させる。今日は暖かくなるだろうか、とぽつり考えて、その直後霹靂めいた言葉が忽如の真ん中を貫いた。
「でも、またなんでランニングなんか?」
(余計なこと聞いてこないでよこの馬鹿滝!)
絶句した様子を悟られないように俯いたは、また一際大きな罵倒の一語を心の内側でありったけ響かせた。
「…別に、…なんとなく」
「……?」
「…もう!なに!」
「……赤くない?顔」
大丈夫?
辛い?
高架まで持つ?
もしかして、被ってるフードの所為じゃない?
と、続けざまの疑問はほとんど耳に入ってこなかった。挙句、の身を案じた滝が、フードに手をかけたのがよくなかった。汗で濡れた額に、滝の体温が寄せられて、は窒息しそうになった。指摘されたその瞬間より赤くなったであろう顔をみとめられたくないは、とりあえず、寄せられた指を振り払うので精一杯だった。
(言えるもんか)
「ほっといてよ!」
「……あ、ごめん、聞いちゃいけなかった?」
「聞いちゃいけないと思うなら、聞いちゃいけなかった?なんて聞くな!」
「はは、ごめんごめん」
「思ってないでしょ!」
そんな一連のやりとりで自分の首を絞めても、ひとまず走るのを止めないは、もはや何かから、と言うより、目前の滝萩之介から今逃げたくて仕様が無い。しかし、そんなこと下らない誤魔化しでしかなく、本当は酷く不毛な行為だということも、また痛いほどは認識している。
こんな成りで、実を言えば、ほんの1ミリでもいいから距離を詰めたい、だなんて笑わせる。自嘲の気持ちが募った頃、いつのまに、高架はもう目前に迫っていた。心なしか、滝の走る速度が緩む。逃げていたはずなのに、何故かの足取りもつられたように緩んだ。
「」
「…なに」
「明日も走る?」
「…………聞いてどうするの」
「折角だから、また一緒…」
「いやだ、絶対いやだ」
「…………つれないなあ」
(つれてたまるかってーの!)
握った拳が汗で滲む。しかし拒絶の色味を明白にしすぎた所為か、かすかに顰められた眉に罪悪感が募ったは、負けだと思いつつも、言い訳めいた言葉を継いだ。
「だって、私と走ったら滝のトレーニングにならないでしょ?」
「あ、なんだ、そういう理由?」
「他にどんな理由があるっつーの?」
「意外にも、嫌われてるのかと思って?」
「意外って何、しかも何で疑問形なの」
「…ふふ」
(何で笑ってんの…)
今度はこちらが眉を顰める羽目になり、なんだか釈然としないなと感じていたら、ふと滝が立ち止まった。あ、と声をあげて、滝の所為で逸らされていた眼前の景色を見たら、高架がすぐ目の前に立ちふさがっていた。
「じゃあね、」
「うん、また」
「そんな寂しそうな顔しなくても、2時間も経てばまた逢えるよ?」
「してないし!」
「あはは、それじゃ、お疲れ様」
からからと笑いながら後ろ手を振る滝も憎らしければ、勝手きままに赤くなる自分の顔も憎らしい。グレーのトレーニングシューズで、滝は颯爽と高架から離れて行く。あんなにも居た堪れなくて逃げ出したいのに、この名残惜しさはどういうことだ。は整わない息のまま唇を噛んで、踵を返した。正しくは、返そうとした。
「―!」
ほとんど背中を向けていた滝から、不意に名前を呼ばれて振り返る。遠いからあまりよくわからないけれど、その面立ちは、少し悪戯っぽく、笑んでいるように思えた。傾げた首を合図と取ったのか、滝はおもむろに次の一語をこちらに放った。
「痩せなくても充分かわいいから、安心しなよ?」
「は、っは、…あ!?」
「あ、やっぱ、図星?」
俺、やるねー!と言ってのけた滝は、やたら嬉しそうで、無論相反するがごとく腹腸が煮えるのはである。いよいよ熱くて堪らなくなったは、パーカーのフードを取り払うとわなわなと震えてそれから懇親の力で、溜め込んでいた悪態をほんの一語にどうにか凝縮させてぶん投げた。
「ほっといてよ、馬鹿滝!!!!」
追いかけて一発殴ってやりたい衝動を留めつつ、は高架脇、スロープの方向へ走り抜けた。間際、また明日も待ってるよ〜とか呑気な台詞が鼓膜を叩いたけど、無視を決め込んだ。様々な感情が綯い交ぜになったまま、朝日に照らされた住宅街を走り抜けたころ、それこそ、馬鹿になったみたいに別れ際の一語が内耳で反芻して仕様もなかった。
『痩せなくても充分かわいいから、安心しなよ?』
誰のためだと思ってるんだ、と力まかせに全力疾走を決め込んだが、日がな一日使い物にならなくなった足の痛みと、いやに飄々とした彼の態度と、交戦することになるのは、言うまでもない話。
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