あいされたいのならば さきにあいてをあいすることだ


               グ ン グ ニ ル


彼は初めから何だか少し異質だった。文庫本を読む伏目はひどくはかなげに見えるから、テニスバックを抱えて入店したときには驚いたものである。しなやかな外見とは裏腹、スポーツ少年だったのか、と、そのとき私は伝票に文字を走らせながらぼんやり考えていた。注文するのはいつも大抵ホットのカモミールで、たまにアイスのストレートティーへとシフトする。サンドイッチを頼むこともあるけれど、何かを食すのはごくまれで、だいたい行儀良く、片手をカップに添えながら紅茶を嗜む。(嗜む、という表現が実にしっくりくる)他の時間は、店に置いてある書籍か新聞、もしくは持ち込んだ文庫本に視線を落としていることが大概だ。携帯を取り出すのを眼にすると、やはり彼もいまどきの学生なんだな、と思わずにはいられないけれど、その作業は短時間で取り止められ、結局最終的に彼の視線を奪っていくのは、書面の活字なのであった。

「お待たせしました、カモミールティーです」
「あ、ありがとうございます」

肩まで届くくらいの、男性にしては充分長い髪を耳にかける仕草に併せて、微かに会釈する。一連の綺麗な流れに見惚れてしまう。良い育ちが容易に想像出来た。制服が氷帝なのも納得だ。

「あの、すみません」
「は、い?」
「先週のマルカは休刊ですか?」

耳慣れない単語に思わず首を傾げると、彼はふと笑んで、ブックラックを指さした。整った眉が、わずかに下げられて、唇が動くまでを、わたしは何故かスローモーションのように見つめている。

「新聞、スペインの」
「あっ、あの、その」
「あー、ごめんね、お客さん、先週のマルカは水場においといて濡らしちまったんだよ」

うろたえる私の後ろから、申し訳なさそうな店長の声が響く。ああ、そうだったのか、というか、店長が好きで取り寄せてる英字新聞の中に、スペイン語が紛れていたこと自体、情報として今入手した。

「…だ、そうです」
「そっか、残念」
「スペイン語、読めるんですか?」
「少しですけど」

授業で専攻しているだけなので、と付け加えて、彼は控え目に微笑んだ。始めてみる表情に慌てた私は、言わなくてもいいような言葉を舌に乗せる。

「勉強熱心なんですね」
「勉強半分、趣味半分ですよ」

というより、職業病みたいなものかな?と肩を竦めた彼が、今度指を差し向けたのは自らのテニスバッグだった。

「強豪なんです」

始め意味が判らなかった私はきょとんとしていたと思う。そして理解してからの反応は、後から思えば大袈裟で、滑稽だった。

「あ、あー、あー、スペイン、強いんですね、テニス!?」

ええ、と応答した彼は、薄い唇に指を寄せて、かすかに笑い声を立てていた。深々とお辞儀をした私の顔は、いやに熱かった。


それからだ、私と彼がぽつぽつと話すようになったのは。滝萩之介と言う本名もほどなく判明して、なんて名前負けしてない人だろうと思ったのをよく覚えている。滝くん、と呼んだら、萩之介でいいですよ、とスマートに名前呼びを促され、、あまつは私のこともすぐにさんと呼ぶようになった。大人びて見える彼は意外にも高校一年生にあがったばかりで、わたしとふたつも年が離れていたけれど、敬称と、敬語がまさにしっくりと言う彼の口調が、なぜか余計に私と彼の距離を縮めた気がした。窓の外が夕日の色味を帯びたのちに鳴る来店のチャイムに、毎回期待を篭めて振り返るようになったのは、悲しい癖だと思う。

からん

ころん

「いらっしゃいませ」
「あれ、あれれ?」
「どうしました?」
「早くない?」
「…そうかもしれませんけど、さんも遅かったんですよ」
「ああ、そっか」

取り立てて熱中できるものもない私は、大抵萩之介くんより先にお店に辿り着いて彼を迎え入れる立場なのだけど、今日は店に入った瞬間に萩之介くんが定位置で私を出迎えたから驚いた。内容も取り立てて覚える必要がない臨時集会が行われたせいで、店に来るのが遅れたからだ。そんなときに限って萩之介くんは幾分か早い入店だったらしく、私は入店時にだらしない顔をしていなかっただろうかと少し前を顧みる。

「早く来てみるもんですね」
「へ?なんで?」
「翠蘭の制服姿、初めて見ましたから」
「あー…似合わないでしょ」
「いえ?でも、本当だったんだなあって」
「そっちのほうが辛辣じゃない?」
「はは、だって、翠蘭校則厳しいじゃないですか?」
「これはバイトじゃない、お手伝いですから」

バックルームへの道をすり抜けながら、軽く結われたみつあみを解く。確かに、私の通っている女子高は由緒正しいお嬢様学校で、バイトは厳禁だ。見つかったら停学くらいは食らうかもしれない。でも私は叔父の切り盛りしている店を手伝って、そのお礼として微々たるお金を貰っているだけだから、これはバイトとは見なされない。という屁理屈で、ここに勤めているのだ。

「あ、今日水曜日だっけ?マルカ新刊来てるんじゃない?古いのもってきなよ?」
「ありがとうございます」

言い残して、私はバックルームに消えた。もともと常連の萩之介くんは、時期の過ぎた新聞を持ち帰る権利を得て、私は、彼が新聞を読んでいた時間に、会話する権利を得たのだった。一挙両得とはまさにこのことだ、と思っているのはたぶん私だけだと思うけれど。

ちゃん、入っても平気かい?」
「あ、はい、もう大丈夫!どうしたの?」

着替えを終えて、エプロンの紐を結んでる最中、カウンターへ続く扉からふと叔父さんの声が響く。私の声を聞き終えて扉を開けた叔父さんは、小さな謝罪ののち、店を少しの間任せてもいいか、と尋ねた。

「どうしたの?」
「ああ、ちょっと野菜を切らしちまって、ついでに、いくつか食材買ってこようと思うんだが」
「うん、15分くらいなら、問題ないと思う」
「ありがとう、助かるよ」

叔父のうっかりは今に始まったことではないので、私は至って涼しい顔で店内への扉を潜った。この時間は人も少ない。簡単な注文なら私でも受けられるし、常連の人は店長を待ってくれるだろう。そんな思惑だった。しかし、店内に躍り出てはじめて、私はことの重大さを理解したのだった。

「あ、いつものさんだ」

ふと笑んだ萩之介くんは、読んでいた文庫本にしおりを挟む。そうだ、今店内にいるのは萩之介くんただひとり。つまり、これは、わかりやすくふたりぼっちと言うことだ。

「いいよ、読んでて」
「うん、ありがとう」

心のざわめきを悟られないようにカウンターの台拭きを手に取る。そして、大して汚れてもいないテーブルをいたずらに湿らせる。わざと向けた背中。嬉しいけど、嬉しくない。

「ふたりきりですね?」

もたらされた一語は私が反芻していた言葉を音読したかのようだった。すぐにしてみせた肯定の声は、抑揚がおかしくなかっただろうか。

「なんだか緊張するな」

まるで台詞とは正反対の朗らかさで紡がれた声が憎らしくて、横目でぎろりと萩之介くんを盗み見る。閉ざされた文庫本の表紙を、むやみ撫ぜる右手が見えた。狭い店内、どんなに距離を取っても、彼は半径数メートル圏内に居る、と、二人きりになるまで考えたことすらなかった。

「マルカ、持ってこようか?」
「後で良いですよ」

振り向いた笑顔を逸らすようにカウンターへ戻る。背中に、怪訝そうな声がぶつかった。

「どうしたんですか、さん」
「なにが?」
「挙動不審に見えるので」
「…店長が居ないから、手持ち無沙汰なの」
「じゃあ、いつもみたくこちらで話せばいいのに」

心が見透かされてるみたいで、顔に熱が篭る。中学は共学だった。男兄弟もいる。女子高だから、男に免疫がないとか清純ぶったことは言わない。ただ、どうしたらいいかわからなくて、戸惑ってしまう。

「俺は、少しラッキーなんですけど」
「なにが?」
さんと二人で話せる機会って、あるようでなかったから」

萩之介くんの

顔が見れなくて、視線をせめてその指先に落とした。文庫本の表紙は、油彩の重々しい絵画だ。何かを勇ましく掲げる雄雄しい戦士のように見えるけれど、詳しくは判らない。その上に、行儀良く鎮座する彼の右手。しなやかながら、節ばっている。テニスバックの中に収まる相棒がしっくりと納まるように仕上がっているんだろう。胸が痛い。

「グングニル」
「え?」
「狙うものはけっして外さない…北欧神話の神が持つ槍のことです」

退けられた右手の下に、萩之介くんの言ったそれが白抜きの明朝体で印字されていた。

「また、難しい本読んでるんだ」
「神話も、なかなか面白いですよ、日本語ですし」
「…馬鹿にしてる?」
「まさか、とんでもない」

萩之介くんがポットから2杯目の紅茶を継ぎ足したから、温かいカモミールの香りが鼻腔を掠める。好きだな、と思った。カモミールの香りも、モノトーンのテニスバッグも、読めるようになったマルカの綴りも、しなやかな右手も。

グングニル。
例えばそれがあるのなら、私は。

Amar es el más poderoso hechizo para ser amado. Baltasar Gracián.

聞いたことのない発音が聞こえて、私は首を傾げた。英語ではない。定めて、スペイン語であることは容易に想像がつく。勿論、意味はひとつもわからない。

「俺がここに通ってたのが、マルカのためと思ってますか?」
「…どういうこと?」
「例えば、たまたま入った感じの良い喫茶店で、働く方に一目惚れして、そこにたまたま趣味の良い読み物が置いてあった、とかね」

投下された発言に驚いた私は、思わず顔をあげて、萩之介くんの顔を確認する。あからさまに遠まわしなそれが、何を暗示しているか、判らないほど私も馬鹿ではない。

「萩之介くん、まさかとは思うけど、同性あ」
さん?」
「ごめんなさい…」

だって、可能性の芽はつぶしておくにこしたことないじゃないか、と内心呟いたけれど、細く緩められた萩之介くんの瞳が何かを訴えていたから、唇を閉ざす。平静を装っているつもり、ではあったけれど、多分、死にそうなくらい脈打つ鼓動に、彼は気付いているだろう。カモミールはリラックスを促す効能があるとは聞くけれど、萩之介くんは何故こんなに冷静でいられるのかわからない。だから、もしかしてからかっているだけなんじゃないかと邪推してしまう。

「あの日、マルカが置いてあったらどうするつもりだったの?」
「そんな無益なこと、考えるだけ無駄だと思いますよ、さん、それより」
「……うん?」
「タイムリミットまでに、聞いておきたい言葉があるんですが」

ね?と優しくも強かな念押し。年上なのに、こんなに翻弄されて、私は馬鹿みたいだ。

「萩之介くん、いじわるだね?」

左手が優しく伸びる。右手には、携えられたグングニル。私はとても、かないそうにない。

 


20130121グングニル