自分の晴れ女ぶりを過信した。そんなジンクスは万能でないのに。季節は梅雨にさしかかろうとしているのに。その降り方はクレッシェンドと言うよりもっと突発的で、住宅街を歩いていた私が、ようやく見つけた店舗の雨除けに身を寄せた頃、私の頭と肩口はもはや手遅れと言えるレベルに雨の色を帯びていた。溢れる溜息。光のやつが駅まで迎えに来てくれていれば、惑いつつ道を探る手間もなかったからこんなことにはならなかっただろう。
「くっそ…」
Raining
まがりなりにも、カトリック系のお嬢様おぼっちゃま学校(と、周りには言われている)に通っている女子生徒が発するとは思えない悪態を濡れたつま先に送ったら、ふと、その視界に翳が宿った。驚いてかぶりをあげると、向こうもいささか驚いた様子で、ぱちくりとまばたきをして見せる。
「…どうも」
それから、綺麗な所作で会釈したのは異様なまでに美しい男の子だった。まさか聞こえてはいまいかと案ずる程度には心臓が唸る。ステレオタイプ極まりないほどに、水もしたたるなんとやらだ、と私は心で唱えて、再び俯いた。
「はー、随分濡れてもた」
ひとりごちて、鞄からタオルらしきものを取り出した彼を横目でちらりと盗み見た。とたん、目が合って、再びさっきと同様に心臓が上擦る。にこ、と効果音を携えながら、目元を緩ませた彼は、取り出したタオルで肩口の水を払いながら、ゆっくりと唇を動かした。逃げ込んだ店舗は定休日なのかシャッターがぴったりと閉まっている。夕闇の近づく住宅は静けさを纏い、雨音の中、彼の声が妙に突出しながら鼓膜に到達する。
「…もしかして、東京から来はったん」
「え、なんで……、」
「その制服、見覚えあるわ、確か…えっと」
「聖ルドルフ」
「せや、せやった、聖、ルドルフ」
満足気に頷いて、彼は几帳面にタオルを四つ折に戻した。私がことさらに首を傾げると、口元に笑みを湛えた彼は、回答だといわんばかりに言葉を継ぎ足す。
「テニス、強いやろ」
「…あ、…うん、ウチのクラスに部長いる」
「へえ、世間は狭いなあ」
「…テニス部なの?」
「おん、ちなみに俺も、部長やで」
そう告げた、彼の制服はよくある一般的な学ランだったので、どこの学校かという推測は広がらなかったけれど(そもそも、私は大阪の中学校なんてほとんど知らない)、なんだか胸がざわついて、つい疑問符を舌に乗せる。
「……ちなみに、どこ?」
「どこ?…ああ、四天宝寺中言うんやけど」
本当に世間は狭いかもしれない、と私は強く思った。私が一体どんな顔をしていたのか知れないが、目前の綺麗な顔にほんのわずか、怪訝の色が混ざったところを見ると、よっぽど複雑に歪んでいたのかもしれない。
『…へえ、テニス部なんて意外…つーか、超意外』
『俺自身も意外や言うねん、あと言い換える意味』
『どうせ帰宅部か、入ったところで軽音か漫画アニメ同好か…』
『せやなー運動神経ハナクソ同然の姉には用意されてない選択肢やなー確かになー』
『殴るよ、殴りますよ』
『…もう殴っとるやないか、あ、これ絶対痣なるやつや』
昨年のお盆に従弟と繰り広げられた会話がふと、すさまじい速さで脳裏を過った。つまるところ、この人は。
「……光んとこの、部長さん?」
「は……、光って、まさか財前?」
「そう…、財前光」
「せやけど…、なん…」
言いかけて、やめた彼ははっと口を抑えて、それから二度ばかり頷いた。いやな予感をひしひしと覚えつつ、私は彼が次に吐く言葉をどう一蹴しようかと早々思案する。
「そっかー…、財前も隅に置けな」
「遺伝子上の関連がなければ死んでも関わることのなかった人種だと思うのでそこのところ宜しくお願いします」
早口で捲くし立てつつ、いつの間に半身を乗り出していた私は、忽恕眼前に曝された彼のかんばせにいささか驚いた。しかしまあ、彼も私の否定の勢いに驚いて目をまあるくしていたので、こちらの身勝手な狼狽に気付いてはいない。
「あー…、なんや、親戚?」
「そう、イトコ」
「なるほど、可愛い彼女、雨の中ほっといたらアカンやろ思たけど」
「…やめて頂戴、本当に、それだけは」
「あはは、あかんか?光男前やないか」
光が顔は人並み以上、性格は人並み以下プラスアルファエキストラストロングであることはさておいて、この麗しき同級生からお世辞とは言えお褒めの言葉を仰せつかった私の心は驚くほど沸いた。どうにかそっぽを向いて誤魔化したけれど、多分変な顔をしていたと思う。
「自分、名前は?」
「え、わ、わたし?」
「俺は白石、白石蔵ノ介」
蔵ノ介。
割にイマドキの容貌をしているのに、名前は言い得て妙に古風で、しかしながらそれが下手に符号しすぎていて面白かった。どう見ても蔵ノ介である彼に、失礼ながら思わず吹き出してしまいそうになるのを堪えて、代わりに自分の名前を吐き出す。
「私は」
「ああ、ちゃん!君か!」
「な、何…?」
「いや、ちょっと前、財前が、ゆるキャラ見ながら『これ姉好きそうやなー』って呟いたのを謙…、部活のヤツらがすさまじい勢いで突っ込んでな、それからむちゃくそ財前の機嫌が悪なって、部室の空気が闇に包まれるっちゅー事件が…」
「ウチのイトコがすみません」
「いや、ええんやけど…、他の連中もしつこいねん大概」
(光の馬鹿…)
よもや自分の名前がそんなところで既出していたなんて夢にも思わない私は顔から火が出る思いだった。両頬を押さえて俯く私へ、蔵ノ介くんは多分あたたかな視線を送っているであろうから余計に居た堪れない。しかし、その事件とやらのおかげというべきか、私と蔵ノ介くんの距離が漫然と詰まったような気がしたのは言うまでもないことだった。
ふと
いつのまに遠くに追いやられていた雨の音が途端に鼓膜に到達して自分の今の状況を改めて思い出す。
「それにしても…やまへんなあ?」
ほぼ同時に、雨の音を呼び込んだらしい蔵ノ介くんは軽く息をついて、ぼんやりと空を仰ぐ。ちらりと盗み見た彼の横顔はやっぱり綺麗で、私の鼓動はもはや警鐘に近いものがあった。
「どーする?夜になってもやまへんかったら」
こちらにかんばせを寄せて、蔵ノ介くんはなんだか少しだけ悪戯に笑んだ。私はひとしきり慌てたけれど、唇を噛んで、表情が変貌するのをやり過ごす。
「…なんかおもしろいこと言ったほうがいいの?」
私がぽかんと言い返すと、蔵ノ介くんは刹那呆気に取られたような表情をして、それから眉間に皺を寄せた。
「…一応真面目に聞いたつもりやったんやけど」
「あっ…ごめん」
「あーもう……、せやったら住むか?ふたりでここに」
「いや、帰らせて?」
「…せっかく俺ボケたんやけど」
「うん、知ってる」
「…ボケ殺しのって呼ばせて貰うわ、今度から」
「くそださい!やめて!」
「女の子がクソとか言うたアカン!」
とりとめもない会話の傍ら、ポケットで唸る携帯を知らん振りしていた私は、きっとあとで光にめちゃくちゃな悪態を吐かれるに違いない。
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