今年の冬はウィルスが猛威を奮っているとかで、なんだか去年も似たようなフレーズを聞いた気がするなあと気楽に構えていたらあからさまにクラスメイトがばたりばたりと熱に倒れて笑い事じゃなくなった。インフルエンザ、ノロウィルス、風邪、理由はさまざまあるけれど、聞けばどこのクラスも学級閉鎖ギリギリの人数で授業を行っているらしくてさらに閉口する。受験も控えているから、熱はないけれどあえて人ごみに紛れるのは危険だとお休みさせている親もいるらしい。
「わー、ついに一氏も倒れたか…」
「ホンマ、殺しても死なへんと思ったのに驚くわ」
「小春ちゃんは大丈夫なの?」
「アタシは大丈夫!一氏菌だけ厄介やけどね…」
潜在的
潜伏期間
遠い目をした小春ちゃんの瞳の中に小春ちゃんの名前を矢継ぎ早に呼びまくる魘された一氏の幻を見た私は、大概小春ちゃんも不憫だなあと思いながら、消え入りそうな声で気をつけてね?と告げた。今日の欠席者は6名である。黒板の横に誂えられている「各委員会からのお知らせボード」に欠席者と注意喚起を書き込んだ私は、当番を全うすべく教室を後にする。今日の相方は、確か2組の白石蔵ノ介だ。大概彼も病気の類には強そうだなあとか捉えようによってはどういう意味やとつっこまれかねない所論を心に浮かべて、辿り着いた保健室の掲示板には、クラスの欠席者数が貼り出されていた。
「うわ…マジか…」
1年のクラスは明日にでも学級閉鎖が行なわれそうな兆しがにじみ出ていて冷や汗をかいた。合格範囲内、とは言え、インフルエンザの身体で試験を受けたら結果はどうなるか判らない。寧ろ私みたいに余裕ぶっこいてる輩のほうがきっと拙いのだ。寧ろ、まだ試験まで10日以上ある今のうちにかかっておいたほうが得策なのではないかと言う妙案を心に浮かべながら、扉の前でぐるぐる考えていたら、背中にふと気配を感じてはっとした。
「入らへんの?」
白石くんのあまやかな声がつむじにぶつかり、脇からにゅっと手が伸びる。軽く振り向くと、声色以上にあまい面立ちが控えてていて見詰めるに憚られたからすぐに扉の方向へ視線を戻した。自動ドアみたく開いた入り口に足を踏み出しながら私はぼそりと謝礼した。
「ありがと…ごめん、ちょっとぼうっとしてた」
「ビビるよなあ?あの欠席者の数」
「白石くんのクラスは?」
「ウチは4人、優秀なほうと違う?」
保健の先生は不在らしく、保健室はいやにがらんとしていた。発熱がなくとも風邪らしき諸症状があればすぐ家に帰す、が最近の保健室の鉄則だから、ベッドを使う輩も居ない。職員机の上には、コピー室、昼食がてら戻ります、との走り書きが置き遣られていた。
「センセも忙しいなあ」
「最近名義の配布物多いもんね、またそれかなあ」
「試験も近いし、たいそやわ」
言いながら、脱脂綿の残りを確認する白石くんはすがすがしく、まるで風邪の様相を纏っていない。私は手の消毒用アルコール水を一度すべて捨てて、新しい溶液を作りながらちらちらと白石くんの動向を確認していた。
(きれいだなあ)
中世的な容姿もさることながら、白石くんは所作のひとつひとつが極めて整っているから見惚れてしまう。骨ばった体つきは、決して女らしくはないのに、一挙手一投足がやわらかく思えるのは他の男子が必ず持ち合わせているがさつさが含まれていないからだろうか。それもこれも全て含めて彼を『優しい』と形容してしまうのは何だか足りない気がしてはばかられるけれど、所詮中学3年生の私の語彙力の範疇では彼を表す巧い言葉など思いつくべくもない。
「はさ」
「へっ?」
脱脂綿を裂く白石くんの手元を見詰めていたら、唐突に自分の名前が放り込まれたから驚いて変な声が溢れる。白石くんの注意は脱脂綿にひきつけられていたから、挙動のおかしさまで確認されなかったのは不幸中の幸いと言うやつである。
「どこ行くん?高校」
「あー……、一応、星風海南」
「えっ、ホンマに?ほなら一緒の学校かもな」
「う、嘘お!?白石くんもうちょっと上んとこ行くと思ってたよ?」
「先生にも言われたけど、…星風はテニス強いねん」
「あっ………そういうことか」
「俺は逆に、のほうがもうちょっと上行く思てたけど」
「…それは買い被りすぎでしょ」
「そうか?そんなことないで」
ただまあお前のクラスには小春とユウジがおるからなあ、霞むかもしれへんけどと継いで、白石くんは何だか嬉しそうに、微笑った。そうか、うまくことが運べば来年からもまた白石くんの顔が見れるのか、と思ったら何だか私も頬が緩みそうになったけど堪えて俯いた。白石くんの居る方向でぱこ、と脱脂綿のケースの開く間抜けな音が響く。几帳面に揃えられた脱脂綿がケースに詰められているであろうことを思いながら、精神統一めいたことをしている自分は何だか滑稽だったけど仕様がない。耳の奥で鳴り響く警鐘は、白石くんに心解き解されてしまったら一貫の終わりと告げていた。
特段やることがなくなった私は机の上に置かれていた利用者リストを意味もなくぱらぱらと捲って見る。備考、の部分に親に連絡及び早退と書かれているのが目立った。やっぱりそうなのか、と私は思って小さく息を吐く。
(何だか)
(怖くなって来ちゃった)
予防予防と取り沙汰されているけれどどれだけ予防を心がけていてもかかるものはかかる。目に見えないものを防ぐのは至難の業だ。挙句インフルエンザやその他病は潜伏期間と言うものがあって、保菌していても3日くらいは症状が表に出ないらしい。つまるところ今現在の私が潜伏期間中の保菌者である可能性はゼロではないのだ。…そう言えば昨日理科の実験班で一氏とののしりあった覚えがある。あいつが小春と一緒の班が良かったとか何とか言いやがるからうるさい黙れと釘を刺したらお前が黙れこのブスとか何とか言いやがるからむかついて喧嘩口調のまま実験が進んでいったのだった。あの時一氏が菌を撒き散らしていたのは明白である。あれがただの風邪ならまだしもインフルエンザだったら…。
「…?」
「えっ?うん?」
「どしたん?顔色悪いけど」
「……い、いや、なんか昨日一氏に風邪移されたかもなって…」
「……はあ?」
診察用の丸椅子に腰掛けていた白石くんは慌てた様子で立ち上がり、ふてぶてしく教員用の椅子に座っていた私の傍へ歩み寄った。拙い、言葉が足りなかったか、と思うが早かったか、目前にしゃがみこんだ白石くんは、上目でじっとこちらの顔色を伺って来る。そんな白石くんの顔色のほうが青いような気がするよ、と言おうとしたけれど、気迫めいたものがあってとても何か言う気になれなかった。
「いける?熱は?」
「い、いや、大丈夫だよ、ぜんぜん…」
「そない言うて、酷なったらどないすんねん」
言葉尻と強くしながら、さとしてくる白石くんにどうしていいか判らない。さらに言えば、その真っ直ぐな瞳で見詰められてすっかり動転した私は、顔色が悪いどころか赤くなっているんじゃないかと気が気じゃない。忽如伸びてきた右手に身体がびくりと揺れる。指先がそっと前髪を払い、白石くんの掌の体温が、私の額のそれと馴染んだ。気付けば、リストを持つ私の手はひどく汗ばんでいて紙がやんわりと湿っている。
「し、白石く…」
「……やっぱ、少し熱ない?」
「気の所為だ、って」
押しのけようと肩に手を送ったけど、力が入らなくて驚いた。白石くんの掌が、少し冷たくて心地良いのは、その掌によって私の体温が詐称されているからに違いないのに。白石くんは怪訝に眉を顰めながらなおもこちらの様子を伺っている。もうやめてくれ、と涙目になりながら、私はやっとのことでその腕を振り払った。拍子にリストがからんと音を立てて床に転がる。白石くんは、あー、と小さく鳴いて、私からやっと視線を逸らした。安堵に内服される微かな名残惜しさ。手抜かりだ、と思いつつも、それは全部白石くんの仕業である。
「…ただ、近くにいたから移されてたらどうしようって、それだけだから」
気付けば唸っていた心臓をやり過ごして、思いつくがままの口上を述べると、白石くんは綺麗な瞳をぱちくりさせて、そうか、と呟いた。
「……でもま、大事にするに越したことないで?」
「うん、判ってる…、ありがと」
「一緒の高校、行けへんくなったら寂しいしな?」
何とはなしに口にしながら、白石くんは私の落としたリストを拾い上げた。紙の端が湿っているのに気付かないで欲しいと思いながらそれを受け取った私は、せめてもの忠告とばかりに、白石くんを軽く睨んだ。
「白石くん」
「…うん?」
「こういうのは、好きな子にやらないと勘違いするよ?」
言ったそばから、ある種自爆であることに気付いたけれど、後の祭りである。目下、白石くんの瞳はまあるく見開かれて、それから再び柔らかく緩められる。それから、ひとつ深い深い息を落としてのち、形の良い唇を動かした。
「…そこまでは判ってるんや?」
「………は?」
「せやったら、逆算してみて」
逆算、とひとりごちて見たところ、保健室の扉が開く大きな音が鼓膜を叩いたからめっぽう驚いた。見れば細腕に大量のコピー用紙を抱えた先生が唸りながら入り口に佇んでいる。
「た、たすけてー…」
「うわ、すごい量やん先生、ちょ」
「おー、今日は白石くんが当番かあ助かったわあ」
「こないにあるならコピーから任せてくれればええのに」
「どうにかなる思ったんよー」
二人のやりとりを見詰めながら、頭の中には言われるがままの逆算が犇いていて身動きが取れない。白石くんがひょいとコピー用紙を持ち上げて、こちらに振り返るまでがスローモーションみたく映って、私の頭も大概だなあといやになった。今度こそ、顔が熱い。呆然とする私を再び捉える白石くんの瞳は、毅然としていたから本当にむかついた。
「すみません、先生」
「…んっ、さん、どないしてん?」
「熱が出たんで、戻ります」
「はっ?じゃあ親御さんに連絡」
「結構ですっ…!!!!」
白石くんと
先生の脇をすりぬけて保健室を飛び出した私は、ほとんど駆け足で廊下を伝ってどうにかこうにか教室へ戻った。昼休みのチャイムが鳴る前に戻って来て机に突っ伏した私に、小春ちゃんがどないしたのと声をかけてくれたけど大丈夫の一点張りでやり過ごす。白石くんが触れた額が今更、発火したみたいに熱くて、死んでしまいそうだ。
(マジで熱出たらどうすんの)
(白石くんのばかやろう)
試験二週間前。
蔓延しているどの病よりも厄介な病気にかかったらしい私は、いよいよ白石くんで犯されていく心と頭に両手をあげた。
|