押し殺したものが、悲鳴すらあげられないままいよいよ朽ちて、果ててゆく。でも、だって、これは俺が何より望んでいたことだから仕様がない。しかし反面、心の何処かで、この指に靡いてくれればいいのに、なんて、ほんのわずかに期待していた。彼女の求めていたのは、あの指、あの声、あの心。だから、俺のなにもかもは、彼女の鍵穴にそぐわなくて、当然のことなのに。

「おめでとう」



そして、さよなら。


 き み の ま  に   ま   に


メールの着信音をだけ変えているのは、けして彼女が特別だからとか言う謂れではなくて、ただ単に彼女から送られてくるメールの頻度が高いからというただそれだけの理由だった。今日も高らかに鳴り響いたそれは俺の心をざわつかせる。多分、きっと、謙也のことだろうと判っていた。決定ボタンを連打すると浮かびあがるのは彼女特有の文面で、かわいらしいとかそういう色味はほとんどないけれど、ただいとしいなと感じる。しらいし、どないしようしらいし、と闇雲に俺の名を呼んで、だけどそんな彼女の心のほとんどは謙也によって構成されている、ということを俺は痛いほど認識している。リビングでテレビを見ながら、片手間に携帯をいじくっていると見せかけて、真実のほどは間逆だった。妹に着信音を咎められたから、しぶしぶマナーモードに切り替えると、ほぼ同時に今から会えない?なんて、断れる道理がない。唐突に立ち上がり、テレビの液晶画面に背を向けた俺は、上着を取るべく部屋に戻って、それから再びリビングを覗いた。

「ちょっとコンビニ行ってくるな」
「ホンマ!?じゃあ、あたしチョコモナカジャンボ食べたいねんけど!」
「しゃあないな、買うてきたる」

はっきり言って上機嫌だった。逢う理由が理由だというのに、なんて馬鹿なんだろう、と、ほとほと自分自身に呆れてしまう。お人好しだと人は笑うだろうけれど、ただ純粋に、これから彼女の時間を独り占めできることが嬉しいのだから、お人好しよりずっと手酷い。謙也が俺の飛び切り仲の良い友人であるがゆえ、はこうやって俺に心を委ねるのだ。それだけで、何故か自分は謙也より優位であるような気がした。謙也のためにいじらしく一喜一憂する姿を、これから先も、きっと謙也は知らないままなのだから。

「白石!」

約束の後援に、彼女は居た。日も暮れて危ないから隣のコンビニに居ろと忠告したはずなのに、彼女はブランコをきいきいとしならせながら、こちらに向かって声を弾ませた。

「アホ、なんでコンビニに居ぃへんねん」
「せやって、まだ八時前やし」
「まがりなりにも女やねんから、気ぃつけろや」
「ちょ、まがりなりにもって、余計やわ」
「…で、どしたん」

俺は隣のブランコに腰を落として、ふと質問した。それから、むっちゃ性急やねと赤くなったに、俺かて忙しいねんと口先だけで述べて見せる。はごめんと零しつつ、暫し沈黙した。ブランコが軋む音が耳に痛い。

「あんな」
「うん」
「あした、遊びに行くことになってんやんか」
「…へえ、菜緒ちゃんと?」
「ちゃうわ、判るやろ!アホンダラ」

仲の良い友人の名前をあえて提示すると、は余計に赤くなった。冗談やって、怒りなや、と宥めて、俺はくつくつと笑う。

「良かったやん、初デートやな?」
「やめてよ、デートとか…」
「やめても何も、デートやないけ」
「………うん」

利き手を伸ばし、頭を撫ぜると、はもう堪えきれないと言う風ににたにたと笑う。謙也との明日を想像しているのかもしれない。人の気も知らずおめでたいやっちゃ、と思ったことは思ったけれど、それ以上に、の笑顔が嬉しくて、愛しくて堪らない。きっと近い将来、彼女のほとんど全ては謙也のものになるに違いないのに、おめでたいのは定めて俺の頭のほうだ。

「ありがとな、白石」
「なにがいな」
「白石がおらへんかったら、私ここまで頑張れへんかったわ」
「そらまあ、そうやろな」
「…アンタ、少しは謙遜しいや」
「せやって、は顔に似合わずトゥシャイシャイガールやねやもん」
「ちょっと、顔に似合わずってどういうことよ」

わざとらしく鋭い瞳を差し向けられたけれど、御髪に触れた指は振り払われない。時折こそばゆそうに笑いながら、いつまで触ってんのよと抗議すらされたけれど、彼女は俺の行為を許した。きっとは俺が自分を犬か猫と同様に扱っていると思っているんだろう。謙也に同様のことをされたらきっと、嬉しいくせ顔を真っ赤にしてその愛しい指を払いのけるに決まっている。の柔らかな髪がいやに指に馴染んで悔しい。

「でも、ホンマ、いつも白石に助けて貰ってばっかりや」
「気にしいなや」
「もー、あしたはがんばる、ホンマがんばるから!」
「うん、ええ報告待ってるし」
「………白石は、何もないん?」
「ん、なになに?」

の言っている意味が理解できなくて、俺は身を乗り出す。金具に無理をきかせたのか、鈍い音がぎい、と身体に響いた。はこんなんわざわざ言うのおかしいかもしれへんけど、と言葉を続ける。

「役に立つか微妙なところやけど、白石が悩んでたら、私も力になりたいねん」
「…何それ、むっちゃ青春じみた台詞やな?泣いてしまいそうやわ」
「もー、本気やねんけど、私!」
「判ってるって、ありがとな、
「…軽!一応愛の告白ばりに勇気出して言ってんで?」
「その馬力を明日に残しとかなあかんやろが、アホやな」

髪に触れていた左手の指で軽くその額を弾くと、痛!と声を張り上げたのち、は大袈裟に蹲る。見上げてくる、わざとらしい抗議の瞳、さも楽しそうに笑む口元。有り余る無神経さを受け流して、微笑みを携えるのは、すでに俺の中で慣例行事に等しかったけれど、もうこの決まりきった喜劇すら終幕の色味を帯びていることにふと侘しさを感じる。きっとは、謙也と自分がうまくいったところで、俺と自分の関係は変わらないと高を括っているんだろう。それは、の心の中で自分と謙也が同じ場所に陳列されていない何よりの証拠である。謙也が何より好きで、けれど、俺のことはそれと比べるべくもなく何より大切だ、と、そんな戯れたことがまかり通ると思っているが、馬鹿みたいに愛しい。この女、人の気持ちも知らず何て無神経なんや、と思いつつ、実は誰よりも自分が、この関係を持続させたいと思っているからお笑いだ。

「あー、あったわ」
「ん?」
に相談したいこと、一個見つけた」
「え、なになに!」

なんでも言うてよ!と、尻尾があったら千切れんばかりの勢いで振ってるんだろうと言う表情で身を乗り出したに、こちらも負けじと身を乗り出す。好奇心と喜びで満面の笑みを浮かべたは、多分こちらがこれから何を打ち明けるか露も判っていないだろう。俺は何食わぬ顔を貼り付けて、わざとらしく嘆息する。

「あんなー」
「うん?」
「俺、のことホンマはむっちゃ好きで好きでたまらへんのやけど、どうしたらええ?」

実力を行使すれば、容易くに口吻られる近さで、俺は出来るだけ低く呟いた。近すぎて、ほとんど視界にはの双眸しかみとめられなかったけれど、彼女の瞳孔が見る間に開いたのを感じて、その心理を手に取るように捉える。数センチメートルの距離で縫い付けられた俺達は、お互い多分息をすることすら忘れていた。時間を止める魔法を成功させた俺は、また同時にこの魔法の副作用がどれだけのものか、痛いほど知っていた。だから、抱き寄せることも、くちづけることも、選ばずに、俺はそっと魔法を解いた。

「なーんて、言うたらどないする?」
「………へ、…は、…?」
「あっはっは!!!何て顔しとるんや、ひっどいで、
「あ、な、騙したん!?」
「当たり前やろ!そういう泥沼期待してたんか?」
「ち、違う、わ!ビックリした!もうホンマ最悪白石!」
「謙也くん、白石、私のために争わないで〜!」
「〜〜〜!!!親身になった私がアホやったわ!もー知らん、死にそうになってても助けたらへんからな!」
「ごめんて〜〜、冗談やから〜、マジ愛してるし〜」
「…どつきまわされたいん?」

ブランコから立ち上がり、すたすたと歩き始めたを慌てた様子で追いかける自分の姿を、ブランコから立ち上がれないままの俺が、どこか冷めた目で見つめている。こんな酷い顛末があってなお、チョコモナカジャンボを買って帰ることを忘れなかった自分は優秀だと褒め称えたい。反動のように朝まで眠れなかったのは自業自得で、だからきっと、が謙也の隣で微笑んでいた時間中俺は爆睡していた。眼が覚めたのは、辛くものメール着信音を受けてのことで、そこには、ずっと俺が望んで止まないとに訴え続けて居たことが凝縮されていた。

「おめでとう」

俺は布団の上で、まだ覚醒しきれてない頭をあえて揺り起こすことなくぽつりとひとりごつ。



不意に、意図せずその名を声にしてしまったのが拙かった。下手に胸のうちから塞き止め様の無いいとしさが溢れて、携帯を持つ指先が震える。

…、っ」





、ホンマはむっちゃ好きで好きでたまらんのやけど、どうしたらええ?





誰も見てないのをいいことに、大粒の涙を枕に零した俺は、そのまま暫く嗚咽した。カーテンの隙間からちらちらと黄昏がこちらを見下ろしている。


さよなら、の4文字が静かに脳裏に浮かぶ。けして、告げることは出来ないまま、また明日も、きっと俺はいつも通り笑うけれど。








 

20130211 きみのまにまに