電波は頗る良好なのにも関わらず念の為と思ってメール問合わせをかけてしまう自分が虚しい。言うまでもなく、液晶には無常な知らせが届く。「新着メールはありません」携帯をベッドの奥に放り投げて、はベッドに突っ伏した。ああこうやって終わってしまうものなのかな、という仄暗い思考が頭を掠めるけれど、前例のないことだからよくわからない。こんないとまにぱっと他に好きな女を作るとか、そんな薄情な真似、自分の惚れた宍戸亮に限ってありえないとは思うけれど。
ドンウォーリー
マイレディ
喧嘩の理由は冷静になればなるほど下らないものである。どうせ誰かに相談したところで痴話喧嘩ね、はいはいと一蹴されてしまうに決まっているからあえて話したりするのはやめようと心に決めた。ことの発端は『好きなものを最後に残すか、はじめに食べるか』と言うような他愛もないやりとりだった気がする。最終的に友人時代から気にかかっていた互いの欠点のののしり合いに発展して、仕舞いにが宍戸の顔に氷入りの水をぶちまけた。宍戸の顔を見ずにファミレスを後にしたであったけれど、宍戸の感情は鎮火どころか炎上したに違いないことは考えるに容易い。帰宅してひとしきり号泣したまま疲れて眠り、やっと後悔の気持ちが頭を擡げたのは翌朝のことである。しかし、こちらから謝るのもなんだか癪に障るからと虚勢を張って、学園内では相手の存在を避け続けて、5日間が経過した。向こうも同じことを考えているのか連絡は途絶え続けている。
『ちょっと、頭冷やせば』
去り際、捨て台詞に残して来た自分の言葉が自分の頭をきつく締めつけた。ああ冷えた、もうとっくに冷えたから、出来ることならばあの時まで時間を戻して、せめて水をぶちまけるなんてドラマでもいまどきありえない所業をしてのけることだけは避けて通りたい。カレンダーを覗けば、その日はもう明後日に迫っている。否、さっき日付変更線をまたいだから実質明日だ。あと23時間50何分で宍戸亮は歳を重ねる。ファミレスで食事を注文する間際は確かその手の話題で盛り上がっていた。18歳。親の承諾さえ通れば結婚もまかり通る年齢に差し掛かる恋人の晴れの日を、もしかしたら別々の場所で過ごすのかもしれないと思ったら酷く悲しくなった。バイトは原則禁止の学園内でひっそりと、しかししっかりと続けたピザ屋の店員バイトははじめた当初確かこの日を祝うことを想定していたような気がする。
「…ばか」
ああ、また泣きそうだ、と思って目を瞑ったらそのまま夢の内側に誘われた。夢の中のは、と言うと、いとも容易く宍戸に頭を下げ、謝罪を行っていた。そして宍戸はばつの悪そうな、しかし優しい笑みを以って零すのだ。
「俺のほうこそ悪かった、ごめん」
カーテンの隙間から日が零れたのを受けて目を覚ましたは、夜転がしたまんまの携帯電話を試しに覗いて見るけれど、宍戸はおろか、誰からの着信も見受けられなかった。いやに優しい夢の宍戸の声が胸を叩く。このまま勢いで電話してしまおうと思ったけど、勇気が出なかった。先の声と相反して、電話先の宍戸はきっと不機嫌だろう。それも電話に出てくれれば、の話だ。不運なことに今日は土曜日で、持て余すのに充分な時間の猶予があった。学校のある平日だったら、あれよあれよと時間は過ぎて、あっと言う間に夕方になっているに違いないのに。
普段、携帯なんかろくすっぽ気にかけないのに日を追う毎液晶を覗く回数が増えてしまう自分はなんて無様な敗者だろうと舌打ちをかます。罵り合いの末、水をぶっかけられた折は暫く顔も見たくないと一瞬本気で思ったけれど、怒りが鎮火して前言撤回するまでそう時間はかからなかった。かからなかったはずなのに、なにゆえ5日も焦れてしまったのか。目玉焼きの黄味をフォークで弄くりながら、嘆息まで溢れる自分はきっと変な病にでもかかったに違いない。
「……亮」
名を呼ばれ、肩が跳ねた。月末飯代がなくなると実家に転がり込んでくる院生の兄が目下に居たことを失念していた宍戸は、あからさまにきまりの悪い表情を張り付かせる。
「……喧嘩でもしたのか?ちゃんと」
「な…、兄貴には関係ねーだろ」
「あ、図星」
「…うるっせえ」
「まあ、確かに俺には関係ないけど…明日お前誕生日だろ」
「…それが?」
「…意地張っちゃって、かわいくないやつ」
ソーセージを齧りながら、鼻で笑って見せた兄が面白くなくて、宍戸は瞳を逸らした。飄々と、それでいて世渡り上手な兄は、きっとこんなときうまくやるのだろう、と思うと少々腹が煮えた。顔立ちは似ている、と言われる兄と自分だけれども、痩せ型でひょろりと長い文化系の兄に対して、自分はがっしりとした体育会系、決して背の丈は高いほうではない。ぼんやりとした性格の所為か、(少々腹は黒いけれど)顔色はいつも柔和で、必要以上に人当りが良さそうに見えた。本人が余計な諍いを好まないと言うのも勿論あるけれど、印象できっとこの兄は随分人生得をして来ただろう。妬ましい、わけではないけれど、こんなとき自分にも兄のような柔らかさを持ち合わせていたならば、と往々にして考えずにはいられない。
「なんでちゃんもこんな奴が好きかねえ?」
「……てめぇ、バイトの時間じゃねーのかよ」
「御生憎様、今日は午後から」
むしゃくしゃした宍戸はトーストと目玉焼きの残りを一気に牛乳で流し込み、皿を乱暴に重ねてダイニングテーブルを立ち去ろうと試みる。しかし短い後ろ髪を、再び兄の声に絡め取られてうまくいかなかった。
「…じゃあちゃん明日は空いてるってことか」
「……あん?」
「だったら映画にでも誘ってみようかなあ試写会のチケットあるし」
「……な、連絡先……」
「この前聞いたんだよ、逢ったろ?家で」
「クソ兄貴…!」
油断も隙もない、と宍戸は心から思って、青冷めた。いけしゃあしゃあと笑顔で言ってのけるから性質が悪い。これでいて人畜無害ななりをしているんだから、将来は教授なんかじゃなく詐欺師にでもなったほうがいいんじゃないだろうか。次第に激昂が沸き上がり、宍戸は重ねた皿をキッチンカウンターへ放ると、ダイニングテーブルの上を強かに拳で打つ。衝動で、兄のプレートが微かに跳ねた。
「ふざけんな!あいつは…」
「………うん」
「………な、なんだよ」
「いいから、続き続き」
肘をつき、掌で煽ってくる兄はしれっとしていて、今まさに宍戸の怒りを浴びせかけられたとは思えない様子である。しばたたいた宍戸は、何故か自分が勢いで述べようとした言葉を顧みるいとまを与えられて狼狽した。そして、口籠れば口籠るほど、甚だ恥ずかしい思いに苛まれる。今一体じぶんは何を言おうとしていたのか、と。
「…あいつは?俺の?」
「……っ、てめえ遊んでやがるな…」
「人聞きが悪いなあ!俺は本気だったよ?亮次第ではあったけど」
わざとらしく肩を竦めて見せた兄は、ポケットに差し込まれていた財布を抜き取ると、中からうやうやしく短冊状の用紙を取り出す。眉間に皺を寄せがてら目を凝らすと、それは先に兄が話に出した映画の試写会チケットのようだった。いつのまに朝食を終えていた兄は、皿を重ね、立ち上がりついでに弟の胸元へそれを突き付ける。
「ハッピーバースデー亮!一日早いけど!」
「……なんだよ、これ」
「動機付け、モチベーションってやつだ」
「は!?」
「優しい兄貴に感謝しろよ」
カウンターに皿を置いた兄は、後ろ手を振りつつ階段の方向に姿を消した。これからもう一眠りするつもりなのかもしれない。階段を昇る足音を捉えつつ、手元に残った試写会のチケットを握りしめた宍戸は、ひとり語散そうになった兄への悪態をどうにかこうにか呑み込んで、舌打ちをひとつ吐き出した。階上で兄が堪えていた笑いを解き放ったことなど、露も知らずに。
「あーもう、いくつになってもかわいいな、亮は」
友人から来た遊びの誘いも結局無碍に断って、無心に部屋の片づけをしていたは、傾きつつある太陽にこれ以上ないほど深い息を吐いた。ドレッサーめいたキャビネットの廻りには、まだ封も切られてないボルドーのマニキュアが煌めいている。そういえば、明日のために買ったものだったかもしれない。不意に滲んだ涙を慌ててカーディガンの袖口で拭き取りながら、こんなことなら1日と置かずさっさと謝ればよかったと酷い後悔の念に苛まれた。後に引けない、という言葉は、今このときの自分を形容するときのために作られた言葉に違いない。しかしどちらかが頭を下げなければことは収束しないことは明白で、だとしたら、別れ際手酷いことをしてのけた自分はとりあえずそのことだけでも謝るべきだ、と言う考えに至った。もし、もう宍戸があんな気性の激しい女ありえないと思っていたら、応じてくれるかは極めて怪しいけれど。
「…うん」
携帯を取って、履歴から宍戸の番号を表示させると、途端に心臓が鳴った。そして同時に、何故こんなつまらないことで虚勢を張っていたのだろうと言う思いがとめどなく溢れて、5日間の自分がほとほと馬鹿げたものであったことを痛感する。そうなったら今度はなんだかまどろっこしくなって、は携帯をベッドに投げるとそのまま部屋着のTシャツを脱ぎ捨てた。善は急げだ、逢いに行こう、そう思った。ご近所用の適当なワンピースにもたつきながら袖を通して、軽く髪を纏め上げながら携帯と小銭入れを拾い上げたは、弾けるように部屋を飛び出す。いってきますの声をリビングの方向へ投げて、コンバースを足に引っかけつつ玄関を潜ると、かかとを通す前にとんでもないものが瞳に飛び込んできたから息を呑んだ。定めて、その面立ちを見る限り心情は向こうも同じだった。突然飛び出してきたに、少々後ずさって見せた影は、今自分が逢いに行こうとしていた宍戸亮以外の何者でもない。
「……り、亮…」
「び、びった…ったく、驚かせんなよ」
どっちが、と反抗しようとして慌てて口を噤んだ。自分のこういうところがよくないのだ、と思いながら宍戸の手元に視線を送ったら、携帯が構えられていて、もしかしたら今まさに自分を呼び出そうとしていたのかもしれないと推し量った。さらに言えば、宍戸も電話で話すのがまどろっこしくなり、ここまで訪れたのかもしれない、と。そういう部分、自分と宍戸は極めて似ているのだ。
「何しに来たの?」
「…お前こそ、急いでたんじゃねーのかよ」
「私は……」
固唾を飲んだのと引き替えに、は自負心を押し退けて言葉を貫く。
「亮に、謝りに行こうとしてた」
目をぱっと開いて、それから宍戸は少々俯いた。は混沌とした感情に打ちのめされて涙腺が緩んだけれど、どうにか飲みこんで言葉を続ける。
「あ、頭に血が昇って、水ひっかけたりして…、冷静になれてないのは、私のほうだった」
「………」
「ホントごめん、マジごめん」
「あーもう…いいって」
その声が投げやりに感ぜられたから、次に解き放たれる怖くて涙腺が決壊した。いつのまに爪先へ移動していた視線の所為で、スニーカーが雫に塗れる。つむじに向かって嘆息が落とされたから、委縮したら、ほどなくその腕が自分を抱きとめたから、心臓が止まりそうになった。
「あー…もうマジで俺かっこ悪ぃ、激ダサ」
「え…、あ、はい?」
「…先に謝ろうと思ってたんだよ、こっちは」
かぶりをあげたら、見上げた宍戸の顔は情けなく緩められていた。こんなときに不謹慎ではあるけれど、置いて行かれて尻尾を垂らした犬みたいだ、とは考えている。フラれることも辞さない、いや辞さないわけではないが、覚悟していたにとって、宍戸の一語は一気に思考がほだされてしまうほどの安堵だったと言えよう。しかし息を延べたことによりさらなる涙が頬を伝う自分は、まるで子供みたいで情けない。ぼやけた視界に移る宍戸の顔が、昨日の夢と重なったからことさらに泣けた。
「俺のほうこそ、言いすぎた、ごめん」
「……うん」
「多分思ってねーようなことまで言った、だから忘れていい」
「……うん」
「おい、ちゃんと聞いてるか?」
「…聞いてるし!!!」
焦りの色を声に紛らせた直後、の腕がにゅっと跳びてきて、宍戸の背中で交わる。そしてその流れでぎゅうと強く力を籠められた。その折、目下の瞳が落ち窪んだ色味を失くしていたように思えたから、宍戸は心底、胸を撫で下ろした、のであった。
「そういや、これ」
「ん?」
ポケットからやや折れまがった試写会のチケットを取り出し、の眼前に曝す。ははじめわけがわからないと言う風に首を傾げたけれど、ほどなくああ、と感嘆めいた声をあげて目を輝かせた。
「これ、見たかったやつだ!」
「…あした」
「行く行く!もちろん行く!」
「…被せてくんなよ、お前」
結局言いたい台詞を大方先に言われた宍戸はやれやれと肩を落としつつ、そっとの身体から離れる。ひさびさのぬくもりに甘んじてはならないと決意して手放したのに、が一瞬名残惜しそうな顔をした気がしたから変に心臓が上擦った。しかし宍戸の心を知らず、目元を拭ったは、見せて、といいながら試写会のチケットをぶんどって、しげしげと眺め始める。先刻までとは違う溜息を燻らせた宍戸は、目元を緩めて、じゃあ、また明日、と別れを切り出した。
「え、帰るの?嘘、折角なんだから、あがっていきなよ」
「…や、悪いだろ、帰る」
「悪くないでしょ、恋人なんだから」
「お、おう…」
「あ、平気だよ、掃除したばっかだから、綺麗」
そういうことを言ってるんじゃなく、と思ったが、5日ぶりに逢った恋人の気迫はすさまじく、なんだか有無を言わせぬ雰囲気だった。だからと言って引かれた指は言うまでもなくいとおしく、また明日逢えるからいいじゃないか、と一概に突っぱねられない自分は、5日間片時もが頭を離れなかったことと併出してみても相当に参っている。
『どう?いまごろ、よろしくやってる?』
室内に入ってほどなく、長男から間の悪いメールが届いていたことに宍戸が気付いたのは、のくちびるのぬくもりをひとしきり確かめてから、暫く経過してのことだった。
「…あいつ!殺す!」
「…亮?」
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