そのとき、クラスがどよめいたのを、ははっきりと記憶している。彼の特徴と言えば、長く長く伸びた綺麗な御髪。ときに、同性からはからかいの的になっていたが、本人は至って気に留めないそのスタンスはなかなか恐れ入ると思っていた。加えて、異性からは羨望の対象になっていたし、それが好意を孕んでいると認識出来るものも少なくなかった。だから彼が、綺麗な御髪を突如断ち殺したのは驚きで、は短くなった髪を横目で盗み見ながら、ほんの小さく呟いたのだった。

「勿体無い」

俯いた視界には、縮毛矯正で痛んだ毛先が揺れていた。


少年は静かに微笑う


運動活動委員会のは、夏休み明けに行われる体育祭のキャッチコピーについて、アンケートを回収せねばならなかった。出したい人だけ出せばいいじゃないかと内心では感じていたが、どうやらこれは義務らしい。確かに、よくよく考えればこんな面倒なことを好き好んで考える輩などそうそういないだろう。提出者名簿のマルは着実に増えていったが、男子の提出率が軒並み悪かった。いよいよ明日が提出期限なので、帰りのホームルームでその旨を告知する。その直後、書いたはいいが机の中でプリントが白骨化していただけの生徒からはこぞって提出が見受けられ、あとは多分、何を書いたらいいかわからなくて提出していない数名の生徒に対面で促すのみだろう。だが、多分これが一番骨である。骨だけれども、責務なのだからやるしかない。とりあえず、未提出の名簿を上から浚ったは、冒頭に現れた人物から早速挫けた。『芥川 慈郎』…これは後回しだ、まず現時点で教室にいないし、と言い訳して、次の人物へと駒を進める。

『宍戸 亮』

名簿越し、丁度向こう側にその姿を垣間見せるその人は、責任感や人柄は並大抵であるとは言え、ユーモアとかアイデアとかを掘削するのは苦手そうなきらいがあった。たぶん、こういうときは面倒な顔をする。実際、球技大会の似たようなアンケート集計のとき、かなり投げやりな回答をしていたのが記憶に新しい。しかし、まごまごしていては駄目だ。ホー ムルームが終わってすぐ、彼がすぐさまクラブハウスへ向かうことを、だけじゃない、クラスの誰もが知っている。

「宍戸くん!」
「…あ?」

立ち上がる瞬間を見計らって声をかけたは、そのまま宍戸の座席へ駆け寄った。宍戸は、すでに怪訝そうな顔を浮かべていた。しかし、考えてみれば短髪になった彼としっかり対面するのはこれが始めてのことで、はいつも前髪の隙間から胡乱気に覗いていた双眸がしっかりとこちらを見据えていることに、若干居心地の悪さを覚える。

「どうした??」
「あっ、ごめん、あのね」
「うん?」
「アンケート、なんだけど、よろしくね?」

あー、と、はぐらかすような返答をした宍戸は、すっきりしたうなじ部分へ手のひらを寄せる。いつも束ねていたとはいえ、違和感を覚えているだろうか、とはぼんやり考えていた。

(綺麗だったのにな)

自分の御髪なんかより、よっぽど、と付け加えたは自嘲っぽく笑んだ。途端、ばつが悪そうに伏せられていた瞳がこちらを見据える。そして、ごめんと、今度はこうべごと、の目前に伏せられる。

「俺、多分用紙なくしたわ」
「あー…そんなことじゃないかとは思ったけど」
「悪い…」
「いいよ?予備数枚あると思う」
「で、迷惑ついでに、慈郎の分もくれるとありがてぇんだけど」
「………宍戸くん」
「………お、おう」
「面倒見、良すぎ」

多分、慈郎が用紙をなくしているであろうことを見越してのこの発言だろうと踏んだは、少し甘やかせすぎなんじゃないだろうかと息を吐く。そして、慈郎は多分甘え上手なのだ。それにまんまと乗せられる宍戸は不憫であるし、はそんな宍戸が嫌いではない、と思った。ちょっと待ってて、と自分の机に戻ったは、クリアファイルから予備の用紙を見つけて振り向いた。机で待っていると思っていた宍戸が、真後ろにいたから驚いた。

「わっ、びっ、くりした!」

自分の机に仰け反ったは、反動でアンケート用紙を手放した。それはひらひら、と柔らかくゆるやかに落ちていったけれど、出現した宍戸に驚愕しているいとまに掴みとる機会を逃したまま、床にぱらりと落下する。

「わ、悪い、、拾う」
「い、いや、こっちが勝手に驚いたんだよ?」

閑散とし始めた教室内、障害物が少ない所為か通常よりやや大きく二人の声が響く。たいしたことのないやりとりが、大袈裟めいての心を揺らす。同時にしゃがみ込んでしまったから、また宍戸の面立ちが近くに据えて、呼吸すら憚られた。

「…に、見てんだ?」
「へ?」

プリントを拾い、立ち上がった宍戸に引き上げられるように、もそのまま身を起こす。

「さっきから、やたら俺のこと見てねぇ?」
「そ、そうかな?」
「あー、気の所為だったら悪い…、跡部でもあるまいしな?」

わかりやすい冗談に頬を緩めて、は手元のプリントを宍戸に託す。サンキュ、と笑む、その目元すらはじめてしっかりと見た、とは思って、そこでやっとは、宍戸の言っていた意味を理解した。

「宍戸くん、あのさ」
「ん?」
「髪、どうして切っちゃったの?」
「あー…、これは、その、アレだよ」
「…アレ?」
「けじめ、ってやつ」
「けじめ…」

は首を傾げたが、ふうん、と一応の返答を試みた。宍戸はあまり言葉が器用なほうではないことはなんとなくわかっていたし、もしかしたら詮索されたくないのかもしれない、と感じたからである。

「いや、ただ部活で」
「あ、なんかごめん、いいよ、言いたくないならぜんぜん!ごめんね?それにもうさんざん聞かれていやになってるよね?ごめん、興味本位でこんなこと聞いて、ただ宍戸くんの髪綺麗だったからすごく勿体ないなって…」

思っただけ、と声にして、自分が暫く一人でのべつ幕無かったことと、宍戸が少し呆気しているのにやっと気付く。あ、と零したは、自分の顔に体温が集中していくのを感じる。そして、呆けていた宍戸は唐突に破顔した。

「っく…、お前、謝りすぎじゃね?」
「ちょっと、笑わないでよ…」
「いーよ、別に気ぃ使わなくて、ただ、聞いてもそんな面白い話じゃねーことだけは言っとく」

それに、これはこれで悪くない、と言った宍戸の面立ちは、何故だかとても清清しかった。加えて、別段不味くない容姿は中性的な色味を失ったことで、素直に男前と呼べるようになったに違いないとは思った。そんな分析を心で繰り広げていることが恥ずかしくて、赤くなった頬を沈まれと言わんばかりに両手で押さえつける。

も髪、伸ばしてんのな?」
「う、うん」
「二年のときは、こんくらいだったもんな?」

肩より少し上の場所に手のひらを寄せた宍戸を、は意外に感じながら頷きを返す。

「よく、覚えてるね」
「ああ、意外だろ?って言っても去年お前の後ろの席になったからだけど」
「なんだあ、そっか」
「あれからだいぶ伸びたな?」
「うん、でも…」

(宍戸くんみたいに)
(綺麗な髪に生まれたかったよ)

痛む毛先が憎い。梅雨の湿度が憎い。放っておくと、暴れだす生え際が憎い。ついでに、あんなに綺麗な髪を失ったのになんだかたくさんのものを得た気がする目前の人まで憎んでしまいそうで、そのまま口を噤んだは、代わりにえへへと微笑む。

「なんだよ」
「なんでもない、アンケート、よろしくね」
「あー、面倒くせぇな?」
「せっかくプリントあげたのに、そらないわ」

そうな、と笑う表情に、また胸が震える。ちくりとした顔をした気がして、見られまいと俯いた眼前には、憂鬱な毛先。いやになる。気付けば、クラスメイトの足は完全に教室から離れて、と宍戸は二人ぼっちになっていた。不思議と、気まずくはない。

「宍戸くんはさ」
「ん、おう?」
「やっぱり綺麗な長い髪の子が好きだったりするの?」
「はぁ?」

上ずった声は当然のものだと思った。はぐらかされても致し方ない質問である。しかし、宍戸は少し躊躇いながら、おずおずと返答を舌に乗せる。

「うーん、俺は去年のほうが似合ってたと思うぜ」
「…え、去年」
「だから…、…」
「あの…」

そういう意味じゃないんだけど、と、すっかり赤面したが心で呟くのと、宍戸が気付いたのはほぼほぼ同時のことである。そして、自分の大それた発言に硬直した宍戸は、を追い越すほどに赤くなって、居たたまれなさに背を向ける。

「そ、そうかな?」
「う、…なんか、悪ぃ…」
「いやいやいや、ぜんぜん、貴重なご意見ありがとうございます」

こんな馬鹿げたやりとりで、執着して伸ばしてきた髪がどうでもよくなることなんてあるんだろうか。今の自分はどうかしている、と胸を抑えたは、自分が意地になっていたことに気付いたあと、ああ、たぶんこれが恋ってやつなんだ、と心の中で何度か呟いた。

「じゃあ、また明日、な」
「うん!部活頑張ってね」

逃げるように背を向ける宍戸の短くなった襟足を見つめながら、は、自分が近い将来髪を切るであろうことを予感している。でも、早すぎては駄目だ。そんなのだって、恥ずかしすぎる。振り向き様照れながら微笑んだ宍戸が瞼の裏に焼きついて、離れない。

遠ざかっていくかかとの音。短くなった髪で宍戸の視線をほんのわずかでも奪い取りたくて、画策しながら、は痛んだ自分の毛先をそっと撫ぜる。


 


20130127 少年は静かに微笑う