お昼ご飯はの大好きなパストラミのサンドイッチだった。わざわざライ麦パンでこさえたそれは幸せを凝縮させたような味がして、憂鬱な午後の授業のモチベーションも軒並み急上昇である。レタス、きゅうり、トマト、パストラミ、マスタード、ライ麦パン、なんという調和だろうと有意義な咀嚼を行っていたのに、俄かに自分の名前が後頭部へぶつかったから、はなんとなく水を差されたような気持ちになった。
「おい、、聞いてんのかー?」
「……何よ、桃城」
「うわ、怖え」
「なんだっつってんの!」
「いや、あれ」
桃城が親指を差し向けた背中側には教室の後方扉がある。目を凝らすと、そこには、高等部の校舎内に存在するはずのない影が浮かんでいたから、は言葉を失った。
「ちーっす」
迷える子羊
と
コロイド溶液
の
逆襲
おのれ、越前リョーマ、という類の台詞を、今までどれだけの強豪選手が憤りや口惜しさを孕み口にしたか知れないが、今の自分の感情もそれに匹敵する、いやそれ以上だ。は大袈裟ながらそんなことを思って、がっくりと肩を落とし、そのままの流れで机に突っ伏した。
「…何があったんだよ」
背中に当たる桃城の声が痛い。食欲もいちどきに失せたは、せっかくのパストラミサンドを呆気なく目前の人に与えてしまった。心臓が鳴り止まない。唐突に執行猶予が終わってしまった死刑囚のようだ。午後まで一体全体余生をどのように過ごしたらいいのか、とそんなことばかり考えていた。
「てかその紙、何?」
「…見たきゃ勝手にどうぞ」
「いいのかよ」
「減るもんじゃない、むしろ、増えた」
「…なんかよくわかんねーけど」
パストラミサンドを平らげた桃城がの掌から取り上げた用紙の上部には、「体力・身体測定調査結果報告書」とある。氏名の部分には、越前リョーマの文字。
「…あいつ、なんでこんなもん……うわ、垂直跳びすげえな」
「しんちょう」
「うん?」
「しーんーちょーう!」
身長。名前とクラスのすぐそばにその項目は控えていた。
促されるがまま項目に視線を送った桃城は、思いがけず二度見を行った。そして、それから唖然と我が目を疑った。横目でその様子を確認したは、予想通りの反応だと失笑し再び項垂れる。
「168…cm…?」
―――越前リョーマの代名詞と言えば「チビ」であった。それは本人にとっては不覚極まりないチームメイトからの愛称であり、時に対戦相手から軽視の呼称としても用いられた。「チビ」、「おチビ」、「チビ助」。バリエーションに富んだ言葉の根底にあったものは言うまでもなく越前の身長が平均のそれに足りてなかったことが所以である。その他当時の中等部レギュラーメンバーと並ぶとその差はまた歴然であり、定めてそれが越前のコンプレックスを刺激していたことは言うまでもなかった。来年こそは、と越前が思っていたかは知れないが、彼が2年になり渡米から戻ってきた初夏の頃、ひさびさに見た越前は面立ちこそ大人びていたが、身の丈の成長はさほど見られないなあ、とぼんやり失礼なことを思ってしまったのを、はしっかり記憶している。それなのに、そこから一年足らずでまさかよもやこんなにも飛躍的に大きくなるなんて。成長期をなめていた。完全に、なめきっていた。
「168センチかあ…あのチビだった越前がねえ…、確かに暫く見ない間に少しでかくなったとは思ったけど」
「ん…」
「………おい…、で、なんでお前がそんなにグロッキーなんだよ?」
「…あれえ、桃城あんときいなかったっけ?」
「あんときって…、どんときだ?」
「あーそうだ、あそこに居たの海堂だ、居た堪れない顔してたわあのマムシ、思い出した」
「あ?何の話だ」
「…知らないなら、わざわざ話すこともないわ…」
「んだよおい気になるじゃねーか!」
身を乗り出してくるの桃城にそっぽを向いたら、ほとんど同時に授業開始のチャイムが唸りをあげた。あとでちゃんと聞かせろよ!とかなんとか言ってたけど、次の休み時間はトイレにでも逃げてやろうめんどくさい、とか考えながら、机の上に戻された結果用紙を改めて見つめ、嘆息と共に折り込んだ。
教室に戻るクラスメイトたちのざわめきを遠くで聞きつつ、の脳内では先の越前の言葉が絶大な威力を以って木霊する。
「約束、忘れてないよね?」
「裏門で待ってるから」
「絶対来て下さいよ」
「センパイ」
(忘れるもんか)
(忘れてないけど)
(どうしよう)
(どうしたら…)
あれは春、3月。が中等部卒業を迎えた日のことである。帰り際、校門の傍で見かけた海堂に他愛もない会話を持ちかけていたら、そこにひょっこりと越前が現れたのだった。いつもと変わらず飄々と達に会釈した越前は、らしさ溢れるぶっきらぼうさでおめでとうの一語を告げる。少しは泣かないのかよと突っ込みをいれたら、泣く必要ないんで、とせせら笑われた。こいつに聞いた自分がバカだった、と思う半面、かような憎まれ口とも離れ難いと思ってしまうは相当感傷的になっていた。3年間テニス部のマネージャーを務めてきたけれど、高校ではテニス部から退くと心に決めていたから余計である。終止符。簡潔な三文字がの心に突き刺さって、思わずは俯いた。先まで割とまともに会話をしていたの突拍子もない涙顔に、海堂ははひどく狼狽していた。脇目で確認したぎょっ、と言う擬音語を貼り付けた顔は今になっても忘れられるものか。
「…センパイ、泣き虫っスよね」
「えっ、越前が可愛くないだけでしょ!」
「かわいくなくて結構だけど…それよりさ」
そこでほんの一瞬、海堂のほうに視線を遣った越前は、多分まあいいか、と言うような類のことを呟いて、それからいつもの口調で続きを声にした。かわいそうに、多分このときの一番の被害者は、立ち去るタイミングを完全に身失った無関係の海堂だっただろう。越前が見せしめじみて都合が良い、と思ってでもいたのならことさらに。
「センパイ、俺と付き合ってよ」
「…………っっ…!?」
「はあ!?何言ってんの、越前」
の瞳から涙がすっと引き、それと引き替えに、隣に居た海堂(ハンカチを用意しようとしてくれていた)がさっと赤くなった。
「わかんないの?ちゃんと日本語で伝えたけど」
「いや、そういうことじゃなくて…」
「じゃあ好きって言えばわかる?」
「…えっ、越…、おま!?」
「わかんないわよ!だってそんな素振り一度も」
「やっぱ気付いてなかったんだ?…別にいいけど」
奇しくも、まるで海堂のほうが告白された人のそれに近いリアクションをしていて不憫だった。不憫だったけどのほうもハッキリ言ってそれどころじゃない。気付いてなかったんだ、と不貞腐れているけれど、あんな不躾な態度で2年間接触されて、それが好意だと思えるほど傲慢ではない。傲慢、と言うか、人の心を見透かす技でも持ち得てない限り気付く道理もないと思う。とりあえず顧みてみよう、と邂逅の折から越前との思い出の糸を辿るも、そのどれもがだいたい不思慮な罵倒に彩られていて仕様がない。糸の先っぽを掴めば、そういえば随分顔の整ったかわいらしい男の子が入ってきたなあと驚いたのを思い出したけれど、すぐさま彼の発した一語によってプラスイメージは払拭されたのまでついでに蘇った。
『アンタ、本当に二年生?見えないね』
救えない。
「ちょっと待って…せめて考える時間を頂戴」
「ちょっとって…いつまで?」
不満気にしばたたいた越前は、海堂の狼狽などどこ吹く風でに詰め寄り、顔を近づけた。はひとしきり頭を回転させて、自分が去年まで恋慕を寄せていた不二周助のことをはたと思い出した。彼はここ2年のレギュラーメンバーの中(勿論越前は除く)で、確か一番身長が低かった、はずである。
「…せめて167cm」
「……は?」
「越前が167cmになるまで」
「な…、んだよ、それ」
「っていうか、身長167cmは絶対条件だから、私の中で」
絶対条件、というのは今この時この瞬間とってつけたものであり、実際恋愛において相手の身長が高かろうが低かろうがはどうだって良かった。しかし、今はそうしておくほうが都合が良い。越前がそこに辿り着くまでには多分相当の猶予がある。もしそこまで辿り着かなければ、…その時はその時だ。
「…やめとく?おチビの越前リョーマくん」
口では簡単に勝てない小生意気な越前ではあるけれど、そんな越前をどうすれば焚きつけられるかは心得ていたから、簡単だった。
「…やってやろーじゃん」
越前のしたり顔らしきものと、海堂の混迷を極めた表情が無秩序に並べられた光景をまざまざと思い出したは改めて嘆息する。散りゆくさくらがいやに綺麗に思い出を彩っているけれど、内服しているものはとんでもない。兎も角居合わせてわけのわからないものを傍観しなければならなくなった海堂が一番かわいそうではあるけれど、今現在は自分の身を案ずるべきときだ。さて、どうしよう。どうしたらいいのか。別に結論先延ばしにしただけでそれから殆ど越前とのことを考えなかったとかそういう訳ではない。寧ろ考えた。もの凄く考えた。自分と越前が付き合ったらどうなるか、と言うような類の妄想を寝る前に巡らせたこともある。しかし、恋人らしく自分を優しくエスコートしてくれる越前、というのがどうも想像出来なくて困った。妄想の中の越前はファーストフード店に足を運んで見ても、ゲーセンに行って見ても、極めて傍若無人なのだった。周りで彼氏のいる友達と言えば彼氏と甘い時間を過ごしているんだろうなあと言うのが透けて見えるような愚痴を漏らしてくる子ばかりだから、余計比較にならない。実際に蓋を開けてみたところで、あの越前リョーマが恋人らしい慈しみや思い遣りを表現してくれることがあるとは思えない。と、いうか、恋人らしいって一体全体なんなんだ。そこまで来て、だいたいの頭は考えることを放棄する。若しくは、いつのまに夢の中に引きずり込まれてそのまま女友達の言葉に苛まれる変てこな夢の時間を過ごしたりするのだった。
『マジ!?えっ、越前って、あの越前リョーマ?』
『ちょっと、勿体ないよ断ったら』
『そもそも、あんなかっこいい子に告られて、迷ってる意味がわかんない』
『めっちゃ人気あるよね、あいつ』
『ねえ、』
『』
「…おい、?」
桃城の声ではたと我に返ったは、怪訝な瞳にしばたたいて、軽く自分が思考の小宇宙へ追い遣られていたことに気付いた。時計を確認すると、授業終了はおろか、帰りのホームルーム終了からすでに2分経過している。チャイムが鳴っていたことにすら気付かなかったとか、大概だな、とは自嘲した。
「……で、何だったんだよ、さっきの」
「……行かなきゃ」
「はあ!?」
「起こしてくれてサンキュー、桃城」
教科書を無造作に鞄の中に詰め込んだは、桃城の顔に張り付いた不服を見て見ぬフリで立ち上がった。そのまま無視してすり抜けるのも容易かったけれど、流石に、この状態に片腕くらいは浸かった状態で何も伝えないのは流石にそっけないかもしれない。しかし、わざわざ自分から説明するのも気が引ける。
「…詳しくは海堂に聞いて」
「はっ!?海堂!?」
「海堂は唯一無二である歴史の証人だからさ」
あんたたち、仲いいじゃん?と継いで、今度こそはその場を後にした。言うまでもなく、桃城は仲良くねえよとかちょっと待てとかほざいてきたけれどそこは華麗にスルーである。そうして桃城を掻い潜り、ひとまず足早に教室を出たであったが、いよいよ問題の時間が迫っているのだと思うと胃の腑が重くなった。本当は逃げたい。しかし、逃げ続けるのは不可能だ、絶対に。は廊下に深い息を落として、裏門の見える小さな窓から様子をちらりと確認する。そこにまだ越前の影は見えなくて、なんだか少しだけ、ほっとした。
「…なんだってんだ、一体全体…」
のいなくなった教室で、桃城は少々途方に暮れていた。桃城が持ちえている材料は、越前の成長、そしてそれによるの憂鬱、原因は海堂が知っている、という三つの要素だけであった。なんだかよくわからないけれどが話してくれないところを見るとデリケートな展開なのかもしれないと言う空気を感じ取っていた桃城は、普段ざっくばらんな会話しかしない海堂にどう持ちかけていいのか少々
悩んだ。とりあえず、これから部活で海堂とは顔を合わせることになるけれど。
「…あれ?」
ふと足元に視線を送ると、の机の下にプリントが一枚落ちているのが目に留まった。見覚えのある色彩の用紙だ。拾い上げると、それは先にが見せてくれた越前の測定調査結果である。身長はまごうことなく168.2cm。
「んー?」
人もまばらな教室で首を傾げていたら、不意に後頭部へ自分の名前がぶつかった。
「…桃城」
「あー…?あ、海堂!」
「今日のぶか」
「お前ちょうどいいところに来たな!ちょっとこれ見てくれよ!」
「あ!?」
机を掻い潜ってそそくさとこちらに向かってくる桃城に周章して、海堂は少々身じろいだ。ただの部活の連絡をしに来ただけなのに、なんなんだ、面倒なことは御免だ、と顔に書いてある。
「んだ、こりゃ…」
「越前の身体測定結果だと」
「なんでテメエがこんなもん…」
「これ見てがド偉く落ち込んでたんだけど、心当たりあるか?海堂」
「…………が?」
桃城の人差し指は身長の測定結果を示している。越前。身長。。情報を取り入れた海堂の眉がぴくり、と動くのを、桃城は見逃さない。
「やっぱお前知ってんだな!?」
「…わ、忘れた」
「判りやすい嘘つくんじゃねーよ」
「………ッチ」
舌打ちと共にそっぽを向いた海堂は、こんなことなら仏心で桃城の教室など覗かなければよかったと言う気持ちでいっぱいだった。たかが部活の開始時間が遅くなる、と言うだけ連絡だ、自分からでなくても誰かが伝えていただろうし、部室へ行けば自ずと気付いたかもしれない。
「………あれ?」
話を渋っていた海堂へ、怪訝な声が届く。顔をあげると、桃城が自分の手のひらを見詰めて首を傾げていた。異変に気付いた海堂は、再度測定結果のプリントに視線を送る。身長の数字「8」の部分が、黒く滲んでいる。
((まさか))
「…これ気付いてんのか?」
「いや、気付いてない…っつうか、だから、なんなんだよ、一体」
一足先に裏門へ辿り着いたは、傍に控える楠に寄りかかりながら唸る心臓を抑えた。これじゃあまるで自分が判決される人のようだ、と思いながら、深く息を吸い込む。裏門はほとんど正門に回りこむような形で通学路へ放り出されるので、生徒はほとんど利用しない。こんな閑散とした場所へもうすぐ二人きり取り残されるのかと思うと不安で堪らなくなった。何故告白した越前のほうが飄々としていて、自分がこんなに緊張しなければならないのかわけがわからない。つま先を見詰めながらああでもないこうでもないと思って居たら、ふと視界に黒い影が覆いかぶさった。また心臓が一際に鳴って、恐る恐る顔をあげるとそこにはいつも通りシニカルな笑みを浮かべた越前リョーマが佇んでいる。あっ、とは小さく啼いて、罰が悪そうに再び下を向いた。
「…お待たせ」
「越前…」
「……で、どうなの?」
何の準備運動もなしに早速直球を投げつけてきた越前に、はことさら言葉を失う。どうなの、も何も、と心で呟いてから、はそっと言葉を舌に乗せた。
「ずっと考えてたんだけど」
「うん」
「越前が…何で私のこと好きなのかわかんなくて、困ってる」
「……へえ」
「だって越前、憎まれ口ばっかだったし、いつも」
その生意気さが可愛い、と言うのは年下の特権であったりするけれど、越前の場合度を越えているから笑えない。慇懃でもなんでもなく無礼。ただ、男の先輩にはそれなりの敬意が見て取れるから、余計に自分は虐げられてると思わざるを得ない。
「…そんなの、俺の方が聞きたいよ?」
「……は!?」
「センパイ、鈍臭いし子供っぽいし?」
「越前…、あんたねぇ…」
到底好きな相手に送るとは思えない言葉の群れを受けて、はわなわなと震えた。しかし、そんなを瞳に浮かべた越前はこれ以上ないほどすがすがしく、綺麗に微笑むからやってられない。
「好きだから好き、じゃ駄目?」
「…………駄目じゃないけど…」
「下手に媚びた理由並べるよりずっと真実味あるでしょ、センパイの場合、特に」
「どういう意味、それ」
「そのまんまの意味」
捉えどころのない表情で、越前はに詰め寄り、は半ば楠の幹に追い詰められるような格好になった。どうしよう、と言う言葉がの頭の中を占拠する。これは告白ではなく半ば脅迫ではないか、と頭の片隅で思ったと同時に、ふわりと、違和感が降って沸いた。
(……あれ?)
「…どうしたの?」
「…いや…」
(……不二先輩って…)
(こんなに……)
『、』
『はい?』
『髪の毛にてんとう虫ついてる』
『ひゃっ!?えっ!?』
『じっとしてて……、はい、取れたよ?』
『あ、ありがとうございます』
『ふふ、毛虫じゃなくてよかったね?』
あの折見上げた不二先輩は、確かもっと。
「……越前」
「……なあに?」
「……本当に168cmあるの?」
「……なんで?」
思い切って、越前の瞳をじっと見詰めつつ問い詰めると、かすかに瞳孔が開いて、閉じた、気がした。はさらに思い切った。
「……嘘だね?」
「は、はぁ!?だってあの紙に書いて…」
「工作したでしょ!?不二先輩はこんなに小さくなかったけど!?」
「…っっ…」
ありていに仕舞った、と言う表情をした越前は少しだけ後ずさった。傍に詰め寄らなければ、気付かなかったかもしれない。威圧するはずが、完全に足元を救われた瞬間である。罰の悪い表情をして、うつむいた越前は、何だかことさらに小さく見える。あの時はよく確認しなかったけれど、163cmあたりの数字を繋げて8にしていたのかもしれない。小賢しい、と嘲笑を浮かべたはもはや悪役気取りであった。
「越前リョーマ、敗れたり!!!!」
「っ、くっそ……絶対騙せると思ったのに…」
「5cmの壁は大きいよ?越前」
「…言われなくても、知ってるし…」
そっぽを向いて不機嫌を丸出しにした越前が、途端に可愛く思えたのは、それが打算とかけ離れていたからに違いない。無意識に右手を延べたは、越前の柔らかな髪に触れて、あやす様に優しく撫ぜた。
「ちょっと…やめろよ!」
「だって越前かわいいんだもん」
「そういうのいらないッスから!」
こういうときしつこいは大概鬱陶しいと思いながら、越前はどうにかの攻撃を跳ね除けた。それから深い息を吐いて、柄にもなく憂いめいたものが胸を過りそうになったのをやり過ごす。急いてはことを仕損じる、と言う言葉もあるけれど、越前はあの春の日から善は急げ、を心情に生きて来た。恥を忍んで、中等部の見学にやって来た乾に身長が伸びる方法を何気なく尋ねたりもした。
『寝る子は育つ…、勿論、あのコロイド溶液も有効的だよ』
『……は?コロイド?』
『お前が好んで飲まない牝牛の母乳…つまり牛乳だ』
『……はじめから牛乳って言って下さい』
『勿論乾じr』
『結構ッス!』
それから毎日10時には寝て、朝昼晩牛乳を欠かさず飲んでいた健気さをに知られたらそれこそ一巻の終わりだと越前は思うけれど、小癪な裏工作がバレたのも相当の痛手だ。だって仕方がないじゃないか、善は急げと思ったら、167cmなんて待っていられない。人当たりだけは頗る良好であるが、他の男と睦まじくしているもの腹が立つのに。高校に入って半年、が別の男に現を抜かすんじゃないかと気が気ではないのに。
(くそマジで…)
歯痒い、と思ったら、いつも自分を纏う空気が乱されそうになって唇を噛んだ。の顔を横目で盗み見たら、来たときの強張った面立ちとは一転、いつも通りのだらしない顔をしているからなんとなくむかついた。自分とのことを先延ばしに出来てほっとしたのか、と邪推したら余計に腹が立つ。
「…つーか、もう充分じゃないスか?」
「………へ?」
「不意にされるかもしれないのに、待ってるのバカバカしいんで」
越前は吐き捨てるように言って、の瞳をまっすぐ見詰めた。167cmに届かないとしても、出逢った当初と比べるとずいぶんと大人めいた越前は、友人の言う通り引く手あまただろう。そんな越前が、自分如きに半年あまりの時間を費やしてくれたのかと思うと申し訳なさと同時にいとおしさが沸いた。尚且つ、待ちきれなくて工作をしてのけるなんて、いじらしくてしょうがない。相変わらず自分達が付き合うビジョンが浮かばないではあったけれど、いくら想定してもそれは事実無根の産物で、実際どうなるかは誰も判らない。もしかしたら、将来越前が180cmを超えて自分を見下ろすこともありえないことではないみたいに。
「…167cmになったら」
「…はぁ、またそれ?」
「167cmになったら、付き合ってくれる?」
が今の精一杯を舌に乗せると、越前の瞳がぱっと開いた。
「…万一、ならなかったら?」
「ふふ…、待ってるよ?越前」
「…上等」
越前の目元が緩み、口元はまたアイロニカルに象られた。その奥で、早寝と牛乳の決意を再び固めたことを、は露ほども知らないけれど。
「じゃあ予約、ってことで」
「へっ?」
そう越前が零して、瞬く間に距離を詰められたからぎょっとした。刹那、鼻先に現れた越前に慌てふためく間もなく、くちびるを、奪われた。それから、離れていく様はいやにゆっくりで、ぽかんとしながらは越前の大きな瞳を見詰めている。
「このほうが、キスはしやすいね?」
「っっ…………バカ越前!」
「ぼうっとしてるアンタが悪いよ?センパイ」
くつくつと咽喉の奥で笑って見せる越前は、通常装備の意地悪を露呈させていて、は前途が輝いているのか、多難なのかよくわからないまま、越前をにらみ付けた。 |