彼の述べて見せた「すぐ終わる」が嘘だなんて百も承知の上で居残ったから、この退屈は然るべきものだろう。…とは言え、このままでは柳の耳の後ろの形が網膜に焼き付いてしまいそうである。柳の「すぐ」は何分何秒に属するのか、という不毛なことを問いかける妄想をした。妄想の中の柳は、少し眉をひそめて「そうか…そうだな、すまない」と小さく零す。定めて、現実もそう変わらないだろう。
「やなぎ」
遠 雷
ひさびさに声をあげたから、語尾が掠れた。彼の型が撓り、わずか視線のみこちらへ寄せられる。
「…すまない、…、あと」
「ううん、別に暇だからいいんだけど、でも」
「…何だ?」
「…なんか手伝う?」
「いや、それには及ばない」
書類を前に電卓を叩く柳の、目の下には微かながらクマが見て取れた。確かに、私が手伝ったら柳が一人でやるより時間を要してしまいそうだけど、言わずにはいられなかった自分は優しいと見せかけただの出しゃばりだ。
「ありがとう」
緩められた瞳を受けてなんだか胸がいっぱいになった私はひどくお手軽なやつだと思う。もともとここに落ち着くことに決めた所以だって、健気といえば聞こえがいいけれど、聞く人が聞けば大層なものだろう。別に何をするでもなく、傍にいるだけで幸せだから、とか、そんな。
(…我ながら、おめでたい)
軽く息を吐いたら、合図みたく柳が大きく伸びた。終わるのか、と思ったけれど、そのまま元の体制に戻った柳は、先刻同様再び書類に視線を這わせる。どうやらまだもう少しかかるらしい。
ふと遠くの窓に目を遣ると、やや性質の悪そうな雲が立ち込めている。天気予報をうのみにすれば、夕方の降水確率は90%だ。そのせいか、図書室はもうほとんど生徒を孕んでいない。その片隅で小さくまとまった私たちは、まるで世界に取り残されたみたいである。
「…傘、持ってきた?柳」
「…ああ」
「わたし、忘れちゃった」
「…そうか」
「…入れてくれる?」
「…入らないつもりだったのか?」
「…ううん」
含み笑いをしながら、私は机に突っ伏した。柳の大きなてのひらが頭にぽん、と乗せられ、離れてゆく一連。ああ、柳が好きだなあとありふれたことを思いながらこうべを上げた私はきっとだらしない顔をしているだろう。見られたくない。
「あ」
途端、遠くで荘厳な音が低く低く鳴って、窓に雨粒がぶつかった。遠雷、とぽつり柳は述べて、広げていた書類を手元に重ねた。
「…タイミングが悪かったな」
「もしかして、終わったの?」
「ああ…、でも今出ると悲惨なことになりそうだ」
「うん…確かに」
雨は徐々にではあるが、確実に強さを増している。時間的に、夕立ちかもしれないと考えたら今出るのは得策ではない。私たちは定めて同様のことを思いながら、窓の向こうを見詰めた。再び、稲光が先行して、雷の音が地を這ってやってくる。
「…巻き込んですまなかったな、」
「ううん、どうせ帰る途中で濡れてたと思うし、おんなじ」
「………そうか」
「もうすこし、ここ居る?」
「ああ…、そうだな」
ふわりと笑んだ柳の、目元へ指を寄せる。疑問符を浮かべる姿は少しいとけなく見えて可愛かった。
「…せっかくだから、少し休めば?」
「………案ずる」
「案じます、私をなんだと思ってんの?」
唐突にたしなめられて、瞬いた柳は、微かに罰の悪そうな表情を覗かせた。我ながら、強気に出たなあと少々驚いたけれど、響いてくれたようで何よりである。
「…肩でも膝でも、貸しますよ?」
「…それは…、ありがたいな?」
「ちょっと、その顔バカにしてるでしょ」
くつくつと笑う柳につられて私も頬が緩む。窓から、追い立てるような雨粒の音がして、私たちはいよいよ、図書室に閉じ込められる羽目になった。
「では、お言葉に甘えるとしよう」
肩口に寄せられた柳の熱に頬を寄せたら、いつの間に握られていた掌に、ぎゅうと力が籠る。柳の吐息と、遠雷が綯い交ぜになって鼓膜を叩き、私は、強い雨が1秒でも長く降ることを心のどこかで願っている。
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