午後は雨が降る確率100%だ、と心の内側で小さく唱えたは、まるで誰かさんみたいだと直ぐさま自嘲した。そんなささやかな行為すら頭に響いてよろしくない。駄目だ、今日はもう帰ろう。ほとんど項垂れたまま本日2コマ目の講義を終えたはチャイムの皮切りと同時に重い身体を持ち上げる。いやな波長で響くチャイム音がまたの痛覚を刺激した。こめかみを抑えて、広い講堂を後にしたは、立て続けに溜息を零しながら、この時間帯、傍のドラッグストアは薬剤師を配置していないことを思い出して絶望する。鎮痛剤を服用しすぎた所為なのか、自分の身体は第一類医薬品しか受け付けないから、アスピリンやアセトアミノフェンでは焼け石に水なのだ。だからと言って、薬剤師の居るドラッグストアが並ぶ駅前の商店街まで歩くゆとりを今の自分が持ち合わせている道理もない。ひとまず、横たわり眠りの淵へ誘われれば何もかも、有耶無耶になるはずだ、と信じてはふらふらと帰路を辿った。大学から徒歩5分、通学の便だけがいいのがとりえである我が家に千鳥足で上がり込んだは、そのままベッドに傾れ込み、2時間あまりの爆睡を決め込んだ。を夢の内側から引き戻したのは、甲高く鳴るインターホンの音であった。


パ ス カ ル 鎮 痛 剤


いつもむやみやたらに飄々としているこいつの考えていることは一体全体どこに向かっているのか皆目見当がつかないけれど今日に至っては輪をかけて判らない。いつかたまたま一緒に帰宅した際にアパートの前で別れた覚えがあるから、この場所を知っていることは判る。しかし、なぜ、いま、このタイミングできみがここにいるのか。考えたくもない、何故なら頭が痛いからだ。靴箱に 片肘をついた行儀の悪い格好で(それもこれも頭痛の所為だ)玄関に立つ人を見上げたは心底そう思った。

「…どうした」

それはこちらが聞きたい、と言い返そうとして頭を抱える。すると、そのまま自動的に垂れたかぶりの目下へ、無地のCD-Rが延べられた。は瞳だけを上向きにして、開いているんだかいないんだか判らない相手の瞳界隈へ視線を送る。柳は通じて頗るすました様子で、何はさておき気に食わなかった。

「なあに、これ」
「図像だ」
「ずぞ……、ああ」
「…惜しかったな」

そういえば、今日、ゼミの研究室に戦国末期の集合図像が来ると言う話だったことをははたと思い出す。T大図書館にある通常持禁の図像が借りられるということで、聞き及んだ先週の今日は卒論の嵩増しに持って来いの資料だと跳ねて喜んだにも関わらず(不純な理由だが、学生なんてそんなもんだ)すっかり忘れていた。人間の記憶なんて脆くはかない。形なくとも諸行無常だ。

「…忘れてた、畜生」
「……言葉を選べ」
「煩い、具合が悪いの」
「…判っている」

だから持ってきてやったんだろう、と継いで、柳はCD-Rを改めて突き出した。中身は定めて撮影データと言ったところか。有難い。何といっても図像が研究室におわすのは今日限りなのだ。生で見られないのは辛いところだけれど、どうせ卒論には撮影データを貼りつける予定だったから都合が良かった。ははかない笑みを無理くり貼りつかせ、ありがと、と呟きながらCD-Rに指を延べる。瞬間、別段今日でなくても良かったんじゃないかと言う疑問が頭を掠めたけれど、また頭痛の種になるのがいやで、深く考えるのはやめておいた。当初柳が扉の前に立っていたのを覗き穴から確認した瞬間感じた疑問も、たまたま彼の興味関心とひとかけらの思いやりとやらがこちらの方角へ向いただけの気紛れだと思ってやり過ごすことに決める。頭のいいやつの考えることは判らないから考えても多分無駄だ。

「じゃあ、また研究室で…」
「……ああ」
「…柳?」

不意にデイパックのファスナーを開いた柳は、何か小さな小箱を取り出して、再びの眼前へ手を延べた。いやに見覚えのある箱だな、とのろまな頭で呟いて、それが何であるか把握したのはそれからほどなくしてのことである。

「……なんで?」
「頭痛が酷いから休むらしい、と教授から聞いたのだが」
「……いや、そうだけど」

柳が差し出したものは、が御用達にしている第一類医薬品であった。具合の悪いときにでも食べやすいものを、飲みやすいものを、女の子が好みそうなおいしそうなお菓子を、と言うのではなく、薬そのものと言うのが実に柳らしいと言えばそうだが、何故この薬品をわざわざ選んでくれたかは疑問が残るばかりだ。あまたの鎮痛剤が、世間には存在していると言うのに。は有難くそれを貰い受けながら、さも悩んでいますと言う表情を顔に張り付ける。

「以前、ゼミの歓迎会で服用していただろう」
「………あっ…、飲み過ぎて頭痛くなったとき…?」
「これ以外効かない、と漏らしていたように思ったが、違うか」

絶句して、刹那頭痛を忘れた。あれはそんなに印象的な出来事だっただろうか。確かに柳は自分の目前に控えていて、話に加わっていたといえばそうであるに違いないけれど。

「…柳って意味不明だね」
「どういうことだ?」
「何考えてるか全然判んないから」

そうか?と小さく疑問した柳は少々呆気に取られた色を滲ませていたから、意外だった。ささやかな雨の音が柳の後方から響いて、ああ、やっぱりかと内心呟いたのこめかみがまたずきりと痛みを放出する。顰められた眉を目の当たりにして、柳は小さく零した。

「…すまない、長居したな」
「ううん、こちらこそ、ごめん、ありがと、柳」
「いや、…早く、雨が上がることを祈っているよ」

片影、見当違いと思わしき台詞を述べながら、ふと頭を撫ぜた掌は、決して痛みまで触れてしまわないようにという類の思いやりが籠められていた、ようには感じた。挙句柳の言葉を反芻して見て、実はそれがとんでもない図星をついていることに気付いたから閉口する。柳の言う通り、雨があがればの低気圧頭痛は収束するのだ。やっぱり柳は意味不明だ。変人だ。エスパーかもしれない。でもそんな柳をまるはだかにしてみたら、そこにはめっぽう優しい一人の男が居るだけなのかもしれない。こめかみに馴染む、いやに心地の良い、柳の体温が、そう物語っている気がして止まない。

「…柳?」
「……意味不明、か」
「…あれ、もしかして、気にした?」

柳は首を振って、俄かに笑んだ、気がした。

「俺も存外、単純な男だよ」

柳の指が、降下して、頬を撫ぜながら、離れる。何故か名残惜しいと思ってしまった自分を酷く不覚に感じて、は俯いた。拍子にまた走る痛みをやり過ごして、手中に収められていた鎮痛剤の箱を握り締める。雨が収まるまで、あがっていけば、という一語が咽喉を付きそうになったけれど、それは玄関先で全てを済まそうとした柳の思いやりをなし崩しにする行為のような気がして、口を噤んだ。それから柳は、デイパックから無言で折り畳み傘を取り出すと、軽く会釈して見せた。一連、ほとんど項垂れて見せていたけれど、も成る丈同様に会釈を配慮する。その健気な様子に、今度こそ、柳は微か口元に笑みを称え、ゆらり瞳の色をこちらに差し向けた。は意図せず首筋が粟立つのを覚えて少々後ずさった。

「では、またな、
「うん、またね、柳」

「ありがとう」

最後の謝礼は、扉の閉める音と同時に送られたから果たして届いていたかどうか怪しい。しかし、それでもよかった。は玄関先でさっそく鎮痛剤の箱を開け、ピンク色の錠剤を舌に乗せる。ベッドで頭痛が柔和になるのをひしひしと感じながら、明瞭になる思考のかたわら、何故か柳の瞳の色がこびりついて離れない。





 


20130821 パスカルと鎮痛剤