その日、私はひどく緊張していた。どこの馬の骨かわからない男が買ってに人の部屋まであがりこんで、あまつは自分の傍らに居座ろうとしているのだ。誰に信じてもらえなくても、結構な人見知りである私が、胸をざわつかせるのは当然のことだ。はっきり言って、今日の昼ご飯は鉛のように思えてまるで咽喉を通らなかった。兄の知り合いの友達、というこじつけの関係性は実に赤の他人に等しく、そんな他人を信用してかわいい一人娘にあてがうなんてまったくどうかしている。そんな娘の憂鬱を知らない道理がないのに、いそいそとお茶の用意なんて初めている母親が恨めしい。
憂鬱がはちきれそうでたまらなくなった頃、その人は現れた。響くインターホンの高い音が、妙ちきりんに内耳で反響する。絶望にBGMをつけるなら、こんな風なのかもしれない、と、私は泣きそうになっていた。

「初めまして」

彼の声を受け、虚ろに振り向くまで、私は考えもしなかった。培われてしまった焦燥が、完膚なきまでに打ちのめされてしまうなんてこともあるんだ、ってこと。

 、



それから、週に3回、ないし4回と言う頻度で、蓮二先生は我が家に訪れるようになった。私との相性についてなんだかんだ気を揉んでいたらしい母親は胸を撫で下ろし、柳さんに随分なついてるわね、といらないことをのたまいながら上機嫌にお茶を持ってきたりする。そんな折、蓮二先生は照れる素振りも見せず、優雅な会釈と涼やかな笑みで場をやり過ごすのだった。
たまたまつてで来て貰うことになった家庭教師が、よもやこんな非の打ち所のないひとだなんて、本来は夢のまた夢すぎて、今時漫画やドラマの内側でもなかなかありえないシュチュエーションだと思う。もともとネガティブ思考な私だから、きっと勉強に明け暮れて性格が屈折しているへんくつな大学生がやって来るに違いないと諦めていたのに、現れたのは蓮二先生だ。予想とのギャップに耐えかねた、と言うより、予想だにしていなかった展開に泡を食った私は、あの顔合わせの日に果たして巧く喋れていたか心許ない。ひとまず、蓮二先生に格好悪いところは見せられないと言うゆがんだ思いから、とは言え、成績がこの数ヶ月で軒並み上がったのは母親にとって喜ばしいことだったと思う。私の与り知らないところで、ひとまず様子見として一学期の期末まで、と話を持ち掛けられていたらしい蓮二先生と、二学期に差し掛かった今も一緒に勉強出来るのは、蓮二先生の教え方はもとより、私の見栄坊な努力の賜物だ。



少しきつめの抑揚で名を呼ばれ、びくりと肩が跳ねる。はい、と掠れる声で答えた私は、途中式の二列目に差し掛かったあたりでペンの動きを止める。

「今の場所、前回も同様に間違えていたぞ」
「そ、そうでしたっけ?」
「…受験に活用しないとは言え、気を抜きすぎだ」
「ごめんなさい…」
「受験が上手く行っても、卒業出来なければ元も子もない、しっかりやれ」

吐かれた息が、ノートの端をかすかに揺らすのをぼんやり見ていたら、いつの間に赤ペンで判りやすい導入の矢印が計算式に記されていた。流石だな、と思いながら、私は赤ペンの下に新しい式を連ねる。不意に、蓮二先生は、と雑談の皮切りを音にしそうになって口を噤んだ。蓮二先生のことだから、雑談はせめてきりの良い場所まで進んでからにしてくれ、と眉を顰めるに決まっている。私にとっては残りたったの数問がえらく遠い道のりに思えるけれど、仕方のないことだ、と咀嚼出来るようになった自分は、相当蓮二先生に必死なのだと思う。

「蓮二先生はさ」

母がいれた紅茶に唇を寄せたのを見過ごさなかった私は、別の教材を取り出しつつ、いつも薄く開かれた彼の瞳を見遣った。

「まだ夏休みなんだよねえ」
「…悪戯に時間を持て余すのも、得意ではないんだがな」

柔らかく笑んだ蓮二先生が、私の気持ちを汲んだようで嬉しい。

「羨望の眼差し、か?不毛だな、
「そういう蓮二先生は…そんな暇あったら勉強しろって眼差しですね」
「名答だ」

世界史の教科書を手渡されて、私の言葉の芽を摘んだつもりの蓮二先生は、52ページ、と短い指示の一語を送る。気に食わなかった私は、言うことをすぐには聞かず、そういえば、と摘まれた芽を奪って植えなおす。

「この前母伝いに軽井沢のお土産貰いましたけど、旅行行ってたんですね」
「…旅行、と言うべきか」
「違うんですか?」
「…まあ、最終的に旧軽井沢へ連れ出されたから、その表現もあながち間違ってはないだろう」
「ふん?もともと別の目的があったってことですか?」
「ああ、…テニスをしに行っていた」
「それって…、あからさまに旅行だと思いますが」

つっこんだのち、一瞬蓮二先生は、きょとん、と形容できるなんだか新しい表情を見せて、それからほどなく、ああ、と気の抜けた笑みを零す。

「当時の部活動延長線上で、どうもそう言う浮ついた心地にはなれないが、言われて見れば確かに、お前の言う通りだな」
「蓮二先生、テニス部だったんですか?」
「ああ、言っていなかったか」

聞いてない、上に、立海テニス部と言えば中学高校のテニス界では強豪と名高い名門であると、さしてテニスに詳しくない私が知っている程度だからその世界では相当有名なのだと思う。うちの学校もそれなりに名が知れているほうだとは思うけれど、よもや立海には適わない。すらりと長い背に気を取られて、認識は薄くなりがちだけど、ワイシャツの袖から覗く腕には、程よい筋肉がしつらえられている。自分の手元を見るふりで、それにみとれた私は、文武両道なのだな、とことさらな完璧さを感じたけれど、まさかテニス部だったなんて、何だか意外だった。

「意外、と言う顔をしているな」
「ぁ、はい、なんか蓮二先生は、弓道とか剣道とか、道のつくものやってたのかと思ってました」

あ、柔道はちょっとイメージと違うかな?と肩を竦めた私に、蓮二先生は、そうか、と短く返答して、近場の窓を脇見した。遠くを見つめる瞳は、いやに尊く、いつかに思いを馳せているのかな、と身勝手に思案する。

「強かったんですよね?」
「疑問にしては、断定的だな」
「あれ、違いました?」

蓮二先生は、頷くかわりにふ、と笑んでのち、きっと照れ隠しの要領で、私の前髪をくしゃりと撫ぜた。少し冷たい蓮二先生の指先が額に触れて、心が上擦る。好きだ、ちょー好きだ、と、気を抜いたついでに告げてしまいそうで怖い。なんでこの人は、こんなにかっこいいんだろう。

「テニス、したいな」
「ん?」
「私も中学のときは、テニス部だったんですよ、軟式だけど!」
「ほう、そうだったか」
「だから、蓮二先生とテニスしたいなーって、…あ、勿論これでもかと言うほどハンデつけてくれなきゃ嫌ですよ?」
「ふっ…」

私の表情が必死だったから、なのか、小さく吹き出した蓮二先生は、くつくつと声をあげながら、面立ちを逸らす。破顔した蓮二先生はレアだから、そっぽ向くのはやめて欲しいのだけど、そうも言えずに、私は笑わないで下さいよ、と一応の抗議を漏らす。

「お前は、本当に、」
「…はい?」
「……いや、何でもない」

一転
何故か妙に涼やかな表情を貼り付けて、蓮二先生はボールペンをかちりと鳴らす。

「52ページだ、
「ふわい」
「得手だろう、世界史は」

別に得手じゃない。蓮二先生のお浚いが判りやすいから耳に馴染むのだ。…という類のことをふんわりとしたオブラートに包んで口にしたら、お前の取り組む姿勢の問題だと一蹴された。褒めているのになんてこと、と思ったけれど、それからまたえも言われぬタイミングで、ありがとう、と柔らかな声が齎されるから、また私は一重に頑張れてしまうのだ。蓮二先生はずるい。計算づくで人生を渡ってきました、というようななりで、けして打算的でない真綿のような一面を持ち合わせているから、すっかりほだされてしまう。あの日憂鬱を払拭されたしゅんかんから、今の今まで私は蓮二先生に惹かれ、魅せられ止むことがなさすぎて、苦しいくらいだ。たぶん、きっとこれからも。

世界史の復習が終わり、蓮二先生の帰宅時間が迫っている。はじめはきりがいいと早々に部屋を後にしていた蓮二先生が、軽く留まるようになってくれたのはこの上なく嬉しい。こんな女子高生のつまらない部屋でも、居心地が悪くはないと思ってくれているのだろうか。私は今日もありがとうございました、と蓮二先生に向き直って深く頭を下げる。お疲れ様、と応えてくれる蓮二先生ももしかしたら頭を下げているのかもしれないけれど、顔を伏せているから事実どうなのかはわからない。

「…立海は」

教科書を仕舞いこんでいる私へ、蓮二先生が呟くように言葉を送った。え、と小さく零して、私は蓮二先生の顔を確認する。蓮二先生は、底に残った紅茶の澱を見詰めながら、冷えきった琥珀色の液体に口をつけた。

「学生に開放されているコートも多い」
「………はい?」
「しっかり整備されているとは言い難いが…、まあ、時間外であれば中高の部活動で使用しているコートを使うことも」
「せ、せんせ?話が読めません」

ああ、すまない、と蓮二先生はカップをソーサーに戻した。そして、少し勿体ぶった様子で言葉を継いだ。

「志望校、立海も候補にしたのだろう?」

ふわ、と私は裏返った声を露にし、直後、自分の顔がみるみる赤くなっていくのを感じた。何故蓮二先生がそのことを知っているのか、と思ったけれど、情報の発信源はひとつしか考えられない。母だ、母親だ。だってこの話は母にしかしていない。ましてや、蓮二先生の居る立海に行けば、2年間ではあるけれど、蓮二先生とキャンパスライフを過ごせるなんて言う腹積もりは母にだって打ち明けていないけれど、まさか、よもや、見透かされてはいまいかと私は狼狽する。

「り、立海は学部も豊富だし、あの、その、設備もじゅうじつ…」
「…何故、狼狽たえている?」
「うろたえてなんか、ないです」
「ふ…そう、か」

伸ばされた指の背中側が私の頬に触れて、そのひやりとした低温を吸収する代わりに、私の熱を奪っていく。本人にそのつもりなんかなくたって、これは立派な翻弄というやつだ。

「次の休みにでも、来てみればいい」
「…立海大に、ですか」
「ああ、俺でよければ、案内してやろう」

てゆうか、蓮二先生がいいです、と咽喉元まででかかった言葉をギリギリで飲み込んで、私は、ありがとうございますと形式ばった返答を舌に乗せた。やだ、何着よう、なんて一瞬で思考回路に浮ついたものが流れこんだけど、常識的に考えて制服に決まっている。セーラー服の高校生と共だって、キャンパスを歩き、少々噂が流れてもきっと、蓮二先生は悠然としているに違いない。それにひきかえ、私は胸いっぱいの優越感を抱えながら家で枕を抱えてじたばたするんだろう。今から容易に想像がつく。にやつきそうになる頬を食い止めていたら、指はするりと離れていった。名残おしさもひとしおだけれど、仕方がない。蓮二先生を見上げて、お帰りですね?と問うと、頷いた先生はデイパックを抱えながら、自分のソーサーとカップを手に取った。私はふうと息を吐いて、自室の扉を開け放つ。

「立海の学生になれたら」
「……ん?」
「蓮二先生は、先生じゃなくて、先輩ですね、蓮二先輩!」

また
蓮二先生が虚をつかれた顔をしたので、私は嬉しくなった。何故かまた伸びた手が、前髪をくしゃりと擽る。そういえば、こうして蓮二先生が触れてくれるようになったのはいつからだったろう。はじめてのときは、心臓が爆発しそうになったのはよく覚えているけれど。

「それも存外、悪くはないな」

指の向こう側の蓮二先生は、私の好きな顔で頬を緩めていて、ああまた今日も昨日よりもっと蓮二先生が好きだと思った。



 


20130325 累累と、綽綽と