あめとムチ
勘違いしていたとはいえ、待ち合わせに1時間も遅れてくるとか持っての他だ。しかも起きたのは長太郎からのメール着信バイブ音だからさらに終わっている。今どこにいるの?と書かれたそのメールにほとんど泣きながら返信した私は、ままならない用意のまま家を飛び出した。
もうすぐコンクールだからピアノの仕上がりを見てくれないかと言い出したのは私だった。せっかく部活も休みの休日に、わざわざ予定を空けて貰ったのに、遅れるとかゆゆしきことすぎて何と謝ればいいのか判らない。
焦って駆け込んだ学校、予約していた第2練習室の鍵はすでに誰かに持ち去られていて、それが長太郎だということはすぐに判った。ほとんど誰もいないのをいいことに廊下を滑るようにかけて練習室を開けると、長太郎がピアノの前に着座して、トロイメライを涼やかに弾いていた。瞳を閉じて集中していた様子の長太郎は、ほどなく私に気付いてふわりと笑い、そのまま流れるような手つきで曲を終わらせる。
「おはよう、」
「は、はやくないよ、ごめん長太郎」
「いいよ?俺もひさびさに弾けて楽しかったし」
「ごめん…」
「謝らないで、別に悪気があったわけじゃないんだろ」
怒ってくれなじってくれ、と思うけれど長太郎は大概ふわふわ優しくて、甘んじてしまう私は本当にだめな人間だと思う。私が俯いていると、長太郎はすっと椅子から立ち上がって、私の手を取った。あまつはそのまま私を椅子までエスコートしてくれる。ぬるま湯に少々泣きそうになりながら、腰を下ろして、長太郎を見上げたら、小動物を見るような顔で頭を撫ぜられた。
「呼んで貰っておいて何だけど…大したアドバイス出来ないよ」
「ううん、聴いて何か言って貰えるだけで助かるから」
「そう、なら良かった…、少し、練習する?」
「いや、長太郎に長居してもらっちゃうの悪いし、もう早速弾く!」
「気にしなくていいのに」
暗記した音符の群れを頭に並べながら大きく伸びをした私は、大きな深呼吸をして直ぐ鍵盤に指を這わせる。人に聞いて貰うのは矢張りとても緊張する。ピアノを知っている長太郎の前だから尚のことだ。長太郎は私の傍らで、多分指の動きを見詰めながら鼓膜にぶつかる音符を受け止めているんだろう。私は意識をそちらに持っていかれないように鍵盤の白と黒だけを必死に追いかけた。気付けば、最後の音が練習室に木霊して、驚くような静けさが、あたりを包み込んだ。
「…は…とりあえず間違えずに弾けた」
私が脱力して項垂れると、後方からぱちぱちと拍手が届いて早速私を喜ばせた。振り返ると、矢張りすぐ傍に長太郎は居てくれていて、その瞳は柔らかく緩められていたから余計に安心した。長太郎が簡単に叱咤してくれるはずがないとは判っている私は、実にあざといけれど。
「凄い、、前より随分上手になったね」
「そうかな…ありがと…中盤少し走っちゃったけど」
「気にならなかったよ?」
「ホント?良かった」
「リラックスして本番臨めれば、多分そこも完璧だよ」
はっきり言って一度目の本番のようなものだったから、酷く脱力した私は鍵盤に突っ伏してしまいそうになったけれどもすんでで止めて上体を起こす。微かに滲んだ汗を拭って息をつくと、長太郎が再び私の頭を撫ぜた。こそばゆいけど、決して嫌ではない。
「あとは…」
「うん?」
何か言葉を継ごうとした長太郎が、ほんのわずかに悪戯っぽく笑んだのを、私は見逃さなかった。
「……遅刻さえ、気をつければね?」
「……ご、ごめんなさい!」
あははと笑い声を立てた長太郎は、尚も私に触れてくれていて、なんて優しい棘なんだろうと思いながら、それでも彼の顔を見詰められず、私は、俯いた。
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