トマイザー


おはよう、と微かに笑みつつこちらに首を傾ける彼は実に麗しい。萩之介が隣の椅子を引いて着席するまでの一連の流れに視線を送りながら、机の中に手を伸ばす。目当てのものが指先にぶつかり、引き出した頃、萩之介がそっと口を開いた。

「…昨日貸した本、どうだった?」
「あ、凄く面白かった、一日で読みきっちゃった」
「どんでん返し、巧妙だよね」
「うん、まさかあそこで入れ替わってるなんてね」

丁度いい塩梅で手元に用意したその文庫本に、キャラメルをひと包み添えて差し出したら萩之介が俄かに吹き出した。心ばかりのお礼だったのだけど、滑稽だったろうか。

「…ありがと、らしいね」
「ご、ごめん、要らない?」
「や、有難く貰っておく」

緩められた目元につられて微笑みながら、次のおすすめの本を聞き出そうと踏んでいたのだけれど、先に声を送ったのは萩之介のほうだった。

「……
「ん…?どうしたの?」
「何かつけてるでしょ」

はじめ意味が判らず、ふぁ、と間の抜けた声をあげた私は少しの間を置いて、自分が今朝、姉のオーデ・コロンを興味本位で吹きかけてきたことを思い出した。思いの他大人っぽい香りのフレグランスだったからはじめ匂いに酔いそうになったのだけど、纏い慣れてしまうとうやむやになってしまうものらしい。忘れていた。私は自分の手首に鼻を寄せて、香りを確認する。今文庫本を渡した折にここから漂ったのだろう。思いの他強い香りだったらしい。

「うん、姉の香水」
「……ふーん」
「え、匂う?結構くさい?」
「いや、そうじゃないけど」

途端煮え切らないような態度を浮かべ始めた萩之介にいささか不安を覚えた私は、気を揉みつつも成る丈平生を装って疑問符を送る。

「なになにー?言ってよ!萩之介!」
「や、はっきり言って」
「…うん」
「似合わないからやめたほうがいいよ」

萩之介は遠慮のない性格だからはっきり言ってくる心構えは出来ていたけれど、本当にはっきり言ってきたからずしんと胃の腑が重くなった。仕舞った。先週の席替えで萩之介と隣の席になれたから舞い上がって色気付いたのが完全に裏目に出た瞬間というやつだ。

「う…、や、やっぱり?」
「うん、要らない」
「…ごめん、ちょっとだけ落ち込ませて」

あからさまに頭をかかえるアクションをしながら、本当に、心の底より落ち込んだ私は、今日一日この香りを纏って萩之介の隣に居なければならないことが憂鬱すぎて死にそうだった。

「ごめんね?」
「うん、うん、いい、正直に言ってくれる友達って必要だよ?」
「うん、そう思って、それに」
「……はい」

次は何が来るのか、と思考能力のすっかり低下した頭で青褪めつつ首を萩之介の方向に向けると、萩之介の興味はいつの間にか次の授業の教科書に移っていた。ぱらぱらとそれを捲りながら、萩之介は実に事も無げに言葉を紡ぎ出す。

「別に、いつもいい香りだし」

え、と小さく鳴いたけれど、萩之介はどこ吹く風と言う様子で英語の教科書に視線を落としている。何か言おうとしてみたけれど言葉が思い浮かばず、狼狽えた私の瞳は泳ぐに泳いだ。萩之介はそれを脇目でちらりと確認すると、先と同様に吹き出して、小さく、言葉を継いだ。

「いつものほうが好きだって言ってんの、わかんない?」

一瞬言葉の意味がわからずぽかんとしていたから急激にそれが作用したとき血液が沸騰したんじゃないかとすら思えた。私はあわてて机の中から萩之介同様英語の教科書を取り出すと、心肺を落ち着けるべく英文に視線を落とす。しかし、うまくいかなかった。

「教科書、逆だよ、
「!!!!!!!!!!!!!!」

くつくつと笑う萩之介の声を片耳で聞きながら、教科書で覆った私の顔は多分真っ赤だった。


 

20130831 アトマイザー