きのそら

女心となんとやら、と言うけれど、それよりずっと変わりやすい気性の持ち主を私は知っている。眠りの底で、馬力を培いすぎた彼は、目がぱっちりと開いてしまったとき、あますところなくそれを放出してしまうから、きっとどっと疲れて眠る。その繰り返しだ。

っ、−っおはよーっ!」

慈郎の声が珍しいことに朝っぱらから、いつになく跳ねていたから驚いて振り向いた。というより、朝の昇降口で彼を見かけることがレアだ。天変地異の前触れだろうか。

「テンション高…秋の新作マロン味ポッキーでも出たの?」
「ちっげえC!俺にはそれしかないんかい!」
「甘いものとテニス、当たらずとも遠からずっしょ」
「ちえー」

否定しないところが流石の慈郎だな、と思いながら、靴を履き替え、隣に並んでくる慈郎をちらりと見遣る。ふわふわの髪先が汗で湿り気を帯びていた。汗ではなくシャワーかもしれない。となると、さらに奇特なことに、今日は朝練にまで参加していたことになる。天変地異決定。こんなに晴れているけど夜は大雨だ。秋だから仕方ない。

「朝練、出たんだ?」
「そうだよーっ!マジ超楽しかった!」
「……生徒会長と試合でもしたの?」
「お、流石―!わかってんじゃん!」

成る程、強い相手と試合をすると頗るテンションが上がるのがこいつだ。しかも意外なことにテニス部で慈郎より強いやつは片手で数えるくらいしかいない。つまり彼を奮い立たせることが出来るのはほんの一握りの人間だけってことだ。跡部景吾は言うまでもなくその最たる人で、だからボロ負けしてなお(決めつけてしまうのはアレだけどあの人はほぼ無敵だから間違いない)慈郎のテンションが未だ落ち着かないのも頷けるのだけど、なんだか少し、いや酷く虚しい。ふと窓の外を見上げたら高い空が青くこちらを見下ろしていてなんだか余計に憂鬱になった。雨よ、降るなら早く降ってしまえよ。

「早起きはさんもんのとくっていうけどマジその通りだC」
「…意味わかっていってる?」
「早起きだと三回くらい得するって意味っしょ?」
「……違うけど…全然違うとも言い切れないところがむかつくわ」
「跡部と戦えたし、朝っぱらからの顔見れたC〜」
「………は!?」

階段ではたと足を止めた私に、慈郎がくりくりとした瞳を覗かせて来る。どうしたの、とか言いやがるから無自覚だ。むかつく。

も俺に会えて嬉しいっしょ〜」
「…なんでそうなるの、意味わかんない」
「これで2回消費したから、あと1回か〜」
「………人の話聞いてる?」

階段を登りきった慈郎は、一日に幾度となく行われる欠伸を早速決め込んで、大きく伸びた。そろそろ電池切れかもしれない。多分授業は爆睡だ。

「休み時間が庭で膝枕でもしてくれたら最高なんだけど〜」
「………は!?」

先刻とまるで同じ台詞を投げつけた私へ、屈託のない笑みを浮かべて見せる慈郎は小悪魔なんかじゃなくただの悪魔だと思う。

「これで3回消費〜!めでたしめでたC〜!」
「めでたくない!しないし!」
「え〜俺ひざまくら大好きなんだけどな〜」

他の誰かにひざまくらされたことあるのか、という疑問で少々心臓がもやついた私はもはやすっかり手遅れだ。口惜しい。口惜しいからこの勢いで思いの丈をぶちまけてしまおうかと一瞬頭を掠めたけれど、やっぱりこの関係も凄く心地よくて、だから私はぐっと言葉を飲み込んだ。

生憎、神様は最大限に空気を読んだらしく、昼前に忽如発生した低気圧が中庭へ大粒の雨を齎したから、慈郎の浅はかな願いとやらは叶わなかった。いや、決して本気にはしていなかったけれど。
しかし、一瞬目を覚ました慈郎が窓に向かって、「あーあ」と呟いたのを聞いた私はちょっとだけ愉快な気持ちになった。


 

20130829 あきのそら