「ホントは、私が教えられればベストなんだけどねー」
私の親友、鳳舞は果敢ない溜息を零しながら、小さく首を振った。ふわふわの猫っ毛が風もないのに柔らかく靡いている。それを鬱陶しげに追いやる指先は、酷使しているとは思えないほど美しい。白魚のよう、とはまさにこのことだろうと思いながら、私はそっと微笑んだ。
「長太郎くん、凄く飲み込み早いから…役不足なんじゃないかって心もとないよ?」
「そんなことない、長太郎もの教え方が上手だって賞賛してたもの」
階段をしずしずと上りながら、見返り優しい言葉を述べる舞。口元が少々引き攣ってしまった所以は、気のおけない親友に、やや後ろめたいことがあるからなのか、それとも。
「……ただ、何遍も言って悪いんだけど」
「………はい」
弟が絡んだ折に突出する、舞の新たな一面を知ってしまったからなのか。
「とは言え、ウチの可愛い長太郎に手ぇ出したら承知しねえからな…」
……アーメン神様。
きみと
わたしと
かのじょの 構図
よもや、知り合いの中でもひときわ可憐な自慢の親友である舞が、こんな面倒な側面を持ち合わせていたなど誰が判別出来ようか。確かに、普段から弟の話をすることが多いなあとは思っていたけれど、まさかそれがブラコンの域に達していようとは。否、達しているどころではない。わけのわからない法改正がまかり通って、子供を作らなければ姉弟間の結婚を認めることとする、ということになったら、舞は迷わず役所に走って婚姻届を貰ってくるに違いないだろう。確信出来る。彼女がそんな血迷っていたと知っていれば、『ふたつ下の弟に勉強を教えてあげて欲しい』と言うある種罠のようなお願いも、素晴らしく自信がないと首を振ることが出来たのに。…だがまあ事実まあ似たようなことは言った気がする。言ったのだけど、舞は潤んだ瞳でこう告げたのだ。『のこと、信頼しているから是非お願いしたいの』と。男はもとより、女の私もこれは相当心に響いた。中学1年の入学式で出会って早5年、親友だと思っていたのは私だけではなかったのだ、と正直感動してしまった。簡単に言えばほだされたのである。しかし、私はそこに宿る真の意味を履き違えていたのだろう。つまるところ内服されていた意味合いは、『弟に変な感情を抱かないだろうと信じている』と言うただそれだけのことだったのだ。
「あとでお紅茶持っていくから、よろしくね」
「ありがと」
「長太郎―、来たわよー」
中から長太郎くんの声が響き、心臓が唸る。ややあって、ノブが回るかすかな音と共に、長太郎くんがドアの向こうから現れる。
「さん、いらっしゃい」
「…こんにちは、長太郎くん」
私の顔を目視してこれ以上ない笑顔を浮かべた長太郎くんは、私を部屋の中に促した。お姫様のような舞の弟、と言う構図だけで考えれば安易に想像がつくことではあるけれど、長太郎くんはあたかも王子様であった。中学2年生でこれだけの頭角を現してるんだから、将来が恐ろしくて堪らない。司法を目指す、と言うことで同じ目的を持った私を宛がった舞ではあったけれど、多分ホストとかやらせたら若くしてオーナーになりうる資質すら兼ね備えていると思う、とか言ったら舞は怒るであろうことを私は知っている。そんな舞はなんだか頗る上機嫌で、またあとでね、と高い声でもらしつつ斜め隣の自室へ消えた。
「テスト、どうだった?」
「さんのおかげで、万事上手く行きました」
「長太郎くんが頑張ったからでしょ」
ふるふる、と首を振る長太郎くんはまるで子犬みたいでいとおしい。このくらいは、いや、やっぱ拙いかな、と言う心の内側のせめぎ合いののち、恐れつつ、手を延ばし触れた前髪は柔らかかった。軽く撫ぜると、長太郎くんは軽くはにかみながら俯いた。可愛い、文句なしに可愛い。
「じゃあ、今回はテストで間違えた部分を見ながら、対策を見つけて行こうか」
「はい!」
部屋の中央にしつらえられた木目調のテーブルで向かい合わせになりながら、先に言った通りの作業を始める。万端な長太郎くんは、すでにテスト用紙も、対策用のノートも用意してくれていたから、するすると話は進んだ。万事上手く言った、の言葉通り、苦手と言っていた科目も及第点をマークしている。流石だなあ、と思いながら、ノートに集中する長太郎くんをちらりと盗み見ると、先のいとけなさはどこ吹く風か、真剣な面立ちが貼り付いていてまるで別人である。こういうとき、なんだか舞の残酷さを感じずにはいられない。そして湧き上がる後ろ暗さ。
「…さん?」
「えっ、あ、ああ、ごめん」
「何か、不手際でもありました?」
「ううん、あってるよ、そのまま訳して大丈夫」
怪訝を眉間に宿しながら上目を寄越されて、変な汗が背中に滲んだ。
「このあたり、自信ないんで」
「うん、変なところあったら指摘するね?」
「お願いします」
恐ろしいまでに従順なこの子は、きっと姉の前でも同様に違いない。舞が手放したくない気持ちも判る。それはもう痛いほど。誠実と素直をそのまま形にしたような長太郎くんが、ある日突然どこの馬の骨とも判らない女の子を連れて帰宅したら、と思うと気が気じゃないんだろう。三つ年の離れた目に入れても痛くないほどかわいい弟。
(駄目だ、絶対)
(怒られる)
(っていうか…)
(殺される?)
それにしても、舞は見る目がない。私にどんな期待をかけていたのか知れないけれど。見る目がない、と言うより、こんな見目麗しい男の子と二人きりで隔離されて、おかしな感情が芽生えないほうがどうかしていると思うのだが、どうか。
「………もうすぐ、バレンタインだねえ」
外国語の教科書を閉ざし、数字が羅列したノートを開くそのいとまに、カレンダーから飛び込んできた情報をふとゴシップに寄せる。
「あ、本当だ」
「長太郎くんは、たくさん貰いそうだね?共学だもんね?」
「あはは、どうだろう、よくわかりません」
「…わからない、って?」
「誕生日なんですよ、俺」
意味がよくわからなくて一瞬きょとんとしてしまったけれど、ほどなく咀嚼して驚いた。
「えっ、長太郎くん、バレンタイン誕生日なの?」
「そうなんです、だから、みんなお祝いがてら義理でくれてるんだろうなって」
意中の男の子の誕生日がバレンタインだとか、そんなの女の子にとってはお誂え向きすぎやしないか、と女子校在籍中の私ですら考えてしまうのだけど、そこのところ判ってないあたり長太郎くんは色恋には酷く鈍く、不器用と見える。普段渡しにくい誕生日プレゼントも、バレンタインチョコレートも、一挙に渡して思いをアピール出来る大チャンスではないか。
(…長太郎くん、それはちょっと女の子が可哀想だよ)
釘を刺そうとも思ったけれど、結局言葉に出来ない私は相当自分がかわいいと見える。
「さんは?」
「……えっ」
「さんは、誰かにあげるんですか?」
「うちのところは…女子校だからなあ…カトリックだから厳しいし、友チョコもバレたら没収なの」
「ああ、なるほど」
思いも寄らぬ質問にどぎまぎしながら、私はぎこちない笑みを口元に乗せる。数学の教科書を取り出した長太郎くんは、少し残念ですね、と所論を述べて微笑んだ。自分のために緩められた瞳にぼんやりしてしまった私は、多分思いついたことを噛み砕くことなく、ほとんどそのまま咽喉へ送った。
「……長太郎くんに、あげようかな」
「……ええ!?」
「あっ、違うの、ほら、誕生日だって聞いたし、それも兼ねて、誰にもあげないのも、確かにつまらないかなって、その」
さっき長太郎くんの言っていたことを内心で思い切り否定しておきながら、上手にそれを言い訳として使役した私はどうしようもなく狡猾な馬鹿者だ。それはそれとして、誕生日プレゼントと言うのは確かに上質な隠れ蓑である。万にひとつ、舞にバレてしまったときの、言い訳として。
「…貰ってくれる?」
どうにか言い纏めた私の咽喉はからからで、数秒のうち相当量のエネルギーを浪費してしまった気がする。長太郎くんの顔が薄ら赤いのは気の所為だろうか。
「……あ、はい、喜んで」
「本当?良かった、じゃあ来週、持って来る」
丁度いい塩梅に、毎週火曜と金曜は家庭教師の日で、今年のバレンタインは来週の金曜日だ。私は唐突に踊り始めた胸を抑えながら勝手に湧き出てくる笑みを咽喉の奥に押し込めた。そんな私に、よもや駄目押しのような一言が舞い降りてくるとは1ミリも想像し得なかった。そのしゅんかん、私は完全に長太郎くんの姉の存在とやらを失念していただろう。
「…どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい」
テーブルという障害物が私の目前を塞いでいなかったら、多分長太郎くんをぎゅうと抱きしめてしまっていたと思う。ああ、もう無理だ。人の心は人に牽制されたところでおさえが利くものじゃあない。寧ろ恋と言うのは、障害があればあるほど燃え上ってしまう代物なのだ。あまたのロマンスにおける登場人物達が、それを痛いほど告げている。
「…長太郎くん」
泣きそうな瞳でその顔を見詰めたら、長太郎くんは困惑と羞恥と喜びみたいなものが綯い交ぜになった顔をしながら、改めて笑んだ。くちびるを噛んで、何とはなしに指を伸ばす、その、おおきなてのひらに。
――――しかし、その瞬間、多分事実とか現実とか言う名前のつくものが大きく私たちを切り裂いた。いかずちのような、大きなノック音。私は慌てて身を引いて、長太郎くんは開いた教科書にわざとらしく視線を落とす。
「二人とも、お茶持ってきたよ」
「は、はーい」
やおら立ち上がった長太郎くんは、私の脇をすり抜け、扉へ歩み寄る。私は頭を抱えながら、赤くなっているだろう顔をどうにか平生に戻そうと勤めた。
『とは言え、ウチの可愛い長太郎に手ぇ出したら承知しねえからな…』
もしこのまま突き進んだら、私は親友と同時に命すら失う可能性があるのか。それは代償としてあまりに大きくはあるまいか、いや、しかし。
あまたのロマンスには逃避行、というものが孕まれている場合がある、と言うことを考えてから首を大きく振った私は、人の机上で傾向と対策を思案している場合ではないような気がして意図せず嘆息した。
「楽しみに、してますね」
ノブに手をかける直前、長太郎くんがいつくしみを帯びた声で呟く。今現在扉の外にいる舞の瞳を、私はきっと、暫く見れないだろう。
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