彼が仕込まれて来たものは凡人の習い事と呼ばれるレベルからは軽く逸脱していたと思うから、きっと、中学でテニス部に入る、とその口が告げたとき、親はさほどいい顔をしなかっただろうことは安易に推察できる。せっかく精度良く培われた耳や指先が、不意になっただけではなく、血肉刺や傷に成り代わると考えたら、反対するのもやぶさかではない。幼等部の音楽コンクールで、合奏の折に難しいピアノの伴奏とソロをひとりでつとめ上げた彼の姿をよく覚えている。淡々と激しく、規則正しく、几帳面な音がホールを埋め尽くしたあの瞬間を。

それから数年後、私達は同じクラスになって、何だか舞い上がった私は、偶然にも隣の席に鎮座した彼に告げたのだ。

「ねえ、鳳くんって、ピアノ凄く上手いよね」

身を乗り出した私に、一瞬目を丸くした彼は、それから酷く人好きのする笑顔をふんわりと浮かべて、囁くように言った。

「…ありがとう」

その瞬間だ。私が彼に何もかも奪われてしまったのは。




高雅で感傷的なワルツ




最近、人前で弾くことなんてそうないから、びっくりした。と、彼は続け様に言って、あまつは、さんだよね、これからよろしく、と掌を差し出してくる。こんな同級の男子、どこをどう探してもいないだろう、と私は思って、嘘でしょうと何度も心で呟きながら、彼の掌に自分の掌を重ねた。顔が熱くなるのがわかったから、いっそ逃げ出してしまいたかったけど、開始時間のチャイムがそれは無理だと大声で告げる。しかし、真面目な鳳くんは先生が入ってくるやいなや教壇のほうに視線を送ってくれたから助かった。私は長い髪を頬に撫でつけて、鳳くんから顔を背けるけれど、憎らしくも彼は、そんな私の様 子などどこ吹く風で教科書を捲ったのであった。

氷帝テニス部、と言えば校内で知らないものはいないし、それのレギュラーともなれば、男子はもとより女子がほっておかない。ただでさえ眉目秀麗を兼ね備えた鳳くんが、それを勝ち得てしまったらどうなるんだろうと考えていたら、その日は呆気なく訪れて、やはり呆気なく彼は女子の噂の中心核へと上り詰めた。今どき古風とも呼べる下駄箱ラブレターを拾い上げる様子も幾度となく目にした。その度鳳くんは困惑した風に溜息を浮かべていて、きっとそんなところがたまらないんだろうなと私は確信していた。テニスをしている彼は文句なく格好良く、優雅に鍵盤を鳴らしていた彼と相反して雄々しかった。王子様、という陳腐な言葉が脳裏に浮かんで消えてゆく。

「ねえ、鳳くん」
「…ん?」

視聴覚室で、ふとふたりきりなった私は、プロジェクターを片付ける鳳くんに思わず問いかけた。コードを纏める作業をしていた彼は真面目に、一度動きを止めて、こちらに向き直る。少し恥ずかしくなりながら、私はしどろもどろにならないよう留意して言葉を舌に乗せる。

「もうピアノは弾かないの?」
「……うん、部活が忙しいからね、家ではよく弾いてるけど」
「残念…、また聞きたかったなあ」
「そう?」
「うん、素敵だったもの、とっても」
「そんな、幼等部の時の話だろ?」

美化されてるんじゃないか、と笑いながら、鳳くんは綺麗に束ね上げたコードをプロジェクターの脇に置いて、大きく伸びをした。さらに背の高くなった鳳くんにぱちくりしていると、それに気付いたのか、微かに笑みを零すから苦しくなった。

「…そんなに所望してくれるなら、喜んで弾くけれど」
「う、うそっ!?」
「あ、ごめん…本当は、そうでもなかったり?」
「そ、そんなことない、聞きたい」

丁度いい塩梅に、広い第1視聴覚室の脇にはグランドピアノが誂えてあった。たかが視聴 覚室、と言っては何だけど、音楽室でもない場所にまでピアノを置いてしまうのは、氷帝学園ならではだと思う。私が指差すと、鳳くんは少し驚いた風だったけど(多分、今すぐにそれを要求されるとは思っていなかったんだと思う)はたと時計を確認して、やっと静かに頷いた。私は、授業を早々に切り上げてくれた生物の先生に感謝をしながら、グランドピアノに歩み寄る鳳くんにそっとついていった。

「猫背になるから格好悪いんだよな」

照れたように笑って、着席した鳳くんは、手なれた様子で鍵盤の蓋を開けると、長い足を伸べてペダルに爪先をかける。格好悪いなんて、どこが、という言葉の声を呑み込みながら、私はどこを見ていればいいかわからないまま、ふわふわとした気持ちで鳳くんの指先を見詰めている。

(夢みたいだ)

なんてことだろう。いくら鳳くんが優しくても、これは生温過ぎる振る舞いである。ファンの女子に知られたら、生きてはいられないかもしれない。

(でも、別に)

(死んだっていいや)

私にとっては今この瞬間が何もかも全てだとそのときは純粋に思った。痛々しい思考を打ち消すように、沈む白鍵。思いの外大きい音が身体を擦りぬけたから驚いたけど、それからは続けざまに音の波がやってきて、私というものがやがて有耶無耶になるような心地すらした。

「わ…」

鳳くんの節の太い指先が、繊細な音を巧みに奏であげる。その音符の群れが私のこのちっぽけな私の鼓膜二つにだけ吸収されているのだと思うと少しだけ勿体ないし、ひどく贅沢だと感じながら、私は見えない音のかけらを追うように、いつのまに天井を仰いでいた。

「…知ってる?」

鳳くんはリズムの合間に細かく問いかける。曲のことか、と思って、私が首を振ると、そっか、と呟き、目を伏せた。目を瞑っても見えているかのような指の滑らかな動きにうっ とりする。クラシックはよくわからないけれど、緊張感のある不協和音の内側でほのかに感じる刹那さは、黄昏時の空を彷彿とさせる。ひどく美しくロマンチックな曲だと思った。しかし、オレンジの色味を帯びた音のかけらを拾い集め、ほどなくしてから私はかすかに違和感を覚えた。鳳くんの指から紡がれた音は、こんなに色彩を孕んでいただろうか。どちらかと言えば白く、洗練された、規則正しい音色ではなかったか。抑揚に身を任せる鳳くんの面立ちは活き活きとした血色に満ちていた。何故だろう、今彼はピアノを弾いているはずなのに、ふと浮かんだのはコートの中で弾ける彼のビジョンである。眩暈を感じながら、胸をぎゅうと押えたら、それが合図のように、最後の音がふわりと俟って、透明になった。

「………?」
「…ふぁ!」

鳳くんの声がするまで、魔法にかけられたように身動きを許されていなかった私の身体がびくりと撓る。私はいつのまに自分を覗きこむ近さに迫る鳳くんに驚いて、後ずさり、それからはた、と、成る丈大きな拍手を視聴覚室に響かせた。

「す、すごい、やっぱ上手!だね」
「ありがとう…長い曲だから、大分端折ったけど」
「そうなの?原曲は知らないけど、上手なのは充分伝わったよ」
「……ありがとう」
「いや、ありがとうはこっちの台詞だし!」

身を乗り出した私は、多分必死だったのだと思う。ぷ、と吹き出した鳳くんは、少しの間笑い声をあげた。私は恥ずかしくて、笑わないでよ、と力なく告げたまま、しなだれる。すると、見つめていた足元に大きな影が近寄ってきて、やがて覆いかぶさった。驚いて、見上げると、そこには言わずもがな鳳くんが佇んでいて、そのまま、さっきまで白鍵を覆っていた掌で、私の頭をぽんと叩いた。鳳くんが私に触れたのは、隣の席で、掌を差し出されてからこれで二度目のことだ。しかも、今度はこんなに近い。

「ううん、おかげで俺も、すっきりした」
「…へ、どういう…こと」
「ちょっと、悩んでて…部活のことで」
「そうだったの?」
「うん、でも、久々に広いところで弾いたら、何だか気持ち良くて、少し、ふっきれたな」

確かに、私を見る鳳くんは、飛び切り凛とした表情で、だから私の心臓はことさらどうに かなってしまいそうだと思う。



「だから、ありがとう、



なおも微笑んだ鳳くんを見て、私は自分の高らかな鼓動の音を聞きながら、思い至った。彼の音に彩色を施したのは、きっと今彼がこうして夢中になっているただひとつのものに違いない、と。彼はコートで絶え間なく息衝いて躍動して、だからこそ手に入れたのだ、あの時、幼いがゆえに持ち得ていなかった強いきらめきや、抑揚を。


ああ、私はきっとこれからも思い出すだろう、鳳くんがボールを打つ度、彼が私のためだけに弾いてくれたこの曲を。そして、もう一度彼のピアノを聴く機会があったら、その時はまた、コートで彼が跳ねる姿がきっと瞼に浮かぶのだ。


鳳くんの顔がいよいよ見れなくて、視線を落とすと、目前には彼がいつも身につけているクロスのペンダントヘッドが揺れている。かみさま、どうか、と月並みなことを願った私に、鳳くんは、また最高に甘やかな言葉を告げた。


「良ければ、また聴いてくれる?」


ああ、
私の

王子様。


 


20130410 高雅で感傷的なワルツ