「いつからだろう」

心で呟くたび、切ない言葉だなと思った。抗いたくても増えてゆくばかりの疑問符。いつから長太郎の声は昔よりずっと低い声で響くようになったのか、いつからほとんど頭ひとつぶん違う目線で歩くようになったのか、いつから容易に繋いでいた手を躊躇うようになったのか…、いつから、いつから、いつから。

いつから、ののちは、多分もっと残酷な疑問符が待っている。




いつまで、ぼくらは



!」

五.六時限目は体育で、しかもマラソン練習で、長距離走の嫌いなは疲労困憊ゆえほとんど生ける屍のような面持ちでのろのろと歩いていた。だから、幼馴染の声に振り替えるのもまるで亀のような動きで、事情を知っているとは言え長太郎も思わず苦笑する。

「お疲れだね?
「うん、疲れちった…」
「マラソン、嫌いだもんな?」
「きらい、マラソン大会なんて爆発すればいい」
「え、それは会場が?それともマラソ」
「えーい、マジレスすんな」
「マジレスって…が物騒なこと言うからだろ?」
「長太郎は、ちょっと真面目すぎるんだよ…」

そうかな?と柔らかく笑む長太郎。そんな風に真面目で優しくて、少し天然めいたところが女の心をぎゅっと掴むんでしょ、どうせ、と、悪態にならない悪態を心で吐き捨てたは、長太郎をふと仰ぎ見た。挙句の果てに長身、容姿端麗で家柄も申し分ないと来ている。駄目を押すところが見つからない幼馴染は、重箱の隅どころか中央だってつつき放題の自分をどう思っているのだろうか。たかがマラソンごときで表情に影を落とすようなそんな自分を。はことさらに眉を潜めて息を漏らす。大袈裟だなあと笑う長太郎は、の気持ちを知る由もなく、一緒に帰ろう、とまたひとつ笑った。それから、頷きもせず少しだけ傍に寄り添うのは、もはや部活のない水曜日の恒例行事のようなものだった。



「…見てるこっちが寒くなるよ」

と、言われても、ミニストップのベルギーチョコソフトは期間限定、今しか食べれない。肉まんやあんまんはどこのコンビニでも売っているけれど、ベルギーチョコソフトやハロハロはミニストップにしか売ってないんだ、と猛抗議したら、耳にタコだと肩を竦められた。確かにイートインスペースが用意されているにも関わらずわざわざ食べ歩きする必要もなかったかもしれないけれど、はここ最近夕方に再放送されていた昔のドラマにハマってしまったので、少々急いでいる。しかし、甘いものを食べたいと言う欲求は目前に広告をちらつかせてそうそう我慢出来る代物でもない。

「まーまー、そう言わず、一口どう?」

首を振った長太郎はマフラーを巻き直して、怯えたように震えた。女の子と言うのはパワフルだ。こんなに寒いのに、短いスカートと膝が丸見えのソックスだけで冬から自分を守っている。自分だって身体を動かせば足の露出も気にならなくなるけれど、通常の登下校程度の運動量じゃ、放出される熱量もたかが知れてるだろう。制服は基準服なだけで特に服装の細かい決まりがないとは言え、ジャージをスカートの下に着込んだりしている女子は身だしなみを注意されるので、女の子は結局真冬でも厚手のタイツを履いて身を守るくらいしか方法がない。そしてそれを一部の女子は頑なに拒むようだ。そういう、ならではな面倒くささみたいなものを感じると、自分は女じゃなくて良かった、と改めて長太郎は思うのだった。加えて、目の前の幼馴染ときたら、今日はそんなに寒くないよなんて零して、さしての防寒具も纏わず生きているもんだから驚いてしまう。それだけでは飽き足らず、ソフトクリームが食べたいなんて抜かすから、驚きは最終極地だ。のマイペースぶりには、長い付き合いながら恐れ入るばかりである。

「ベルギー人と結婚したら、毎日美味しいチョコが食べられるのかしら」
「…それはわからないけど、が一番好きなのってガーナミルクチョコレートだよね?」
「一般庶民の私には、ベルギーのチョコがどれだけ素敵に美味しいか未知数なんだよ?ほんもののベルギーのチョコを食べたら、ガーナミルクチョコが世界一美味しいと思っていたなんて馬鹿馬鹿しくなるかも?」
「ホントに?」
「…嘘です、ロッテごめん、ついでに明治もごめん」

これだけぺらぺらと喋りながら、手元のソフトクリームは順調に嵩を減らしているから凄いものだ。

「男子はマラソン4キロだっけ?」
「あーうん、そうかな?」
「軽いな…まあ軽いよね、余裕だもんね」
「まぁ、俺はほとんど毎日走ってるからさ」
「…引退したのに、ほとんど部活顔出してるもんね?」
「うん、高校までにブランク空けたくないしね」

飽く無き心、と言うまさにうってつけの言葉が脳裏に浮かんだ。大抵何もかも三日か四日坊主のは、この人の爪の垢を煎じて飲んだ方が良いなと苦笑する。無論、部活は帰宅部だ。

「日吉も、樺地も、他のみんなも頑張ってるから、うかうかしてられないんだよ」
「…長太郎だったら高校にあがってもすぐレギュラーに入れるよ?」
「うん…俺もまた宍戸先輩とダブルス組みたいと思ってるんだけどね」
「でーた、宍戸先輩」
「…出たってなんだよ」
「長太郎、一部で下手な疑惑に盛り上がる女子がいるみたいだから、気をつけなよ?」
「…よく意味がわからないんだけど」

意味がわからなければよろしい、とは述べて、再びソフトクームに唇を寄せる、とほぼ同時に、コーンを握っていた指の第一関節あたりにひやりとした感触を覚えた。

「あっ、やばい、垂れてる…?」
「あ、本当だ!」
「ちょ、長太郎!何か拭くもの」
「待てよ、今ハンカチ出すから」

そう言って、長太郎はブレザーのポケットに右手を突っ込んだ。はいと慌てて差し出されたハンカチと同時に、何かがぱらり、と足元に舞い落ちる。

「「あ」」

一瞬何が起きたかわからず、自分の爪先の2センチほど向こうに落ちた何かを暫しぼんやり見つめていたけれど、それにしたためられた丸くて可愛い文字が目に留まった瞬間、うなじのあたりが小さく粟立った。心臓が勢いよくうわずったのち、鉛に変わったかのように沈んでいく感触。長太郎は、あー、となんだか申し訳なさそうな、そうでもないような声をあげて、静かに足元のそれに手を伸べて、埃を払う仕草を見せた。は口を開けて、ほんの一瞬躊躇って、言葉を舌に乗せた。

「こんな時期だもんね?」
「うーん、やっぱそうなのかな?」
「そりゃそうだよ、氷帝テニス部レギュラー様じゃない」
「様、だなんて…そんな大それたものじゃないよ、それに、もう引退しちゃったしね」

肩を竦めて、長太郎はか細い手の甲に付着したチョコレートをグレーのハンカチで拭う。ほとんどの天才はそれを自覚していないと言うから、謙遜でなければ、長太郎はきっと天才に値するんだろうとは思った。幼等部までテニスラケットも握ったことがなかったのに、メキメキとその頭角を現したのがその証拠だ。長太郎は小さい頃から慣れ親しんだ音楽に生きる人だと思ったから、テニスに夢中になったのは意外だったけれど、才色兼備という言葉の意味を思えば、何も意外ではないと気付いたのは最近のことである。引退した中学最後の冬の思い出と洒落こんで行われる、次期卒業生への告白という一大ムーブメント。長太郎というブランド人間の競争率が上がらない道理があるだろうか。

「誰か気になる子いた?」
「…単刀直入だな?」
「いいでしょ、私と長太郎の仲じゃん」

道化のようだ、と思いながら咽喉に詰った言葉を吐き出して、は笑顔を張り付ける。いつからこんな作り笑いを浮かべられるようになったんだろう。いつもは怒りたいときに怒って、泣きたいときに泣いていたのに。自分に混迷して、本当の感情すら判らなくなりそうだ。はソフトクリームがすでに失われたコーンの空洞を見つめながら王様の耳はロバの耳、と叫び出したくなった。丸字の女の子はきっと私なんかよりおしとやかでかわいくてふわふわして、砂糖で出来てるみたいな、長太郎によく似合う女の子なのだろうと妄想する。自分がこんな立場じゃなかったら、似合い不似合いは置いておいて、季節の区切りに便乗して玉砕出来たかもしれないけれど、所謂気心の知れた何よりの幼馴染というぬるま湯があまりに心地良すぎるのだ。しかし、それは諸刃の剣で、成長して世間の毒を吸い込むほどに、幼馴染の特権は少しずつ剥がれて落ちて行き、を苦しめる。きっと近い未来に現れる長太郎の彼女の前で、自分は優しく微笑むことが出来るだろうか。あの指先は、いつか自分に繋がっていたのに、と繰り言をほざいたりはしないだろうか。

いつから、長太郎のことをひとりの異性として感じるようになったのか。
いつから、長太郎が生活になくてはならないものになったのか。
いつから、長太郎にこんなにも焦がれていたのだろう。

いつまで
いつまで そばで笑うことを 許してくれる?

無意識に震えた唇を、内側で軽く噛んで、は俯いた。

?」

憂いめいた声を寄越されたは、闇雲に明るさを演じ続けられなかった自分を叱咤した。何かしら悟られたかもしれないと心がざわめく。どうしたの、と冴えた声で返答したけれど、長太郎の表情は依然曇ったままだ。弁明の言葉を頭で構築しながら、尚もは笑顔を貼りつかせていたけれど、長太郎はいよいよ果敢ない嘆息を漏らす。

「やっぱり寒いんじゃないか?」
「え?」
「別に痩せ我慢しなくて良いよ」
「う、うん?」

勘違いに助けられて、は表情をこわばらせつつも胸を撫で下ろし、でも、平気だよ?と続けた、嘘吐け、と笑われたけど、嘘ではないから仕様がない。挙句長太郎は咽喉元で結んであるマフラーを解き始めた。そうなると、これから何をしようとしているかくらいは想像が付く。

「バカだな、せめてマフラーくらい持ってこいよ?」
「え、ちょっと待って長太郎、悪い」
「遠慮するなって、俺ととの仲なんだろ?」
「まぁ、…うん、そうだけど」

瞳を緩めて、マフラーをの肩にかけた長太郎は、ひどく満足気だった。長太郎の咽喉仏あたりを見つめながら、はなんだか気恥かしくてたまらなかったけれど、そのまま手前で結び目を作り始めたので、折角だからそのままにしておいた。暖かい羊毛の内側から、ほんのりと長太郎のぬくもりと香りが伝わって、鼓動が高鳴った。住宅街の路地、長太郎はへ与えたマフラーを最後にひと撫ぜして、そっと離れる。工程を終えてなお向かい合わせのまま、身動きしない長太郎に、は首を傾けた。

「今のところは」

えも言われぬ雰囲気で話し始めた長太郎には、心なしか緊張の色すら身受けられた。

と一緒にいるのが楽しいし、それ以外は考えられないかな?」
「い、今のところって何!」
「今のところは、今のところだよ…」

長太郎はそのまま、にだって気になるやつくらいいるんだろう、と続けようとして、口を噤んだ。こんなものはただ悪戯に逃げ道を確保しているに過ぎないけれど、自分だって、そこまで意気地を持ち合せているわけではない。

出来れば、いつまでも君のとなりで、と、言いたいけれど。

煮え切らない態度に痺れを切らしたのか、はふんだ、と独り言のように言って、背を向けた。そして、もはや忘れかけていたソフトクリームのコーンを一気に頬張る。口の中の水分が全部持ってかれるけれど、そんなの構っていらなれない。

「わはひまふきなのは、ひょーたろーはけだひ!」
「は?」
「はんへもない!」

一世一代の告白を、はぐらかして、は駆け足になる。もうすぐ見たいドラマが始まるからで、けして赤くなった顔を見られたくないから、とかじゃないんだ。

「え、おい、待てって!」

何者にもなれなくても、あと暫しの独占許可めいたものを頂いて、は天にも昇る気持ちだった。背中からは、自分を追う軽やかな足音。頬に触れる、長太郎のぬくもり。口の中がぱさぱさで、少し涙が出る。

出来れば、いつまでも君のとなりで、と言いたいけれど。

それが出来ないのなら、せめてあともう少し、このままで。

ネイビーブルーのマフラーが夕闇の内側で風に棚引いている。



いつまで(も)、ぼくらは


 


20130125 いつまで、ぼくらは