「ない、ない、ないないない!」
「……どうしたの」
「ないねん、俺の大事な消しゴムがぁっ!!!」



 
  リ
   ヤ



立ち上り、ズボンのポケットを両方ひっくり返しながらこちらに振り向いた謙也は少し、いや、死ぬほど間抜けだった。さっきまでかさこそちょこまか虫のように高速で動いていた(多分消しゴムを探していた)かと思えばあまつは叫びやがる。おかげで巻き添えを食ったこちらまで注目の的である。いい加減にして欲しい。

「一個くらいなくなっても問題ないでしょ、どうせ腐るほど持ってんだから」
「お前にとってはそうかもしれへんけどやな、俺にとっては重要な」
「わかった、わかったからとりあえず座って頂戴」

ポケットを仕舞い込みながら、着席した謙也は眉間に皺を寄せている。そのまま振り返り、今度は私の机の界隈を探している模様だ。こいつが消しゴムに必死になっている様子を見て、これまで幾度となく『いくら誕生日が遅いと言っても幼稚すぎやしないか、この年で消しゴム集めとか!』と人差し指を鼻先に押し当てて指摘してやりたい気持ちになったか知れない。しかし最近、多分こいつは自分の作ろうしていた至高の消しゴムの完成目前、志半ばで死んだ消しゴム職人の生まれ変わりなんだと思い込み生温かい瞳で見つめることにしている。せいぜい至高の消しゴムを見つけるまであがき続ければ良い、消しゴム職人よ。

の下にも落ちてなさそうやしな…」
「諦めなよ、っていうか、また買えば?」
「あれ、あれはなあ、侑士が東京で見付けて来た代物やねん!関西未発売やねん!」

せやから売ってへんねん!簡単に買えへんねん!と何故か終盤ラップ調で近付いてきやがる謙也の瞳に侮蔑めいた視線を送りつつ、こんなやつに付き合ってくれる侑士くんはひどく慈悲深いやつに思った。写真でしか見たことないけれど、眼鏡をかけた知性派の面立ちは見るからに謙也とは間逆のタイプの人間だと推測出来る。
そうなのだ、謙也には蔵とか侑士くんとかまあわたしみたいにしっかりした人がついていてやらなきゃ駄目なんだ。人間関係ってば本当巧く出来てる。こいつのこういうどうしようもないところが彼らの母性本能をくすぐるんだろうか。彼らは2人とも男だけれど。

「…蔵が借りてったんじゃん?」
「え、もうあいつは削り殺されてるゆうこと!?」
「怖い、マジで怖いあんたその表現マジ怖い」
「あいつは文字を消すために生み出されたんとちゃうねん、愛でるた」
「ストップ、蔵との間に格差が生まれすぎて哀れだから、それ以上言わないほうがいいよ?」
「どういう意味やねん、しばくぞ」

完全に後ろ向きで腰かけなおした謙也は、そのまま私の机に手をかけて項垂れる。こちらを向いて自己主張しているカナリヤ色の芝生を気ままにひっぱると、痛い痛い!と声をあげながらすぐさまかぶりをあげた。私の敷地内に侵入してきたお前が悪い、と言う持論で、悪びれずにこりと笑んだら、引っ張られた部分を撫ぜながら大きく息を吐く。いつもなら威勢良く噛みついてくるので、ちょっと拍子抜けした。あの消しゴムはそんなに大事なものだったのか、そうか。

「…まあそら白石は頭も容姿もズバ抜けてええもんな…運動神経は勿論やけど」
「え、そっち!?」
「まあカブトムシと妹にいかれてはりますけど…」

爪の先ほどでも心配した私がまるで馬鹿だった。こいつの頭の中の問題はどうやらさっきの心ない一語によってすり替わってしまったらしい。なんて単純なんだろう、恐れ入る、と拳を震わせながら、私は追い打ちの言葉をぴしゃりとくれてやる。

「眉目秀麗だと欠落した部分があればこそよりいとおしく思えるのが女心だよ、謙也」
「え、せやったら何、俺、ゴミってこと?」
「あー…ゴミだとしたら綺麗なゴミのほうだから、安心して」
「ホンマ?良かったー綺麗なゴミのほうなら良かったー…ってならへんわ!っていうか綺麗なゴミってなんやねん!」
「まー確かに謙也が卑屈になるのも判るわー蔵むっちゃ顔綺麗だもんねーあの顔好みじゃないやついるの?ってレベル」
「あら、俺の突っ込みは無視ですかさん」
「あ、ごめんちょっと蔵のこと考えてるから黙ってて」
「…ブルータス、お前もか」

死んだふりでも決め込んだつもりか、再びがっくりと肩を落としこちらに項垂れてきた謙也はほどなくしてあーとかもーとか声にならない声をあげ始めた。うるさい。ともかく鬱陶しい。しかし綺麗なカナリヤ色を見つめながら、心ともせず口元に笑みが浮かんでしまうのは何故なのか。…まあ自問したところで答えは判っているんだけれど。
さっきよりいくぶんか優しく毛先をいじくってみたら、今度は何の反抗もしてこなかった。すっかり痛んだキューティクルを指先で感じながら、猿の毛づくろいみたいだなあとかなんとか私は考えている。

「謙也はなー消しゴム馬鹿で脱色馬鹿でスピード馬鹿だもんなー…」
「馬鹿馬鹿いいなや…あ、そういえば俺の消しゴム」
「また侑士くんに買ってきてもらえばいいでしょ」
「せやってあいつはこの世にたったひとつしかそんざ」
「だからそういうのやめろってば」
「はあ……消しゴムから卒業出来れば俺も蔵に一歩近づけんのになぁ」
「や、それは絶対無理っしょ!根本が!てかまず卒業も絶対無理っしょ!」
「わあ、俺の一縷の望みセイグッバイやでホンマに」
「まあまあ、そんな消しゴム馬鹿な謙也を好きになってくれる子もいるって…多分…うん、きっと、もしかしたら」
「…せやけど、まあ好きなやつに好きって思われたいやろ、とりあえずは」

わざとらしく涙声を作り上げて物申してきた謙也に、手元が一瞬留守になる。は、なんだこいつ、そういうことか。その折、私の顔は茫然としていたかもしれないから見られていなくて本当に良かった。蔵は確かに完璧だけれど、私が謙也に伝えているよりずっと真面目に謙也のことを想っている人を私は何人か知っている、ことを、謙也は知らない。っていうか、出来れば知らないで欲しい。そうでなければ今指に馴染むこのカナリヤは別の籠に飛んでってしまうだろう。

謙也がそのまま苛立たしい嘘泣きを始めた頃、時計の針は昼休みの終わりを告げようとしていた。時を同じくして保健室での当番を終えたらしい蔵が教室の扉を潜る。蔵は私の後方の席だから、前方からそのまま私の横をすり抜けようとするだろう。そうでなくても、何食わぬ顔で声をかければいいだけのことだ。待ってました、と私の心が躍った。

「あ、蔵ぁ」

案の定、私の横をすり抜けようとした蔵を呼び止めると、目前にある謙也の頭がびくりと揺れた。さっきの今で、その単語に過剰反応しているのかもしれない、と面白くなりながら、私は鞄から六角錐のお菓子箱を取り出す。

「ん?なになにどうしたん?」
「ね、これもう残り少ないんだけど、一個食べない?」
「え、ホンマに?」
「うん、おなかいっぱいになっちゃったから、私」
「じゃあ遠慮なく」

おおきに、と緩められた顔はミスターパーフェクト。ああ、なんでこんなにかっこいいんだろう蔵は。
そして、何よりなんで私はこんなかっこいい蔵よりも、馬鹿な謙也のことが好きで好きで仕方ないんだろう。

「なんや俺にはお菓子くれるなんて一言も…」
「んぐう!?」

謙也がかぶりをあげて抗議をはじめたのと、蔵がせっかくくれてやったお菓子を吐き出したのはほぼ同時のことだった。私は悪戯が成功したことに腹を抱えて爆笑し、蔵は悶絶し、謙也は暫く目をぱちくりさせていたけれど、自分の目の前に置かれたコアラのマーチの箱を捉えてゆるゆると、状況を、悟った。

「お前、これ消しゴムやないかーーーーーーーーーー!!!!」
「お前、これ俺の消しゴムやないかーーーーーーーーーーーーー!!!!!」

蔵の掌の上に吐き出されたコアラのマーチ消しゴムは、すっかり歯型がついてかわいそうなことになっていた。まだ断続的に続く笑いの中で、これをファンに売ったらこの消しゴムが数十個買えるかもしれないよ的提案をしてみたところ漏れなく2人からチョップを食らった。痛い、けれど笑いが止まらない。

「あー忠実なフレーバーが芳醇でより気持ち悪いわ…なんてことしてくれんねん」
「ホンマや、責任取れや!俺の大事な消しゴムぅううう!!!」
「ふっ…見つかって、良かった、じゃない…はは」
「そういう問題ちゃうやろ!!!!!阿呆かお前…」

消しゴムひとつで怒り心頭している謙也の滑稽な絶叫を、いい感じにチャイムがかき消した。ホンマには、だけは!とか呟いてしぶしぶ前を向いた謙也のカナリヤ色を見つめながら、もう少しこのままでと願ってしまう私は、きっと謙也よりずっとどうしようもない馬鹿野郎なんだ。




 


20130823 カナリヤ