「………う」
「………」
「ちゃ…」
「………っふ…」


さすがにもうこれ以上は無理だ。



白旗をあげたは背中を向け、玄関先で蹲った。





Nice to meet you!




待ち合わせたそのしゅんかんから、居ても立っても居られない様子の海堂がおもしろおかしくて笑いを堪えるのが辛かった。かつてこんな海堂を見たことがあっただろうか。無論、反語である。もしかしたら自分と付き合って間もなくは似たような塩梅だったかもしれないけれど、それと比較すべき状況かと言われたらとことん怪しい。

「…かいどう」
「…はい」
「…今日、めっちゃ足早くない?」
「あ、すみません…」
「いいけど…」



どうしてこんなにかわいいんだろう、この年下の恋人は。



緩む頬を見られたらなにかしら咎められる気がするし、折角高揚している彼の心に水を差すのもアレだ。慈しみに溢れたは下唇を噛みながら、海堂のうなじあたりに視線を這わせた。






お付き合いする前から、実家にいる愛猫の話はよくしていたと思う。その度に、爛々と目を輝かせる彼を愛おしいと思っていたのだから、はそれをある種いい餌にしていたと言っても過言ではない。実際まあ世界一かわいい猫だから仕方ないよなあという所論は親バカに近いもので、そんなかわいい愛猫の写真を見せた後輩がまた無類にかわいいものだからいいことしかない。


「っハ、今なん…」
「いや、だから、来週、うちにチャタさんが来るよ?」
「……さんの家に?」
「うん、そうだって」



両親が海外旅行に行くという話で、彼女は10日ばかり実家の猫、茶太郎を預かることになった。10日とは言え、ほかのきょうだいが住んでいる家はペット禁止だから、に白羽の矢が立ったのである。



「…あいたいよね?海堂」
「あ、…ハイ」
「じゃあ週末おいで」



いつになく素直に頷いた海堂はそのままそっと目を伏せた。あからさまな喜びを見せるのが恥ずかしかったんだろう。別段、「ッシャーーーーー!」と天高く拳を突き上げても一向に構わなかったのに。…いやまて、さすがにそれはびっくりするかもしれないが。






そうしてすぐに週末は訪れ、最寄りの駅で待ち合わせたのち、今まさに目の前で茶太郎と海堂が運命的な邂逅を遂げたわけなのだが、もうそれがなんというか…えも言われぬ一触即発感で筆舌に尽くしがたい。



「………う」
「………」



状況を邪魔したくなくて海堂同様息を潜めたを、海堂越しに愛猫がちらちらと窺って来てことさらに滑稽だった。青いまなこが、「だあれこのひと」と告げている。



「ちゃ…」
「………っふ…」



軽く両手を持ち上げた状態で固まった海堂を横目に蹲った彼女はそのままくつくつと笑い出す。海堂はえっ、と声をあげて、を見遣った。わけのわからないと言った風情の海堂に、はどうにか顔を持ち上げて



「いいよ、好きに続けなさい」



とだけ辛うじて申し伝えた。








基本的におとなしい気質の茶太郎は、はじめこそ狼狽えていたものの、さして逃げる様子もなく海堂の傍に留まった。しゃがみこんで猫を撫ぜる海堂は切れ長の目の奥をキラキラさせている。幾度となくシャッターチャンスだとスマホを構えようとしたけれど、そういうとき大抵「やめてください」とぴしゃり文句するのが海堂である。そういう類の手向かいはまるで海堂のほうが猫みたいだ。実際、シャーという擬音語が後ろで聞こえる気すらする。



「…何すかさん」

「いや、何すかも何も…海堂が嬉しそうで何よりだなあと思って…」
「後ろ、なんか構えてますよね?」
「あっ、これはその、折角なのでチャタさんと海堂の出逢いを記録に残そうかと…」
「…俺が入ると邪魔なんで、このこだけ撮って下さい」
「それじゃ出逢いの記録にならないじゃん…」



会話の最中も茶太郎とのスキンシップをやめない海堂を微笑ましく思いながら撮影を一度諦めた彼女はペットボトルからコップへお茶を注いで海堂の前に置き遣った。軽く会釈した海堂はやっと茶太郎からテーブルのほうへ向き直り崩していた足を正座の形に切り替える。意識は完全に茶太郎の居る左側の床に持ってかれているであろうことは明白だ。



「…かわいいなあ」
「…はい」
「あ、いや…、……、うん、そうだね」
「?????」



コップの緑茶に口をつけながら、海堂は頭上に疑問符をたくさんこさえている。いつになく柔和な面立ちをしている気がするのがかわいいしおもしろいし、…なんだか少し小憎らしいと思いながら、もまた緑茶をちびちびと嗜んだ。きままな茶太郎はなあん、とひとつ鳴いて、テーブルを迂回し彼女の足元へすり寄ってくる。愛おしい愛猫に、一瞬でも嫉妬してしまった自分を恥ずかしく思いながら、は茶虎の毛玉をそっと引き寄せた。



「良かったね、チャタ、海堂に構って貰えて、嬉しいね」
「…………、」
「あ、海堂も抱っこしたい?抱っこ嫌いじゃないから多分大丈夫だよ」
「平気っす、力加減が…」
「平気っすよ、力加減なんて、ほい」
「あ、わ…、」



唐突に手渡された茶虎の毛玉に慌てた海堂は、たじろいでそのまま茶太郎を地面へ送り込んでしまった。(正しくは落としてしまったのだが、軽やかに着地したので事なきを得た)茶太郎はなあん、と少し不満気に鳴いて、テーブルの下でうろうろしたあと、目を細めて香箱へとなりを変える。


海堂はその一連をしゃがみこんでじっと見つめては、小さく息を落とした。



「へいきだよ、海堂、私なんて普段もっと雑に扱ってるから」
「……ッス」
「そうだ、美味しいケーキ買ってあるんだ、食べよ海堂」





チーズケーキに舌鼓を打ってのち、映画を見たり茶太郎に構ったり他愛もない会話をポツポツとしていたらあっという間に黄昏時が迫っている。とてつもなく重い腰を持ち上げて皿とコップを洗いに行った彼女が戻ってくると、海堂の首がこくり、こくりと船をこいでいた。



「珍し…」



かすかな声で呟いて、抜き足差し足で忍び寄ると、



「…………ふっ…、ふふふ」



斜になってソファでまどろんでいる海堂の胸元に、茶太郎が鎮座して同じくすうすう寝息を立てている。口元を必死で抑えたは、傍においてあったスマートフォンをそっと手にとった。そしてタップするアイコンは言うまでもなくカメラ機能である。



(これじゃどっちが猫かわからないや)



シャッター音で眉を顰めつつ、起きなかったことに心底ほっとした。LINEの背景か、はたまた待ち受けか。なにしろ、元気がないときに見るのには最適の写真であることは間違いない。海堂に見せたら怒るだろうか。いや、もしかしたら少ない可能性で「俺にも下さい」って言うかもしれない。



窓の外は黄昏を超えて紫。きっと、海堂が起きる頃にはもう真っ暗だ。



もういいじゃん、泊まってけば?

と提案したら、憮然とした顔で、首を縦に振ってくれるだろうか。



「…おやすみ、海堂」



うまくいったら夜はもう少し、私のほうに構って貰うことにしよう、とはそっと海堂の頬に唇を落とす。茶太郎には少し、申し訳ないけれど。


 


2020625Nice to meet you!<