――二人は、そうして樫の木の下で出会ったのです。
・・・なんて言うと、まるでおとぎ話の一節みたいだけど、私たちに至ってはそれが事実だから仕方ない。書き加えておくと、私は読んでいた本の続きが気になってサボりにやってきただけだったし、慈郎先輩はぐっすり眠る場所を探してふらふら彷徨って辿り着いただけだから、集った理由は果敢無くもロマンティックとはほど遠くかけ離れているのであった。しかし、見かける大抵の時間を眠って過ごしている彼は、眠り姫ならぬ眠りの王子様と言って過言ではなく、どうやら影で本当にそんな二つ名をつけられているようだから恐ろしい。しかし、まぁ、天使と言うのはこの世に居ないものだから例えようもないけれど、確かに彼の寝顔は常人のそれより美しいとは思う。お世辞抜きで。
・・・とかなんとか考えながら、慈郎先輩の寝顔を真横から覗き込んでいると、不意にぱちりと瞼が開いたから驚いた。意図せず強張る肩。少しだけ気まずい。
「ちゃん、おはよ」
「あ、ぉはよう、ございます」
「ちか!ちゅーでもする気だった?」
「な、何言ってんですか!?」
「いや、されたことあるからさー、実際」
慌てて身を引いた私に、慈郎先輩は無邪気な爆弾を落としてくるから、言葉に詰まる。確かに、中学のころから氷帝テニス部レギュラーの座を守り続けているブランド商品の彼が、無防備に眠っていたら唇を奪おうと考えるだけでは飽き足らず、実行に移そうとする輩もいるかもしれない。っていうか、本人が自覚している範囲の外で、まだ数件実行犯がいてもおかしくないと私は思う。
「私は、しませんよ」
「うん、知ってるよ」
あくび混じりにさらっと言ってのける慈郎先輩はずるい。踊らされたのに気づいた私は、むくれた表情を貼り付けて、これみよがしに眼鏡を装着する。そして、大げさに文庫本のページを開く。
「ほんのむし、だねえ」
「違いますよ、数Aの授業がこの先の人生に無関係なだけです」
「言い訳、だねえ」
どこからかがさごそとブルボンブランドのお菓子を取り出した慈郎先輩は(小分け袋タイプのものだったから、ポケットにわんさか入っていたのかもしれない)無言でむしゃむしゃとそれらを頬張り始める。這わせた文脈の代わりに、自由人というフレーズが頭を過り、たぶんそれはこの人のために作られた言葉だなあと思った。栄養補給も行ったし、これからもう一眠りするか、それでなければテンション高めに私に構い始めるか、そのどちらかだ。そのどちらでもいいと私は思って、本のページに指を這わせた。
死角を見つけるのは巧いほうだと思う。サボり百戦錬磨の慈郎先輩もきっとそうだ。はじめはただ自分が見つけたサボりスポットにたまたま慈郎先輩が眠っていたりだとか、逆もまた然りだったりとかの連続で、なんとなく顔見知りになって、それなりに仲良くなっただけだったけれど、今は慈郎先輩が居る場所を探すのが日課になりつつある。見つからない折はいささか気を揉む。でも、大抵後から慈郎先輩が何食わぬ顔でやってきて、ここにいたんだ、さがしたよ、とか、さっきと同じ類の冗談をかまして隣に寝そべって来たりして、それが純粋にからかっているだけだと判っていても私の頬は抑えるのに苦労するほど緩んでしまうのだ。
「も一口食べる?」
「単位、間違ってません?」
「だってこれひとつしかないんだもん、俺も食べたいC!」
「じゃあ食べていいですよ」
「もー!せっかく優しくしてるのに、連れないな、ちゃんは」
不服気にお菓子の小袋を開けた慈郎先輩は、チョコレートののっかったクッキー菓子を大きな口で頬張った。そういう無邪気な提案とか、ころころ変えてくる呼び方に、翻弄されて止まないこと、慈郎先輩はきっと知らないだろう。それって間接キスじゃん、とか、考えている自分がとてもおこがましく馬鹿みたいで消えてしまいたくなる。
「あー、おいしーおいC!」
当て付けめいた瞳を寄越してくるけれど、取り立ててお菓子自体に執着のなかった私は、良かったですね、と微笑みのみ送って見せた。尖らせた口が可愛くて仕方ないから、見ていたくなくて、また文字に視線を落とす。別に、本が友達とかそういう訳ではないけれど、さほど人付き合いも上手というわけではないつまらない私に、なぜ慈郎先輩が構ってくれるのかは判らない。慈郎先輩はずっと眠っているけれど、起きればとびきり明るくて、ムードメーカー的気質を持ち合わせているし、誰にでも好かれてしまいそうだ。俗に言う憎めないやつと言うのは、慈郎先輩みたいな人のことを言うんだと思う。だったら別に私と居ることに時間を割かなくても、もっと有意義に、起きている時間を活用する方法はあるはずなのだ。嬉しい反面、卑屈さが頭をもたげて仕方ない。これが多分恋ってやつだ。恥ずかしいけれど、痛感せざるを得ない。
「べつにさー」
不満気なままの瞳を、伸ばした足の先に預けて、慈郎先輩はこともなげに口を開く。それは驚くほどの突飛さで、私の頭の内側を露骨に黒から白へと反転させた。
「ちゃんにならちゅーされたってよかったのに」
視線が、
言葉の終わりにこちらに、ふと突き刺さったのを覚えて、私は文節から目を逸らすことが出来なくなった。指先が固まる。瞼は壊れたように瞬きを繰り返している。天真爛漫も、ここまで来ると毒だ。猛毒だ。唇は多分何かを紡がなければならないのに、巧い言葉は私の頭のどこをどう探しても見つからない。
「ちゃん?」
「・・・・・・また、慈郎先輩ってば、そーゆーの、やめてください」
どうにか舌に乗せたのはありきたり過ぎる台詞で、しかも途切れ途切れで、救いがたかった。視線が痛くて、故障した瞼をクローズさせる。
ちゃんになら、なんて、そんなこと言われたらまるで自分が選ばれた特別なひとみたいだと勘違いしてしまいそうになるじゃないか。
はやくいつもみたいに他愛もない会話にシフトチェンジして欲しい。テニス部の馬鹿みたいな話とか、新作コンビニ菓子の話とか、家族と喧嘩した話とか・・・、誰に話しても差し支えのない、とりとめもない話題で、自分の頬を叩いて欲しい。しかし、悔しいけれど、慈郎先輩のように自然と話題を変換させる夢みたいな能力を私は持ち合わせてなくて、だから、嵐が過ぎ去るのを待つが如く、高鳴る胸を抑えて俯くしかない。俯くしかない。俯くしか・・・
「なんで、意味、わかんなかった?」
もう聞こえてしまってもおかしくないだろうと言うくらい、心臓が大きく唸って、私の思考はいよいよままならなくなった。判るとか判らない以前に、頭が考えることを放棄してしまっている。いよいよ短絡、と言って間違いない。
「じゃあ、言い方をちょっと変えようかな」
閉ざされた私の瞳をすぐさま肯定と取ったのか、慈郎先輩が言葉を容易く継ぐのに、そう時間はかからなかった。
「ねぇ、、キスしてもいい?」
響いた声色は、いつもの慈郎先輩のものとは色味が違って、私は思わず目を見張った。絶大な一語は、後頭部をがつんと、強く殴られるのと同様の効力くらいは持ち合わせていて、(さっきからそうであったに違いはないけれど)私はしばらく何をどうすることも出来なかった。自惚れるだけの要素は目の前に散りばめられている。しかしそれらを方程式に全部導入して回答を算出しようとすればするほど、巧く行かない。そもそも私は数学が苦手なのだ、とか、きっと今は関係ないけれど、でも。
頭の中身がみるみる混線していくのと同時に、熱が顔に集中して行くのを覚えた。そんなとき、慈郎先輩の顔を見とめてしまったから、余計に拍車がかかる。薄く笑む、相変わらずに綺麗な面立ち。
(このひとは、いま、なにを、いったんだ!?)
ブックマークなど気にも留めずに文庫本を閉ざした私は、思わずその長方形に顔を押さえつけた。
「もう、何も言わないんなら無理矢理するよ?」
「ぎゃー、やめてやめて!慈郎先輩のばか!」
「あーそんなんしたら眼鏡の跡ついちゃう・・・」
ぬらりと小さな影が覆いかぶさるようにやってきて、私は多分悲鳴をあげたと思う。文庫本を払いのけて、私の眼鏡を取り上げた慈郎先輩は、ほら、いわんこっちゃない、とかすかに零した。確かに、鼻あての部分がじんじんと鈍く痛い。でも、それよりも、近すぎる距離と言動のほうがずっと気にかかる。余りに傍にある瞳は覗けないから、慈郎先輩の制服のズボンあたりを見つめ続けた。言葉と裏腹、優しい指先が私の左手首をつかむ。けして、それ以上はしようとしない。時間が止まった、と思ったのは私だけで、丁度学園のチャイムが高らかに、鳴り響いた。
「そ、ゆうのは、すきな人に言って下さい!」
強めの口調だったけれど、振り払うことは出来ずに、決定打を食らわせてしまった私の涙腺は意図せず緩んだ。溜息、繋がれた左手首の付近に吹きかけられて、切なくなる。ああ、もうきっとお仕舞いだとなんとなく思った。ここまでわきあいあいと築いてきた私と慈郎先輩の関係よ、さようなら、明日からはひとりで本を読みます、と心で呟いたのと、慈郎先輩が左手に力を篭めたのは、ほとんど同時の出来事だった。私は半身のバランスを崩して、慈郎先輩の半身に雪崩れ込む。抱きすくめられる直前に見た慈郎先輩の瞳は、かつてないほど複雑な色をしていた、ような気がした。
「なんでだよー!俺、ちゃんとちゃんのこと好きだC!こんだけアピってんだからわかるっしょー!」
「ふぁわ!」
「ちゃんだってそうでしょ、俺知ってるんだからね、さっきだって、ずっと俺のこと見てたじゃん!」
「お、起きてたんですか!?」
「うー、ちゃんあったかE―!」
「話を逸らすなーーーーー!!!!」
授業を終えた人々の喧騒がざわざわと近づいてきたから、私はひどく慌てていたけれど、慈郎先輩はどこ吹く風だったから、引き剥がすのは一苦労だった。次の授業は現文で、私の好きな太宰の真っ只中だからサボるわけには行かない。だからこの度の議題は次回に持ち越すしかない。慈郎先輩は納得いかない様子だったけれど、私は名残惜しさよりも気恥ずかしさが圧勝しているから、これでいいんだ。
「―――――っ!」
駆け出した私の背中を、慈郎先輩の声が叩く。ぐちゃぐちゃのかんばせで戻ってきた私を見て、クラスメイトはぎょっとするだろうか。どちらにせよ、とても王子様との恋が実ったヒロインの顔には見えないということくらいは判る。
とりあえず、次に逢ったら、どこまで読んだかわからなくなったと文庫本を突き出してやろうと思った。きっと抗議は寝ぼけまなこで有耶無耶になること請け合いだけれど、そんなとりとめもないやりとりが、いとしくてしょうがない私は、たいがい重症だ。
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