私は、貞治にずっと嫉妬していた。
朝焼けがまだ残留する街で、蓮二がはかなく零した一言を、私は二度と、忘れないだろう。
「…」
「……なあに?」
「貞治を、よろしくな」
よろしくって、どういうこと、と聞きたくて、聞けなくて、瀬戸際の私はただ頷く他術を持たなかった。涙が止まらない。
ユグドラシルの
瞳たち
金網が指の腹に食い込む勢いでその試合に魅入った。結果は、貞治の勝利だった。嬉しかった。青学のジャージを身に纏う私は少なくとも純粋にそう思うべきだった。少しだけ澱が残った心は仮初め。平生が生業となっている彼の見せた胸懐の色がまぶたに焼き付いて離れないのは、失態。あの直後のいとまに、少しでも、蓮二と言葉を交わせば良かったのかもしれない。躊躇った所為で、懐中は乱れている。青学の勝利が決まり、一瞬だけ交わった瞳はやけに清清しかった。そうやって、何もかもひとりで解決してしまうのは蓮二の凄いところであるかもしれないけれど、狡猾な部分でもあると私は強く思うのだった。
「あ」
「…やあ」
なんとなく晴れない心を抱えつつ下駄箱から靴を取り出し放り投げたら、丁度昇降口にやって来た貞治とかちあった。今日は部活も休みだから、早々帰るのだろう。そしてきっと家でもまたみっちりテニスのことを頭に敷き詰めるに違いない。
「真っ直ぐ帰るの?」
「ああ、はどうなんだい?」
「私も…、関東終わったら気が抜けちゃって、今日は家でゆっくりするの」
「そうか…、お疲れ様」
私より貞治のほうが疲れているし頑張っているであろうことは火を見るより明らかだけど追求するのは無粋だからありがとうと呟いてみる。方向が一緒だから、こういうときはお互いの許可を待たずなんとなくぼんやり並んで帰るのが常だ。こういうとき私よりずっと身長の高い貞治が、ただでさえのろまな私に歩幅を合わせてくれるのは、少し嬉しい。
「…あれから、連絡した?」
「ん?誰にかな?」
「判って言ってるでしょ、貞治」
「念の為、だよ、決め付けるのは不躾だと怒るからね、君は」
「こういうときばっか、そんな風に言う!」
「はは、すまないな…性分でね、…蓮二のことだろう」
私はむくれながら頷いた。貞治はさほどの決まり悪さも見せず、眼鏡のブリッジを押さえるいつもの仕草をする。そしてゆっくりと首を横に振った。
「…そっか」
「別に、君が何かを背負うことじゃない」
「…そんなの」
「判っているとは思う…けど、君はときどき許容を超えた無理をするからね」
見ていられないんだよ、傍に居る身としては。そう付け加えて、多分貞治は、眼鏡の奥の瞳を緩めた。
「…これも判っているとは思うが…、あれで俺は…、俺達は区切りとけじめをつけたんだよ」
「………知ってる」
「………だから別に、これ以上とかこれ以下とか、そういうのはないんだ」
きっと貞治は、瞳を交えた折の蓮二と同じ心地で胸を満たしているに違いない。私は、あのときからずっと置いてけぼりだ。
「ただ……、まあ、お互い本当の荷を肩から下ろしたら」
「……うん」
「また、話せればいいとは思っているよ…、あの頃みたいに、とは行かないけれどね」
「……うん」
「だから、別に君が今を頑張って取り繕うことはないよ」
ありがとう。
いつくしみを持って告げられた謝礼と共に貞治の大きな手のひらが降ってくる。いつからだろう。いつのまに貞治はこんなに大きくなって、私を見下ろすようになったのか。いつのまに、特有の慈しみと強さを手にいれたのか。いつのまに、私の内側の嫉妬心は姿を変えたのか。いつのまに、貞治は、私にとって。
「ねえ貞治」
「…何かな」
「私ね…、実はずっと」
貞治のことだ、ここまで言えば多分私が次に舌に乗せる言葉なんてお見通しだったに違いない。それでもこういうとき、先回りせず待っていてくれる貞治は本当に優しい人だ。厚ぼったい眼鏡の奥で、貞治がどんな瞳の色を滲ませているのか、今はただそれが気に掛かる。
「ずっと、蓮二のことが好きだったんだ」
冬の空は遠く、夕暮れは少々時雨れて、紫の雲を纏っている。これは、多分私の心の内側そのものだ、と変なことを考えながら、私はつま先に視線を落とした。少しの沈黙が痛い。それから、標準通り穏やかな、貞治の声色。
「――――蓮二も」
不意に
貞治の唇から蓮二の名前が飛び出したから身体が反射でびくりと揺れる。恐る恐る顔を持ち上げると、私の瞳を確認した乾は一瞬罰が悪そうな顔で口篭った。
「…なに」
「ああ、すまない」
「言って?」
「……蓮二も、きっとのことが好きだったんじゃないかな」
思いも寄らない一語に閉ざされた唇とは相反して瞳孔は驚きに見開かれていたと思う。え、あ、と声にならない声で啼いた私は、狼狽を顔に張り付かせながら白黒させた瞳で貞治をじっと見詰めた。
「な、…え、なんでそんなこと判るの?」
「試合の後、おかしなことを零していったんだよ…一言だけね」
「…おかしなこと?」
いちいち焦れるように言うから気を揉んだけれど、珍しく貞治が言葉を模索しているように思えたから大目に見てやった。
「『をよろしく頼む』って」
あの日の早朝、母伝いに蓮二の引越しの件を聞いた。母は失言したという様子だった。もしかしたら、口止めされていたのかもしれない。寂しがるから、後ろ髪を引かれるから、内緒で、とでも言われたのだろう。母を問い詰めた私は、今にでも蓮二がいなくなってしまうかもしれないことを知り、走った。その頃、蓮二は徒歩10分界隈の場所に住んでいたから、走ればものの5分で辿り着くことが出来る。全力疾走した甲斐あって、すんでで蓮二が去るしゅんかんに立ち会うことの出来た私は、ありふれた、ありきたりな切り込みを蓮二にぶつけた。もうテニススクールには来ないのか。同じ中学に行く話はどうなったのか。なぜ一言も告げてくれなかったのか、と。困惑する蓮二を思うより、自分の気持ちが先決だった。幼い私は蓮二が好きだった。大好きだった。離れたくなかった。
「ごめんね、」
「蓮二の嘘吐き…蓮二の…」
「ごめんね…、でも、仕方ないんだ…僕だって、寂しいよ」
顰められた眉。痛ましい表情。止めることなんて出来ないのは判っていたけれど、歯痒くて唇を噛む。
「貞治は…」
「………貞治…」
「貞治も、知らないんでしょ?」
蓮二はゆっくりと、でも、しっかりと頷く。私はもとより、貞治に伝えない残酷さを、幼心から感じ取って胸が痛かった。貞治は、もう蓮二が来ることのないテニスコートを見詰めて、何を思うのか。胸が詰まった私は、ぼろりと大粒の涙を零す。しゃくりあげた私の肩を叩いて、蓮二はかすれた声で呟く。
「…」
「……なあに?」
「貞治を、よろしくな」
薄く開いた瞳は、伏せられていてあまりちゃんとは確認出来なかったけれど、えも言われぬ寂寥の色をしていたように思う。パンクしそうな頭で私が頷いてすぐに、向こうから、蓮二を呼ぶ声が響く。行かなきゃ、と蓮二は誰にでもなく囁いて、私の前髪を、軽く撫ぜた。
「来てくれて、ありがとう」
いつもの帰り道みたく手を振った蓮二が、さよならを告げなかったのは精一杯の強がりだったのかもしれない。貞治のことを気にかけて見せて、本当に一番、誰よりも淋しかったのは蓮二だったはずだ。貞治には私が居ると仮定して、蓮二は?ひとりきり別の街で暮らし始める蓮二には誰が居たと言うのだろう。
考えれば容易いことだったのに、行きつくのには時間がかかった。私はまだ幼くて、蓮二と離れる淋しさと、蓮二が貞治のことだけを気にかけている口惜しさばかりが胸に募った。微笑ってくれたのに、蓮二は、ありがとうと言ってくれたのに。前髪を撫ぜる指先は、優しかったのに、あんなにも。
淋しさの矛先を身勝手に貞治に向けた私は、蓮二の言葉通りとは行かないまでも貞治に添いつつ、内心で嫉妬していた。あのとき、蓮二の後ろ髪を引いて止まなかったのは貞治だったのだろうと。何故私ではなかったのか、と。いつか嫉妬心が消えうせ、凪いだ心の内側でも、きっと蓮二にとって貞治は特別で、自分の入り込む余地などないと思い込んでいた。極めて違いないと信じて疑わなかった。それなのに。
「……なにそれ」
「…湾曲させるべくもないだろう、そのまんまの意味さ」
「勝手だな、蓮二は…いつも」
「…つくづく俺も、そう思うよ」
貞治の柔らかな声色が、憎らしくて、嬉しくて、私は俯いた。心ならず肩が震えるのは致し方ないことだ。さらにゆったりと歩みを起こす私に、貞治は忠実だったから、余計に泣けてくる。
蓮二はもしかしたら、知っていたのだろうか。誰よりも私が淋しがり屋で、空虚な部分を埋めるのが下手クソだということを、あの時分から、すでに。だから貞治に指を伸ばせ、と言ったのだろうか。どんな感情でもいいから、私の心の隙間を埋め合わせる口実を細工するために。私が、俯いて行き場所を見失ってしまわないように、と。
「蓮二のバカ…」
いよいよ歩くのを放棄した私は、近くの電信柱に寄りかかるようにして涙を零した。貞治は、困惑しているだろうか。
「…」
伏し目の視界に、貞治の制服の裾が揺れた。私はすがりつきたい気持ちをぐっと堪えて、せめてその裾を引き寄せる。貞治の手が伸びて、私の肩を優しくぽんぽんと叩いた。あの時の蓮二と同じだと思った。貞治の瞳は、まさかあの折のような寂寥を纏ってはいないだろうか。ただ、今の貞治はあのしゅんかんの蓮二とは違う。手を伸ばせば、繋ぎとめられるかもしれない。それは蓮二以上に身勝手な、想いの丈ではあるけれど、それでも。
「…さだはる」
「うん?」
「私ね、ずっと貞治が妬ましかった」
「…どうしてだい?」
涙のせいでままならなくなった息を整えるため、大きく深呼吸する。肩に落ち着いた貞治の暖かい右腕のぬくもりが胸に馴染んで痛い。
「テニスもうまくて、器用で、頭もよくて…、蓮二に、認められてて」
「…買い被りすぎだよ…、とりわけ、最後のひとつはね」
涙がローファーに落ちて弾けるのを見詰めながら、私はゆっくりと首を振った。貞治が小さく息を吐く音がする。
蓮二と離れてから、ずっと貞治を見詰めていた。テニススクールを卒業してのち、マネージャーとして青学テニス部に入った私は、貞治がどれだけ努力して来たかを誰よりも知っている。不器用だけど、人並以上の慈しみを持っていることも、生きるのに不自由になるほどの真っ直ぐさを兼ね備えていることも。それらに殆ど一番近い場所で触れてきた私から、紫色の感情が消えるのに大した時間は必要なかった。癒されたと言っても過言ではない所業に、私は心底感謝している。あの日、蓮二が来ないことを知った貞治に、私は、なにひとつとして上手な言葉を浮かべられなかったのに。
蓮二が肩を押し、その先に貞治がいてくれたから、私は、今ここまで淀みなく歩いて来られた。
恐る恐る顔を持ち上げると、そこには穏やかな貞治のかんばせが控えていて、単純なまでに凪いだ心とうらはらに涙を煽る。ああ、わたしはここにいたい、と今は心底、そう思えた。
「貞治」
「なんだい?」
「こんな私だけど…、一緒に居たいって思ってもいいかな」
眼鏡の奥の瞳がぱっと見開かれた気がした。その意味を咀嚼するいとま、ほんのわずかに眉間がぴくりと動く。
「……」
声のトーンはえも言われぬ色を孕んでいて、それだけではとても貞治が何を考えているのか判らなかった。思わず咽喉をついたごめんの三文字を受けて、少し長い私の前髪にそっと触れた貞治は、眼下に露呈した双眸を捉えてのち、いつもの穏やかな声色を咽喉に送り出す。
「謝ることはないよ…、俺も、同じことを考えていたからね」
そうして、貞治は残留する私の涙を柔らかく拭った。そんなの意味がなくなるほど、私の瞳は改めて涙を送り出したけど、貞治は少し困ったように笑んで、傍らで私の御髪を撫ぜてくれる。ああ、私は二人に、取り残されてなんてなかったんだ。そう心で呟いたら、ことさらに泣けて仕様がない。
あんなに不穏な色味を纏っていた空が今はいやに澄んでいる。西日が雲の隙間から差し込めて、まだ夏の盛りだと強く主張した。泣きはらした瞳に橙色が痛い。
「夏が終わったら…」
「……うん?」
少しだけ口篭り、眼鏡を抑えた貞治を覗き込むと、齎される、柔らかな笑み。
「一緒に…、蓮二に会いに行こうか」
落ち着いた声は、どこか夢の中みたいに鼓膜に封じ込められる。うん、ちょうど、わたしもそんなことを思っていたんだ。
貞治。
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