左から二番目、前から三番目。わかりきっている座標を辿って、椅子を後ろに引く。誰もいない教室に、きい、とぎこちない音が響いた。誰かさんは、愛しい人の名を呼んでテンション高めに現れるだろう。ここに取り残されているのが、よもや、まさか自分だと、きっと露も考えてないに違いない。





われらがクピドはあなどれない





揶揄されるのがいやで誰にも口を割らなかった。ただのひとりを除いて。しかし、そのただひとりですら、『何がいいのか、少しもわからんのやけど』と言ってのけた。さすがに絶句してしまったに、小春はふっと微笑う。

「冗談やって、そないな顔しなや」
「や、私の知らへん裏表があるんかな思てしもたやん…、ゾッとするからやめて」
「言うて、アンタもチャレンジャーやで、渡せへんって突っぱねると思わんかったの」
「せやって、小春優しいもん…今日からアタイとアンタはライバルや、くらいは言われる思たけど」
「あら嬉し、でも悪いわねえ、好敵手にはなれへんわ…」

小春は頬に手をあてて、しなやかに答える。が首を傾げると、ぽつりと言葉を継いだ。

「そもそもの土俵が違うからなあ」

つまるところどういうことか、と言えばそのまんまの意味やと肩を叩かれる。自分の見立ては間違いなかったと胸を撫で下ろして、はふと笑みを零した。これほど心強い協力者が他に居ようか。

「まあ、感付いてはおったけどなあ」
「え……、そ、ウソ、そんなあからさまやった?」
「ウフ、アタイの洞察力舐めたらアカンで」
「………適わんわ」
「な?好敵手なんてまっぴらごめんやろ?」

小春に指摘された通り、何がいいのか少しもわからんのが実情で生きてきたはずなのに、いつの間にか、憎まれ口叩き合える仲の良いクラスメイトだった一氏が心のほとんど全てを席巻している状態なのだからおかしな話としか言いようがない。ただひとつ言えることがあるとするならば、たまたま昇降口で落ち合い、帰ることになった夕暮れの通学路で、言い得て妙な居心地の良さを感じてしまったのが全ての始まりではあったと思う。人気者である一氏は、見目も決して拙いほうとは言えないから、きっと普通にしていたら他の女子生徒が放っておかなかったに違いないけれど、言うまでもなく小春があまたありえたであろう恋慕のストッパーになっていることは確かで、はそれがありがたくもあり、それ以上に酷くもどかしくもあった。そもそも『女に興味ない』という生粋の人間であったとするならば、もう当たる前から砕ける宿命である。…笑えない。

「でもホンマ、一氏のどこが好きなん?」
「……わからん、小春、分析してや」
「ま、そないなもんは理屈とちゃうわな」
「え、なんでそないに達観してん、こわ」



そんなことから始まって少しの時間が経って、今は小春の代わりに教室で一人、一氏を待っている。今頃きっと小春が、『委員会終わるまで教室で待っている』と一氏にメッセージを送っている頃だろう。心臓がもはやズキズキと痛むほど高鳴って、は夕刻に延びる影を瞳に入れながら、大きく息を吸った。引いた一氏の椅子にそっと腰を下ろし、ふと見た机上には、時折思いついたネタのようなものがお世辞にも綺麗とは言い難い文字で殴り書きされている。は指の腹でそれをなぞりながら、いつも盗み見る横顔を胸に浮かべた。いくら考えてもどこが好きか具体的になんてわからない。あえて言うならば、きっと、教室で盛大にすっころんだとき『どこまでも阿呆やなあ』なんて呆れつつ手を伸べてくれる優しさとか、友達と喧嘩してあからさまに落ち込んでいるときに、肩を叩かれて繰り出される新しい一発ギャグとか、『お前に任せてたら授業始まらへんわ』とかのたまいながら、プロジェクター用のスクリーンをひょいと取り上げて運んでくれる逞しさとか、そういう至ってありふれた日常にちりばめられたものが積もり積もって、今この胸にぎゅうと凝縮されているに違いない。胸がいっぱいという言葉を痛く感じつつ、は来る刻を想って息を吐く。時計の針がカチカチとせっついて、一氏の袖を引いている。

(好きだなあ)

月並みなことを強く考えながら目を伏せたしゅんかん、遠い足音が鼓膜を叩いたからはっと後ろへ返る。廊下を辿るその足は、確かにこちらに向かっている。

「一氏……、」

思わず零れただけの名前が、拍子に顔を出したその人の所為で、呼びかけるような形になってしまったのは失態である。「おん」と短く返答した一氏は、既に開け放たれていた後方の扉からゆっくりと教室へ足を踏み入れた。

「お疲れ…」
「お前、そこ俺の席やろがい」
「…ええやん、減るもんでもないやろ」

違和感があった。言うまでもない違和感である。小春がここにいると踏んでいたなら、間違いなく一氏は陽気に教室に入ってきたと思う。そうでなかったとしたら、自分を見止めて非難のひとつも口にするはずだ。狼狽えている間にも、一氏はおもむろに距離を詰めてくる。いつの間に、心臓は早鐘で、余計にの思慮を奪う。有耶無耶になる思考の中で、はひとつ、まさか、と啼いた。

「で、何?」
「……何…、て?」
「お前が待っとるから行けって、小春からの命令で来たんやけど」
「な……、やっぱり………!」
「やっぱりって何やねん、てか、わざわざ小春使う意味がマジでわからん、直接言うてこいよ」

(それが出来てたら苦労せえへんわ)

ぎり、と歯を鳴らして、目前に迫った一氏を睨む。逆光の所為であまり表情は読み取れないけれど、『釈然としない』という風情であることに違いない。それにしても、小春は何故自分を軽く謀ったのか。『呼び出すなんて大それたことして、身構えて来て貰えなかったら死ぬしかない』と告げた私に、『だったら自分をダシに誘ってみればいい』と提案したのは小春のほうだったのに。

「一氏にはわからへんわ」
「は、何がいな」
「呼びつけるにも勇気がいるねん、一氏の思う5000倍以上」
「いや、結果何倍やねんそれ」
「今はどうでもいいことあげつらわんといて!」
「……てか、涙目やん、自分、どうしたん」

伸ばされた指にぎょっとして、思わずそれを払ってしまったのはとんだ失態だった。棒に振られたてのひらを、戻す場所にあぐねた一氏は、そのまま自らの御髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。暫く、鋭い沈黙が二人の間を割いて、やがてそれをひとつの溜息と、謝罪が打ち消した。

「…ごめん」
「…自分から呼び付けといてこの仕打ちはないやろ、ホンマ、ありえん」

肩を竦めた一氏の口調は怒っているというよりおどけているといったほうが正しく、なんだか余計に泣きそうになる。言葉と一緒に嗚咽が溢れるのだけはまっぴらなので、は口を真一文字に結んで、涙の気配が過ぎるのを待った。その顔がおかしかったのか、一氏はふっと吹き出して、今度こそはとその手を伸べた。親指のつけねあたりでこんと頭を小突かれて、の半身が小さく揺れる。

「なんんって顔してんねん、シリアスな局面とちゃうんか」
「……………だって」
「だっても糞もあるか、はよ顔戻せ」
「戻せるもんなら戻しとるわ、阿呆」
「でえ?なんやねん、本題は」
「……………えっと」

一人の男子生徒を、一人の女子生徒が呼び出す、という御誂え向きとしか言えないシチュエーションを、現状、一氏はどう飲み下しているのだろう。いくら小春一筋で生きている一氏とは言え、どういうことかわかっているはずだ。わかっていたから、あんな神妙な顔で、教室にやってきたはずだ。

「……なあ、一氏」
「おん」
「……なんで、来てくれたん」
「言うたやろ、小春に命令されてんて」
「せやけど」

いくらでも局面から逃れる術はあったはずだ。とが言葉を詰まらせた刹那、進展のない空気に耐えかねた一氏がやにわにポケットからスマートフォンを取り出して、教室に響くほどの大声を上げた。

「あーーーーーー、もう、まどろっこいねん!お前ーーーーーー」
「ひっ、一氏!?」
「これで満足か!!!!!?????」

机に片手をついて、座る自分に覆いかぶさるように、一氏はスマートフォンを眼前につきつける。まず、一氏の赤くなっている耳にピントがあって、それから、瞳孔がゆっくり液晶にフォーカスされる。




『ユウくんの大事な女の子が、教室で待っとるで、はよ行きや』




ほんの短いメッセージを、処理するのには少しのいとまが必要だった。えっ、とか、あっ、とかいう短い言葉を稼働音のように喚きながら、は眼を白黒させる。それからおもむろにスマートフォンをポケットに戻して、一氏は大きなため息をついた。ほんの数センチの距離に迫る顔は、先刻まで平生を装っていたのが嘘みたくわやくちゃになっている。

「え、ええ、え、ひとう…!?」
「こない言われて、逃げるかボケナス」
「う、うん…ごめ…、あの」
「謝る暇があるんやったらさっさと本題、本題寄越せ言うてんねん」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」

がなりたてる一氏の声を耳に入れながら、今度は違う意味で泣きそうだ、とは壊れてしまいそうな心臓を抑える。そうして、一氏を押しのけるようにやおら立ち上がると、大きな深呼吸をしてのち、いとしいそのかんばせを見上げて、息を継いだ。





「あのね、私、一氏のことが」






二人の影が長く伸びて、誰もいない教室のしじまにそっと、やわらかく揺らめいている。

 


2020725われらがクピドはあなどれない