「ね…、覚えてる?」
ラムネ瓶へのくちづけをやめて、はそっと、瞳を寄越す。
【ビー玉望遠鏡(スコープ)】
茹だる夏の気配がもうすぐそこまで、じりじりと迫っている。けたたましい蝉の音に首を振って、額の汗を拭った。縁側は風が通るからまだ程度が良いけれど、定めて道場の界隈は人の熱気も相まって悲惨なことになっているだろう。
「母さん」
声を拍子に、濡れ縁で洗濯物を纏めていた母が日吉のほうへ返る。あら、と声を零した母に、日吉は告げる言葉を心に留めながら軽く深呼吸した。
「おかえり、若、どうしたの、神妙な顔して」
「ただいま…母さん…、夏用の街着、どこに仕舞ってる?」
下校中の車内、下車駅まで残り二駅というところで、不意にスマホが震える。液晶を覗くと、そこには幼馴染からのメッセージが踊っていた。
『わかし、もう帰ってる?』
『まだ帰宅中だ』
『じゃあもうすぐ帰るよね』
『当然だろ』
『あのさ、今日花火あるじゃん』
『ああ、道理で電車が混んでいるわけだ』
『知らなかったのかよ』
『生憎、そんなものに心を割いてる余裕はないんでね』
『やな感じ!』
『で、それがなんだよ』
『ここまで来たら誘ってるって悟れよばかし!』
『断る』
『わかった、じゃあ長太郎と二人で行ってくるわ』
『なんだ、鳳にも声かけたのか?』
『もち、浴衣集合って言ったら快諾だよ、やっぱ長太郎は違うよね』
それは、わかりやすく発破をかけた一文だった。それなのにも関わらず、返信を打ち込む指が震えたのは失態である。
『何時に何処だよ』
(馬鹿だ)
下駄をからからと鳴らしながら、日吉は深く、それはもう深く嘆息した。が画面を隔てて向こう側で「おっしゃ」とガッツポーズを決め込んだのがまるで目の当たりにしたかのように鮮明に脳裏に浮かぶ。だからといって、自分が行かなければは鳳と二人花火を眺めることになり、所謂それは、と先へ進むと思考は停止するけれど、なにはともあれゆゆしきことだと分類されてしまったのだから仕様がない。まあ、こんななりで参加するのは完全に乗せられたと言わざるを得ないけれど。
「あ、わかし、いた」
聞きなれた声にはた、と顔をあげれば、待ち合わせ場所に指定された神社の鳥居は目前に迫っている。悶々と考えているうちに到着していたのか、と声の来し方に目を配ると、鳥居の脇で大きくこちらに手を振るの浴衣姿が目に飛び込んで来た。紺に麻の葉模様。生地は偉く古典的だが、鮮やかな水色の兵児帯にはぴかぴかと光る飴玉みたいな飾り玉が踊っていて賑やかしい。白い鼻緒を引いてからころとこちらに来るの、簪の花がゆらゆら揺れのを日吉はどこかぼんやり眺めている。
「えらいじゃん、ちゃんと着て来たんだ」
「お前が浴衣集合とかふざけたこと言うからだろ」
「それにのったわかしもふざけてることにならない?」
「なんでそうなるんだよ」
「えへへ、似合うねーさすが」
深い群青の袂をそっとつまんで、は日吉の浴衣姿を軽やかに褒めて見せた。こういう自分にはとても出来ないことをやってみせる気概があることだけは称賛に価すると謎めいた所論を覚えながら、日吉はふい、とそっぽを向いた。
「鳳はまだ来てないのか」
「あー、それがね、ちょっと遅くなるみたいで…あとで合流するから、場所とりしててって言われた」
「へえ、珍しいな」
「浴衣押し入れの奥からひっぱりだしてるのかもよ」
「…確かに、そうそう着るものでもないからな」
「ねえわかしぃ、私あんず飴食べたいなあ」
「なんでお前はそういつも唐突なんだよ」
「いいでしょ、まだ時間あるし、屋台のほう行こうよ」
掴んだままの袂をつんつんと引いて、は逆の手で屋台通りを指さす。確かに、まだ花火の時間までは少しいとまがある。別段、断る道理もない。ただ、こういうときいつものペースに流されるのが少し不服なところは否めない。
「じゃんけん勝ったら日吉にもあげるからさあ」
「それは頼もしい、運だけで生きてるようなもんだもんな、お前」
「…ね…齢13でそんなんじゃ今後が思いやられるわ」
「自覚はあるんだな、だったら安心だ、ほんの少しは」
屋台通りに出ると、予想通りわっと人が押し寄せてくる。流されないように人込みをかき分ける日吉の斜め後ろを、少しもたつきながら歩くが見てられなくて、少し人の流れが緩和されたタイミングで背中を押して前に追いやった。唐突な力が加えられたからは不満げに日吉をにらみつけたけれど、「こうしていたほうがはぐれないだろ」とどう考えても正当なことを言われて反論する言葉を持たない。そうこうしている間に、あんず飴の屋台はもう目前である。たこやき焼きそばお好み焼きの屋台御三家に比べれば列もそこそこで、日吉はこっそり胸をなでおろしている。
「ひとつ下さい!」
「あいよ!じゃあお嬢ちゃんじゃんけん一発勝負だ、じゃんけん…」
「ぽんっ!!!」
「っあー………」
「わーーーー!!!!やった!!!!!」
大口叩くだけあって、あんず飴の店主屋とのじゃんけん勝負に見事勝利したは跳んで喜び、あんず飴を氷の器から二本うやうやしく持ち上げた。男の子だから、と青の食紅で水あめが色付けされたほうを目の前に差し出された日吉は、なんだよ、それ、と文句しつつ受け取る。
「そこにもなかの皿があるから、零さないように持ってきな、彼氏」
「うっ…………、」
「…………これですね、ありがとうございます」
まあまあ当然の勘違いをされ、過剰反応するとは裏腹、けろりと返答するのが日吉だ。もなかをひとつこちらに差し出しながら「ほら」と何食わぬ顔で言って見せる日吉を憎く思いながら、はありがと、と千切れそうな声で告げる。
混み合う道から逸れて、思い切り食んだあんず飴は甘くて酸っぱい。夏の味である。噛みしめながらゆっくりと水飴の触感と甘さを堪能していたら、もなかと一緒に二口程度であんず飴を食べ終わった(風情もへったくれもない)日吉が、いつのまに近くにあった飲み物の屋台を覗いている。最中の食感をサクサク楽しみながら頭に疑問符を浮かべていたら、日吉が屋台の店主に指を二本立てたのが見えた。店主はラムネの瓶を小気味よく開栓し、日吉に渡す。もしかして、と思いつつ、唇についた水あめをなめとっていたら、なんて顔してんだ、と呆れながら日吉がラムネの瓶を差し出してくる。
「え、いいの」
「あんず飴のお返しだ」
「いや、あれは運だから」
「いいから、貰っておけよ」
「あ、りがとう?」
「なんで疑問形なんだよ」
ふ、と笑んでのち、日吉は空を仰ぐ。だいぶ空も黄昏れ、いよいよ人が本格的に花火会場へ流れ始めた。が何も言わないところを見ると、まだ長太郎から連絡はないようだ。
「どこで見る気だよ?」
「さっきの神社の、境内の裏、あそこ何気に穴場なんだよね…」
「ああ、防空壕があって、気味が悪いからだろ」
「そういうところでこそ目を煌めかせる日吉みたいな輩がいれば安心して見られるってわけよ」
「…別に俺は何が出ても何もできないぞ」
「えー、悪霊退散って叫んで追い払ってよ」
「いやだね、第一、悪霊がそんな陳腐なやり方でいなくなるわけないだろ」
「ノリ悪いなあ、相変わらず」
また、離れないように日吉の袂をつまみながら、はからころと下駄を鳴らした。片手にはラムネ瓶を携え、鼻歌まで歌っているところを見るとどうやらご機嫌らしい。ラムネ如きでおめでたいなと日吉は思いながら、存外悪い心地はしない自分も大概だと自嘲した。
慣れない下駄に四苦八苦するに日吉はゆったりと歩調を合わせながら急な階段を上がり、やっと二人は神社のやしろと対峙する。お借りするわけだから、とささやかなお賽銭を投げ込み二礼二拍手一礼を済ませて、裏手に回り込むと、明かりの少なさも手伝って、辺りはことの他仄暗かった。人もいないわけではないが、まばらである。確かに穴場だ。
防空壕は右手を下った木の表札の奥にあって、流石にその界隈は誰も寄り付かない。その手前、小路の脇の傾斜あたりが良さそうだとあてをつけて、二人は茂る草をかき分け慎重に辿ると高い木の隙間から、丁度いい塩梅に花火を臨めそうな場所を見付けた。ビニールシートなんて気の利いたものはないから、お互いハンカチを足元に敷いてゆっくり腰を下ろす。
「そろそろ始まるんじゃないか、鳳は?」
「………あー、長太郎」
片手を膝の裏に追いやって、ラムネをちょびちょびと飲み下しながら、はいやに歯切れの悪い返事を零す。そういえば、さっきからちっとも連絡を気にしているそぶりがない。おかしく思いながら、日吉はうまく言葉が継げず、自分もまた、ラムネに口をつけていとまをやり過ごす。盗み見たは、暗がりの中ばつの悪い表情をした、ように見えた。
「………ごめん、わかし」
「………なにがだよ」
「長太郎は呼んでない」
「はあ?」
「長太郎が来るって言えば、わかし来るかなって思ったんだもん」
「なんだよ…それ」
「だから、ごめんて」
絶句しつつ、見止めたは下唇を噛んで俯いた。惚如物憂げを引き連れてきたは、纏めた髪の所為かいつもと違う雰囲気を持ち合わせていて調子が狂う。簪についた華が小さな鈴をちり、と鳴らす。何か言わなければ、と思うも、うまく思考が動かない。
はほんの小さく息を吐くと、再びラムネ瓶に口をつけた。そうして、日吉の眸に自分のそれを合わせた。
「ね…、覚えてる?」
「…は?」
「わかしが、私を見付けてくれた時のこと」
「…………ああ、夏祭りで」
「そう、私みんなとはぐれちゃって」
が皮切り出したのは、四年前の夏祭りの思い出である。花火の折と同様に出店が界隈に連なり、広場では盆踊りが行われていた。日吉は、男友達2、3人と散策していたが、途中すれ違った同じ学年の女子が『あの子とはぐれて、見つからない』と慌てふためていたので、ちりぢりになってみんなで探すことを試みた。どこをどう探しても見つからず、もしかしたら何かがあって先に家に帰ったのかもしれない、とも思ったが、公衆電話から自宅に電話をしてみると、の母親が『お祭りにいったまま、まだ帰ってない』と日吉に告げた。
妙な胸騒ぎを抱えたまま日吉は、人混みからあえて外れて境内の階段を一目散に上る。当時子供たちの間で「神様が気に入った子をかどわかして、防空壕からあちらの世界へ連れていってしまう」という怖い話が広まっていた。今思えば、いつ崩れるともわからない防空壕に子供たちを近寄らせないための寓話じみたものだったと思うけれど、神社にある防空壕といううってつけのスポットは、当時の小学生の心に充分響く怪談だったに違いない。
境内の裏は当時も人影が薄く、祭りの音も遠くにほんのわずか響くばかりである。日吉はの名前を呼んだが、勿論返答はない。固唾を飲み、右奥にある小路を進むと、『防空壕』の文字が刻まれた板が佇んでいた。まるでこれ以上先に行ってはならないという風情を持ち合わせていたが、なりふり構っていられないと日吉は先に進んだ。
「…これ」
道すがら、地面に光るものを見止めて拾い上げたそれは、赤い花の飾りがついた髪留めだった。ざわ、と心に黒い靄が立ち込める。ふと見上げると、もう防空壕の入り口はすぐ傍に迫っている。防空壕に目を遣るや否や、風の流れの所為か、耳鳴りのようなものがした。防空壕は当時まだ身長が低かった日吉でさえ立って入ることは困難なほど入口が狭く、どこか凹の字のような形をしていた。
「おい、いないか、」
改めて名前を呼ぶも、やはり返答はない。代わりに、またぞろ気持ちの悪い耳鳴りがウォンと鼓膜を叩き、日吉は少し気分が悪くなった。ただでさえ怖がりなあいつがこんなところにいるわけがない。という強い思いと、なぜかここにいなければ他で見つかる気がしないという気持ちがぶつかる。なにより、風雨に晒された気配もない髪飾りが、なぜここにぽとりと落ちていたのか。日吉の中で点と点は既に線で結ばれていた。
「おい、、、いるのか」
そこから闇雲に、日吉は何遍もの名前を呼んだ。頭がくわんと音を立てるまで声を張り上げて、目尻には涙が滲んでいた。もう会えなかったらどうしよう、という不吉な思いが胸を一層詰まらせる。
(頼むから返事をしてくれ………、)
拳を強く握って、俯いたしゅんかん、遠くで、誰かの嗚咽する声が聞こえた気がしてはっと垂れていたこうべを持ち上げる。暗がり、凸の形をした穴の隅に、蹲る影がぼんやり垣間見えて、日吉は何を思うより先に駆け出した。泣いていたのは誰でもない、探していただった。
「わ、かし……?」
「……お前……、こんなところで何してんだよ」
「……わかんない」
「……はぁ?」
「……こわかった…わかし、こわかったよお…」
腰が抜けて立てないのか、しゃがみこんだままで、はぎゅうと日吉の腰元にすがりついて泣いた。胸を撫で下ろしつつ、そこに疑問がぼたりと落ちる。
どう考えても、がはじめから、この場所、防空壕の入り口蹲っていたようには見えなかったのだ。
「…あったな、そんなことも」
「もう、わかしが丁寧に電話なんてしてくれちゃうもんだから、お母さんにも大目玉食ったし」
「仕方がないだろ、あのときは」
「うん、そうだね」
「………ずっと思ってたんだが」
「なあに?」
「、お前、あのとき、俺に見つかるまでどこにいたんだ?」
ははっと目を開き、ぎこちなく笑む。見えてはいないが、丁度日吉の向こう側には、あの防空壕が控えている。
「実は…覚えてないんだよね」
「……は、覚えてない?」
「そう…階段の下にある、狛犬さんのところで躓いて、持ってたラムネが割れちゃって、中からビー玉がころんと飛び出したところまでは覚えてる」
「そこからは、」
「ただ、暗いところにいて、わけがわからなくて、怖くてずっと泣いてた、泣いてたら、わかしの声がして、気付いたら、防空壕の下に放り出されてた」
「………、」
「私、夢遊病か何かだったのかな」
寝相が悪いし、寝言も言うから、ありえるかも、とおどけて、は微笑う。今となっては真相はすべて闇の中だ。
「…信じて貰えないと思って、黙ってたのか」
「そりゃそうだよ、それに、言ったらまた同じことが起きるかもしれないって怖かったのものある、…まだ小学生だったしね」
「それは………、気の毒だったな」
「だから、神社の境内に来たのも、実は、今日、あれ以来なの」
「…無理してるんじゃないのか?」
「ぜんぜん、って言ったら嘘になるけど、…わかしとなら平気かなと思って」
言い述べて、は最後に残ったラムネの一口を咽喉へ流し込んだ。から、と音を鳴らしたビー玉が、間抜けな自分の顔を反転させていて、なんだか笑える。そうかよ、とあえてぞんざいに告げると、冷た、といつもの調子でキャッチボールが続いた。
「あのとき起こったこと、わけがわからなかったけど」
「……………けど、なんだよ」
「わかしが見つけてくれなきゃ、4年後、こうして一緒にラムネを飲むこともなかったかもしれないんだよねえ」
感慨に塗れつつ告げたは、それから真面目腐った眸で日吉を真っすぐ捉えた。心臓が上ずるのをくれぐれも感付かれないように、日吉はゆっくりとまばたきを施す。
「だから、ありがとう」
「……………今更だろ」
「今更だけどさ…、言いたかったんだよ、あれからずっと、わかしは私の、」
もう太陽が沈もうとしている最中、の顔はおぼろげにしか確認できないけれど、さっと朱に染まった気がして、余計に日吉の心が震えた。
「…その、とくべつな人だから」
「とく…、べつ」
日吉が目を見張って、それを反芻した直後、二人の視界に閃光が弾ける。花火だ、と思うが早く、音が群れをなして二人の身体を叩いた。想像以上の絶景と、タイミングに驚いていたら、さっきまでのシリアスさはどこ吹く風といったようにがはしゃぎだす。
「うわ、わかし、めっっっっちゃ綺麗だよ、すご…!!!!!」
「おまえ……」
「ちょっと、わかし、花火はあっち、ちゃんと見よ?もったいないから」
「……もうなにがあっても助けてやんねーぞ」
「ん?なんか言った?聞こえない!」
「………くそ」
釈然としない気持ちをやり過ごしつつ、指示通り仰いだ空は確かに絶景で言葉を失う。ああ、確かに、この大輪の花をこうして、ここで、と見つめることもなかったかと思うと、打ち明けられた言葉もやぶさかではないかもしれない。
は覚えているだろうか。しがみついて来たその半身に安堵した日吉が、またを縋るように抱きしめて、同じようにぼろぼろ涙を零したこと。ほとぼりが冷めたころ渡した髪留めを、悪戯に笑いながら日吉の前髪に留めたこと。それを後生大事に持っていることや、自分が、もっとずっと前からを、とくべつだと思っていたことは、まだ知らなくて良いけれど。
このくらいは許されるだろう、とそっとの手のひらに自分のそれを重ねる。一瞬驚いた挙動を見せつつ、払い除けられないことを愉快に思いながら、日吉はぬるくなったラムネに口をつけた。
ラムネのビー玉の中で逆からあがった花火が美しく消えて散っていく。
「そういえば……、お前も浴衣、似合ってるな」
「え、何?……浴衣?」
「ふん、なんでもない」
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