もう人もまばらになりつつある昇降口の脇をすり抜けようとしたら、妙に見覚えのあるまるまっちい頭が見えた。ローファーにつま先を押し込みながら、向こうもこちらに気付いたらしく、二人はほぼ同時に「あ」の口を作ってあいまみえる。



-或るトワイライト-



「日吉、今帰りなんだ」
「…先輩、お疲れ様です…、すごい量の資料ですね」
「委員会の資料、コピー頼まれちゃって」
「ふうん…持ちましょうか?」
「いいよ、もうローファー履いてるじゃん」
「履いたものは脱げばいいだけですけど」
「へーきへーき、ありがとね、日吉、たまには優しいじゃん」
「……余計なこというと、二度と助けませんよ」
「あはは、ごめんて、お疲れ様、日吉」
「………はい、お疲れ様です」



日吉が一瞬外の様子を伺ったのが気にかかった。しかし、気に留めているより先に頼まれごとを済ませて帰るに限る。何を隠そう、わりとあくせく動いてお腹がすいてしまった。今日のご飯は何だろう、などとのんきなことを考えながら、はコピー室の方向へ、決して走らず急いで歩いて進んだ。

コピー室は機械が犇めき合う所為で外界よりむっと暑く感じる。は顔を顰めて、最新式コピー機の前を陣取ると、横の棚に資料をドンと置き遣った。窓が小さいから、換気も不十分なのだろうと、申し訳程度にあつらえてある小窓を睨む。外は夕闇に包まれていて、いよいよ最終下校を促す放送が鳴り始めそうだ。嘆息を漏らし資料のコピーを始めたに、外から、誰か残っているのか、と声がかかる。直後、扉からひょっこり顔を出したのは学年顧問の先生だった。


「なんだ、まだ残ってたのか」
「はい、委員会の資料のコピーです」
「すぐに終わるのか?」
「いちおう、ここから抜粋して10ページ程度刷ればいいので」
「そうか…今朝の話も心配だし、なるべく明るい道を使って帰れよ」
「…………………あ、はい」
「君が使い終わったら鍵を閉めるから、職員室に一言伝えて帰ってくれ」
「………わかりました」


すっかり忘れていた。すっかり忘れていたけれど、そういえば今朝の前校朝礼で、学園の界隈に変質者が出るとか言う薄ら寒い話を聞いたのだった。夕方から夜にかけての暗くなる時分に声をかけられて、卑猥なことを聞かれるとかなんとか…。もしかして、さっき日吉がちらりと外を気にしたのもそれが所以かもしれない。


(やば)
(思い出したら一気に怖くなってきた)


コピー機から漏れ出る無機質な音を聞きながら、蒼白になったは、資料を明日に回して早々帰宅しなかったことを今更ながら嘆いている。そうでなければ、あそこで日吉に甘えて手伝って貰えば良かったかもしれない。



(あとのまつりだ)
(すべて…)



重い資料を再び抱えて、ふらふらと職員室に寄って挨拶を済ませる。委員会のキャビネットに資料を戻して、再び昇降口へ向かうころ、もう夕闇は水平線の奥に逃げ込もうとしていた。夜の始まる音がする。


誰かしら一緒の方向へ帰る輩がいないかと昇降口に目を配るも、界隈は静まり返っている。定めてほとんどの生徒は帰宅しただろう。とりわけ、女子生徒はきっと変質者の話が念頭にあったろうから殊更である。仕方がない。
ローファーをつっかけながら、は先ほどまで呑気に夕餉のことを考えていた自分を恥じた。口を真一文字に結んで昇降口を飛び出すと、いるはずもない影がひょっこりと脇から飛び出てきたから心臓が止まりそうになった。


「ッヒ…!!!!!」
「……なんて顔してんですか」
「わ、……日吉?帰ったんじゃなかったの?」
「帰ろうとしたんですけど………」


日吉は口ごもりつつ、先ほどまでいじくってたであろうスマホをポケットに追い遣る。


「今朝の話が、少し気になったんで」
「まさか、まっててくれたの?」
「まあ、先輩を襲う物好きもそうそういないだろうと思いますけどね」


恐らく一言多いとか、あんたも余計が過ぎるとか、そんな問答が始まるのだろうと踏みながら、日吉は平常営業の嘲笑を口元に張り付ける。しかし、見上げてくるその瞳が意外な類のものであったからはっとした。


「…まじか、…、ありがとー」


拍子抜け、という単語にうってつけの現状に、日吉は一瞬返す言葉を失う。噛みしめるようにしばたいて、安堵を浮かべる様子のを見つめつつ、やっとそれから見繕って出てきたものは「はい」の一言だったから手酷い。普段はああだこうだとつっかかってくる癖、時折ふとしおらしくなるから調子が狂う。そういう時折に、ああ、もれっきとした女性なのだなあとある種失礼な、しかしいかにも日吉らしい所論に辿り着くのだった。

「いや、正直、さっきまですっかり朝のこと忘れて夕ご飯何かなとか考えてたんだけど」
「は!?馬鹿も休み休み言って下さい」
「馬鹿、…………、馬鹿、…………、馬鹿、…………、ば」
「蹴とばされたいか?」
「わあ、怖い……、いやでも、さっき思い出してさすがにちょっと心細いなあって思ってたところだったんだよね」
「先輩に一握りでも女性らしい慎ましやかさがあって安心しました」
「だって向こうは私の性格知らないんだよ、可憐な乙女だと思うかもしれないじゃん」
「…可憐…ねえ」

日吉は改めて上から下までを舐めるように眺めて見る。は憮然と、その様子を伺っている。

「…………まあ、確かに……黙ってれば少しはマシなんじゃないですか」
「ちっともうれしくないのはなぜ…」

わかってはいたことだったけれど、飴と鞭の比率がおかしい。しかし、ぐうの音も出ないのが悔しいところだと嘆息しながら、は日吉の少し先を歩き出す。自分がある日人が変わったように押し黙ったら、日吉はもっと自分を女性扱いしてくれるのだろうか、と言う疑問がふとふって沸いた。のちに、自分は日吉に女性扱いされたいのか、と言う疑問に摩り替る。自分より歩幅の大きな日吉は、いつの間に自分のすぐ脇に控えていてどきりとした。なんだか調子が狂う。

「あんまり離れないで下さい」
「う、うん?」
「すぐ近くにいたのにふとしたときに襲われたら、面目がないんで」
「平気でしょ、日吉強いし」
「相手も強いかもしれませんよ?」
「そしたら私も闘う!」
「いや、本物の馬鹿ですか」

校門をすり抜けながら、ぴしゃりと言ってのけた日吉にまた口を開こうとしたら、俄かに制服の襟のあたりを掴まれたからぎょっとした。そのまま手繰り寄せるように伸びた指はいつの間に肩口を掴んで、何が起こった、と思うが早かったか、日吉の面立ちが先刻よりずっと傍に控えていて面食らう。がはた、と動きを止めて口をぱくぱくさせているのを見て、日吉はフン、と啼き、微かに笑んだ。




「いいから、離れるな、……って言ってんです」




夜闇の内側で、アンバーの瞳がじとりとこちらを見つめている。実に倒錯的な台詞を述べたような気がしたが、勘違いだろうか。触れられている肩が熱い。

「いや近いよ、てか肩…、」

とりあえずいつもの階調へ戻しつつ、手のひらから逃れようとするも、うまくいかない。相手は男だ。(しかも先に述べた通り腕っぷしはそこそこある)このまま進むのがなんだかんだ得策かもしれない。こんなところを宍戸や向日に見られた日には死ぬしかないけれど、幸いなことに、というべきか、人気も人目も見受けられない。


ここは甘んじて受け入れよう。定めて、日吉も良かれと思ってやっている。他意はない。


他意は……。



「縄でもありゃ繋いでおくんですけどね」
「………おい日吉、先輩だぞ私、セーンパーイ」
「あーあ、黙ってりゃマシなのに…」
「なんか言ったー?」
「言ってません、ほら、さっさと歩く」
「歩きにくいんだってーの!」


殊更に強くなる指の力をうらめしく思いながら、にらみつけた日吉はなんだか余裕綽々という表情で悔しくなった。



「…日吉のばーか」



とりあえずいっぺん死んでも、押し黙って可憐でしとやかになるのは無理そうだ、と痛感しながら、夜闇の内側、日吉のかんばせが歪む様をは愉快に眺めている。

 


2020522或るトワイライト