「ひよし、このいえはもうだめだ」
わけがわからないのはいつものこととして、家に帰ってくるやいなや一体全体なんなんだ。しかも真顔で。とりあえず玄関からあがればいいのに。
「はぁ…、それはゆゆしきことですね、カレー作ったんで、とりあえず食べます?」
「ちょっと!軽はずみに拾って流すなや!?とりあえずカレーは食べます!」
「大盛で?」
「とーぜん!」
熱
病
よし巻けた、と心で呟いて颯爽と踵を返したら忽如腕にかかった重力で繋ぎ止められる。しくじった。
「しんけんに聞いて!」
「よもやカレーに潰されそうになる案件を?」
「潰されてないってーの!ヤバイんだって、もー」
「ひとまず、ここ寒いんでリビングで聞きますよ」
「うー…」
唸りつつ手首に巻き付いていた指を離したさんは、不服そうに洗面所へ向かった。手を洗いうがいをしてリビングに移動するいつもの手順だと思いながらキッチンに戻った俺は、カレーを温めなおして炊飯器から白米をよそう。時計を見るとまだ時刻は8時を回ったばかりで、意外に早く戻ってきたなあと所論した。カレーの大盛を所望したところから見て、夕餉はとっていないようだ。もしかしたら飲んで来るかも、と言っていたのに。
カレーがくつくつと音を立て始めた頃、さんがぬらりとリビングへ顔を出す。随分と洗面所で時間を食ったな、と思いつつ、ランチョンマットの上にカレーを置き遣るしゅんかん、ぱっとさんの顔が華やいだけど、またすぐ(いささかわざとらしい)沈痛な面持ちを貼り付けて定位置に腰を下ろした。しかしまあ食欲には抗えないようで、腰を下ろしながらスプーンをすでに握りしめている。わかりやすく空腹のようだ。
「いただきまーす!ひき肉だ!」
「ひき肉しかなかったんで」
「ひき肉は神だよ?ついでにじゃが芋もな」
「はいはい………」
そうして結局、さんはその皿が空っぽになるまで会話を皮切ろうとはしなかった。だいじな話なんじゃなかったのか。といささかモヤモヤしてしまったのは不覚である。しかしまあ、おなかいっぱいになったらしいさんは満足げに腹をさすっているから余計に焦れた。そういえば、顰められた眉間の皺もいつの間にかすっかり伸び切っている。
「……………」
どうしようもないことだというのはわかっているのに、身勝手に喉が疑問を叩き出す。口惜しい。性分だ。
「…………で?」
「あっ、おいしかったです!とても!たまねぎがたくさ」
「いや、ちがうだろ!」
「あっ、そうだ、違った!違うわ、日吉!」
「……大丈夫ですか?アタマ」
「大丈夫だっつーの!アタマは!」
「アタマ以外は頗る平常運転に見えますが!?」
「それがもー、やばいんだってー、やばいの」
やっと本題に入りそうなさんは、食べ終わった皿の上をスプーンでぐちゃぐちゃいじりだした。こびりついたカレーの上に謎の軌跡が踊る。はしたないからやめてほしい。
「卒論ゼミの連中が、こぞって7人、インフルで死んだ」
「………はっ?」
「ちなみに、教授含む」
「………えっ…」
「だから、飲み会はお流れ、今に至るってわけ」
それは………
やばいかもしれない。
さんがここのところ卒論ゼミの連中とほとんど毎日つるんでいたのは、日常会話からだいたい汲み取っていた。うち、ゼミの1人がインフルにかかったという話を聞いたのが一昨日。定めて、死んだという彼らはそこから一気に感染したのだろうというのは想像に容易い。つまり。
「たぶんわたしもかんせんしているとおもうんだ、ひよし」
「……まあ、そうでしょうね」
「と、いうわけで、私が潜伏期間であるなら、日吉が感染している確率は………」
「…………大いにありえるでしょうね」
「ちょ、ねえ、100%だ、でしょ、そこは」
何の真似事かわからない茶番劇に付き合ってるいとまもないから早々に流して、とりあえず潜伏期間と呼ばれている二日間をかえりみてはみるけれど、まあ恋人同士である以上アウトな事例が多すぎるのは明白で、それから今度は向こう一週間の予定に目を配ると、講義はさておいて、棚卸しがあるからとバイト先の店長から無茶なシフトを組まれたのを思い出して頭を抱えた。人が少ないから頼む、と頭を下げられたこともついでに。
「…困りましたね…」
「一昨日結構酔っ払ってたからなー日吉」
「…なにがいいたいんですか…さん」
「自分の胸に……、以下略」
「思い当たりませんね?」
「シラ切りやがって…」
まあ、実のところ思い当たる節ばかりなのだけど今更それをいちいちつまみ出してあげつらっても仕様がない。第一恋人同士ではない同居人も安易に感染するウィルスなのだ。我らに出来ることはただのひとつ、見えない外敵を自分の運と免疫力が跳ね除けていることを願いながら待機するのみである。
バイトのくだんは心配だが、まだ少ない確率で杞憂かもしれないのに先手を打つのは馬鹿らしいか、と思っていたら、目前の恋人が思いも寄らぬ杞憂をぶつけてきたから泡を食った。
「とりあえず、二人でぶっ倒れたら買い物も行けないから、元気なうちにお粥とかゼリーでも買いだめしておく?」
「……へえ」
「えっ、何、その反応…」
「いや、死ぬ前に先だって墓地購入するようなタイプじゃないと思ってたんで、少しびっくりしただけです」
「なに…刹那的快楽主義とでも言いたいの?」
「間違ってませんね」
「だって、ただでさえ辛いのにお腹空いて死にそうとか最悪じゃん」
「………食欲!」
理由はどうあれ、賢明なことかもしれない。誰に迷惑をかけるわけでもないし。
そうして、俺達はほぼ同時に、壁掛け時計へ視線を追いやった。20時半。近くのスーパーはまだ余裕で営業時間内である。もしかしたら突発的に熱が出るかもしれない。インフルエンザとはそういうものだ。善は急げか。
と巡らせている最中、すでに立ち上がり食器を洗い桶にくぐらせたさんは何やらドタバタしているし、是か非を問答する余地はないみたいだ。と思ったが先にクロゼットの手前に引っ掛けてあったウルトラライトなダウンを投げ遣られたところを見ると、着るものを選ぶ余地すら俺には与えられてないらしい。自然と、漏れる溜息。
惚れた弱み、というのはこういうことか、と何回目かの痛感をしてのち、俺は頭を抱える代わりに、手の甲を額に押し付ける。
席を立とうとしない俺を一喝しようと睨みつける視線を感じてそちらに瞳をよこすと、途端さんの血の気がさっと引いたのがわかった。なんだ、どうしたと瞬いていたら驚くべき速さでこちらに歩み寄ってくる。
「えっ日吉、えっ?」
「はっ?」
「マジで?私より先に?」
「いや、ちょっと、ち」
発熱した、と思ったのか。
相変わらずの早とちりで俺に覆いかぶさったさんは、何故か自分のほっぺたを俺の額に押し付けた。体勢的にそのほうがやりやすかったからに違いないけれど…それって意味あるのか。加えて、柔らかなほっぺたはどう考えても自分より高い体温を保有している。どちらかと言えば低体温の俺とどちらかと言えば高体温の彼女、極めていつも通りの差異と言えよう。
「さん…」
「……熱くないじゃん」
「……はい、まあ」
「心配させないでよ、もう」
「………あんたが勝手にしたんだろ!」
俺の肩に両腕を預けて眉を顰めるさんを釈然としなさで睨みつけていたら、再び被さる影。今度はなんだ、と思ってたらちゅ、と、いやに艶めかしい音が唇を伝って轟く。
このタイミングで…?
べつに……いいけど。
「…………とうとつだな、いつも」
「いや、だってどうせ感染してるし、今やれることをしておこう?メメントモリさ?」
「良い事言い切った風ですけど…俺ら死にませんよ?」
「ふふふふ」
なんだかんだで出発が30分ほど遅れたけれど、無事スーパーで食料品を買い込んだ俺たちを待ち受けていたのは……平穏無事過ぎる生活とやらで、その後、さんのゼミの先輩がまた二人倒れたと聞いたときは、自分たちの免疫力の強さとやらに感銘と恐ろしさを覚えた、のだった。
「…もうおかゆ飽きたよー」
「…だから、買い過ぎだって言ったんですよ」
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