訪れた冬にあらがうような暖かな日差しが窓から溢れている。期末考査も明け、いささか気の抜けていた日吉は柄にもなく部室の隅で瞼を重くしていた。日誌の文字列に意識を移動しようと試みるも、思考が働かない。駄目だ駄目だ、と頭を振ってみたけれど、頑固な睡魔は前頭葉のあたりでしぶとくのさばっている。
(ねむい)
誰もいないのをいいことに、大きなあくびを決め込んだ日吉はほんの少しだけ欲望に準じようと心に決めた。日誌を閉じ、瞳を伏せ、腕を組む。さああとは誘われるがまま夢の中へ、と思うやいなや、唐突に部室の扉が開いた。そのとてつもなく乱暴な音色に、憐れというべきか、日吉の意識は完全に覚醒へと傾く羽目となる。
「おい日吉!」
先とはうってかわってまあるく瞳を見開いた日吉に必死の形相を近付けてきたのは芥川慈郎だった。なんとなく心で舌打ちを決め込んだ日吉は、口調に嫌悪をたっぷり含ませて返答する。
「OBの先輩がなんの用ですか?」
「はー?まだOBじゃねーし!」
「引退された上にもう12月とあっちゃ、OBも同然だと思いますが?」
「あー、相変わらずめんどくせーな、オメーは」
「ところ構わず寝呆けて迷惑かけてたあなたに言われたくないですが?ったく…一体全体なんの用です?」
眉間の皺を濃くしながら、日吉は作業めいた疑問符をぶつける。一方の慈郎は、おお、そうだった!と丸い目をさらに丸くして、それからいつになく真面目な表情を張り付けた。
「が消えた」
ぽつりと声が落下して、それからしばしの沈黙が二人の間を行き交った。
「…は?」
「だからーが消えたんだって」
まるで順当である種類の返答を溢したはずなのに、慈郎はなぜわからないんだと言いたげで釈然としない。
「意味がひとつもわからないんですが」
「俺もわかんねーっつの!とにかく消えたんだよ、俺たちの目の前で!煙みたいに!」
「…寝言は寝てから言って下さい」
「あー、もう!やっぱ岳人に来させりゃ良かった」
「…向日さんも居たんですか?その現場に?」
「…その顔、信じてないっしょ」
「当然」
どうせ共謀して自分を嵌め落とそうという魂胆だろう、それにしても計画が杜撰過ぎるな、と考えながら、日吉は嘲笑の類いを唇に浮かべる。そんな、事実であれば不謹慎なほど胸が高鳴る怪事件など易々と起こって堪るか。馬鹿馬鹿しい。挙げ句こともあろうにを絡めてくるあたり余計腹が立つ。どうせ自身も一枚噛んでいるのだろう。
「遊びに付き合ってる暇ないんで、出てって貰えますか?」
「うたた寝してたくせによく言うよ!」
アンタにだけは一生言われたくないですが、と言う台詞をぐっと飲み込んだ日吉は、自分を褒め称えつつ出口を指差した。しかし、慈郎は引かなかった。
「がこのまま一生出てこなくてもいいのかよー」
「しつこいですね、あなたも…」
「日吉も役に立たねーな!」
「なっ…言うに事欠いて…」
「岳人が、こういうオカルトチックなのは日吉の専売特許だってゆうから来たのによー」
「…ちなみに、それを放った張本人はどこに?」
「跡部んとこ行った!それじゃなきゃ金の力だー!っつって」
金の力でどうにかなる問題でもないと思ったが、まあ、有能な霊能者でも雇うということなら筋は通る。…まあ、露ほども信じてはいないけれど、…露ほどは興味があるけれど。
「…そんなに言うなら」
思わず口をついて出た一語に、慈郎がおっ、と声をあげた。不覚だ、と咳払いしつつ、日吉は言葉を続ける。
「どんな状況だったかくらいは聞いてもいいですが」
「さっすがひよC!」
「…ちょっと、口癖に組み込むの止めて貰えますか」
―――それからうだうだと語った慈郎の話はこうだ。
帰りのホームルームが終わったのにも気付かずに教室で寝呆けていた慈郎がのろのろと廊下に出て、階下に向かうと、丁度委員会の打ち合わせを終えた岳人とに出くわしたらしい。そのまま一緒に帰ろうということになって、とぼとぼ廊下を辿っていると、B棟とC棟を繋ぐ渡り廊下の途中でふとが立ち止まった。どうした、と二人が尋ねると、は少し含みのある笑みを貼り付けて、呟いた。
『ねえ、この中庭の隅に、変な形のマンホールがあるの知ってる?』
『は?マンホール?マンホールに興味ねえよお』
『馬っ鹿慈郎、お前知らないのかよ』
『んあ?』
『出るんだってよ、その上に』
『出るって?なにが?』
『ユーレイ』
マンホールの話はここ最近密かに氷帝内で語られている七不思議のようなもので、それをはじめてに伝えたのは日吉であった。こちらもたまたま帰りが一緒になった折、構内新聞の記事の話になった流れで飛び出た話題である。
『何でも、マンホールの先はあの世に繋がってるとか…』
『まっさかー』
『流石にそれは嘘だと思うけどさ……、ねえ、ちょっと見に行ってみない?』
『え、いや、俺そういうのパス』
『いいじゃん!まだ明るいし、何も出ないよ!』
『あはは!岳人は意外とそういうの駄目だかんなー』
『マジかーわかりやすいほど生粋のヘタレだなー岳人は!』
『うっせーなてめーら!……あー、わかったよ、そんなに言うなら見に行こうじゃねえの』
『…手繋ぐ?』
『ふざけんな!』
そうして三人は中庭のC棟校舎脇にひっそりとあつらえられてあるマンホールを見に行くことになる。マンホールは石製で、円形を少し切り落としたような形をしていた。見る限りでは、とてもひとりの力では持ち上げられそうにない重厚感だった。
『…なんか、普通だね』
『なんだよ、ビビらせやがって』
『勝手にビビってたのは岳人だけだけどな!』
『…んだと慈郎』
『もっとこう、おぞましい雰囲気とかあるのかと思ってたんだけど』
そっかーと、少し残念そうに呟いたは、ひとりマンホールのほど近くまで歩み寄った。それから、そっと片足をマンホールの上に踏み出した。
『ちょ、…』
『スゲー、勇気あんな、』
『やめとけって、祟られたらどうすんだよ?』
岳人の声は恐怖と抑止をはらんでいたが、はお構いなしだった。今思えば、あのとき手首を掴んで無理やりにでもこちらに引き寄せておけば良かったのかもしれない。ただの表情はことのほか涼しげで、そのせいか二人も、油断をしていたのだろう。
『いや、これ、全然だいじょ』
うぶ、と続けようとしたことは明白だったが、それは叶わなかった。言葉の切れ目で丁度両足をマンホールの上に置き遣ったは、忽然と、瞬間的に、二人の目の前から居なくなったのである。それから数秒間、残された二人は口をぱくぱくと動かすだけで、声を出すこともままならなかった。やっとで漏れ出た岳人の声は、掠れて巧く音にならず落下した。
『う、そ、だろ…』
―――かくして今に至る。
語り終えた慈郎は、疲れたのか大きく息を吐いた。日吉は、ことにわずかながら信憑性というものが露出しはじめたことを感じて絶句する。
「…俺だってしんじらんねーよ、でも、マジで消えたかんね」
「…近くの茂みにでも隠れたんじゃないですか?」
「探したっつーの、…いなかったけどよ」
「…携帯は」
「さんざんかけたってば、ほれ」
慈郎はジャケットからおもむろにスマートフォンを取り出すと、発信履歴画面を日吉の目前につきつけた。への発信が、十数分前のほぼ同じ時間に長く連なっている。
(まさか、そんな)
『…近いうち、俺も入念に調べてみようと思ってるんですよ』
『ホント…日吉は物好きだな、っていうか、怖くないの?』
『…そう見えます?』
『…愚問だったわ』
『さんは怖いんですか?』
『少し…、でも、こういうのっておもしろいよね?』
数日前の帰路で交わされた会話を思い出しながら、日吉は総毛だった。もしたばかられてなかったとするならば、の失踪は自分にも責任があるのではないか。自分の興味分野に対する好奇心をはるかに上回る鬼胎がざわざわと胸に押し寄せて、掌に汗が滲む。
「…芥川先輩」
「…おう」
「もし空言だったら……一生許しませんから」
「なんだよ!それ!」
慈郎の非難を受けつつ立ち上がった日吉は、自分の名前が背中にぶつかるのを感じながら、乱暴に部室の扉を開け放った。
たとえば きみが 消 えたら
(どうすればいい、)
(どうすれば…)
部室を飛び出し、校内を急ぐ日吉は持ちうる知識を総動員させて問題解決の手段を模索する。しかし、趣味や興味、好奇心の粋を逸脱しないそれが、岳人や慈郎の期待するような力にはならないことを誰よりも日吉が一番分かっていた。まず自分に常識から外れた事柄を見詰める術があったとするならば、何を言うよりも先にへ注意喚起していたに違いない。「決してそのマンホールへ足を運ばないで下さい、間違っても、両足で踏み込んだりしないように」と。
(くそ)
(物好きはどっちだよ)
舌打ちした日吉の爪先は、自然にC棟とB棟を繋ぐ渡り廊下へ向かう。先程まで疑いにまみれていた心が嘘のように、今は問題解決への糸口を見つけるのに必死になっているから笑えた。あれだけの材料で、果たしてどれほどの人間がことを咀嚼し、信じるというのか。自分もたいがい単純である。これでたばかられていたとしたら騙していた輩の命はないと思うけれど、それと同時に、心底安心するのではないか、という仮定が頭を過っていやになった。その所以を、よもや慈郎や岳人が知るべくもないとは思うけれど。
「………、…っくそ」
ふと、
その昔神隠しにあったとされた四人乗りの乗用車がダムの底で見つかり、乗っていた家族は勿論皆命を落としていたらしい、という事件を思い出し、背筋が凍る。下手なものの領域に触れると、末路が悲惨だという空知識ばかりが頭を占拠し始めてよくない。振り切ろうと頭を小突いて顔をあげると、そこはもう渡り廊下の景色だった。右奥の茂み、C棟の傍らをじっと睨んで、日吉は固唾を飲み込んだ。
すべてが嘘だったとしたらが飛び出て自分を脅かしてくるであろうタイミングはきっとここだろう。しかし、その気配はまるで見受けられない。日吉はずんずんとマンホールへ向かい足を進め、いよいよ目前に、その実態が現れた。が言ったように、なんのことはない石造りのシンプルなマンホールは、無言で日吉を待ち構えていた。
(……ここで)
(消えた…のか)
ひとりごち、息を吐いた日吉は、じっとマンホールのごつごつとした質感を見詰めている。恐ろしいほど策が浮かばない。
「…………」
無常にも過ぎる時間が歯痒くて、いっそのこと自分もこの上に乗ってしまおうか、という案が沸いて出たけれど、万一それで自分がのところへ移動させられて、二人でそちら(どこと言えばいいのかわからないが)に置き去られたら、それこそ一貫の終わりかもしれない。折った指を口元に添えて、ああでもないこうでもないとぐるぐる考えている最中、唐突に携帯が震えたから日吉は大袈裟なまでに驚いた。
「っ……!なんだよ、こんなときに」
バイブが断続的に続いているところを見ると、メッセージではなく着信のようである。岳人か、慈郎だろうか。はたまた話を聞いた跡部かもしれない、と溜息がてら携帯をとった日吉は、液晶に表示された名前を認識するやいなや、息を呑んだ。
『 』
「まっ…さ、か」
やっぱり悪戯だったのか、と言う思考が一瞬頭を掠めたけれど、まあ最悪それでもいい。とにかく、今はの無事を確認することが先決だと思いながら、日吉は震える手で通話ボタンを押下する。
「もしもし…?」
ザッ、ザザッ、と耳に優しくないさざめきが響き、背筋が粟立つ。もはや、嫌な予感しかしない。
「もしもし、もしもし、先輩!?」
「……し………ょし?…こ…る?」
荒いノイズのその奥で、耳馴染みのある声が微かに響いた気がして、日吉ははっとした。
「っ、先輩、先輩ですね?」
「あ、嘘…つなが……た…ょし、日吉?」
今度ははっきりと、自分の名前が鼓膜を叩く。日吉はすがりつくように携帯を握って、ひとまず長い息を吐いた。だ。確かにこの声は。ひよし、ひよし、と乞うように数回呟いてのち、はよかった、と心底ほっとした声色を漏らす。涙混じりであるような気がするのは、定めて検討違いではない。日吉は一呼吸おいて、心ばかりの冷静さを引きずり出す。しかし、この状況下ではなかなかうまくいかなかった。ひとまず、オカルトをネタに自分をからかおうとしている可能性は、絶望的に皆無だと日吉は思った。
「大丈夫ですか?いまどこにいるんですか?」
「がっこう」
「がっこう?校舎内にいるんですか?」
「うん、中庭、マンホールの前」
「…はっ?」
中庭、マンホールの前と言えば、今日吉が佇んでいるところに等しい。の影も形も見受けられないのは、言うまでもないことだ。
「俺も今同じところにいるんですが」
「あー、そっか…そうなんだ、やっぱり」
「やっぱり?」
混乱が頭を支配し始めている日吉とは違い、言い得て妙には落ち着いている。否、諦めてる、といったほうが正しいかもしれない。
「変なの、ここ、音もしないし、風もないし、人も通らない」
受話器間に流れる沈黙を、時折ザッ、と雑音が横切る。背中に汗が滲むのを覚えながら、日吉は心で何べんも落ち着け、と唱えた。マンホールはあの世への通り道、と噂されていたが、当たらずと雖も遠からずであったらしい。(あの世の定義が不明瞭というところにおいては、もはや正解ともいえる)とにもかくにも、はマンホールを介して別次元の氷帝学園に飛ばされてしまったようであった。これが書面においての出来事だったらどれだけ胸を沸き立たせたか判らないが、これだけ近い間柄の人間となると話が違うのだ、ということを、今日吉は身をもって実感している。自分がもう少し薄情だったら、混乱しない分、何かいい方向への閃きがあったかもしれない、と思うと憎らしいが、仕様がない。加えて相手は長太郎でも忍足でもない、なのだ。
「…マンホールには、乗ってみましたか?」
「うん…でもなんにも起こらない」
「そうですか…」
「あっ、日吉、駄目だよ!?」
「心配しなくても、乗りませんよ」
「…だって、日吉こういうの好きじゃん?」
「好き以上に面倒事は嫌いですから」
「えー、そうなの?ニコニコしながらキャトられそうだけど」
「…切りますよ?」
「待った、いまのなし」
自分が宇宙人に浚われて生還したら、は「よかったね?どうだった?」とかほざくんだろうか。そう考えると腹が煮えたが、今実際電話を切ってしまったら二度と繋がらなくなるかもしれないどころか、が絶望しそうなので安易には出来ない。ただ、まあ、とりあえず、
「俺は特殊な能力もないですし、解明の手立てもないですが」
「えっ、そうなの?」
「そうですよ、俺をなんだと思ってたんですか」
「きのこせいじ…」
「切りますね」
「ごめん、ジョーダン、ジョーダン!」
「こういうときに冗談抜かせるアンタの神経を疑います」
「あは、日吉と話せて、なんか安心しちゃった」
虚をつかれて、日吉は思わず舌打ちを漏らす。定めて、雑音だらけの電波には乗らなかったに違いないけれど。
(ひとの心配を余所に)
(このひとは)
たからといって、しおらしくされればこちらも狼狽えるだけだろうから救われるし救えない。自分はとんだ役立たずだ、と痛感しながら、日吉は遮られた言葉の続きを吐く。
「たぶん、さんがマンホールに乗った拍子に、タイミング悪く空間が割けて、そっちに飛ばされたんじゃあないですか」
「そうなの?」
「予想ですけど、今まで面白がってマンホールに乗る輩は他にもいたでしょうから、たまたまとしか考えがたいですが」
「なにそれ、むっちゃ不運じゃない?」
「…芥川先輩が再三そちらに電話していたみたいなんですが」
「え!なんの着信もなかったよ!」
「それは置いといて、芥川さんの発信履歴の時間帯から察するに、あるいは」
「な、なになに」
「午後4時44分44秒のタイミングで乗っかった、とか」
「……嘘、今鳥肌立った」
そういえば、そこでの怪奇現象の噂はいつも夕方界隈に片寄っていた。慈郎が部室に飛び込んで来たのは5時前で、発信履歴に表示されていた時刻は4時45分〜46分頃であったように記憶している。偶然かもしれないが、羅列する数字が力を以て磁場を乱したのかもしれない。そして、まんまとそのタイミングで戯れを起こしてしまった。本人の言う通り、これは不遇以上でも以下でもない。ただ、この仮定が正しければ希望もある。
「…だとしたら、単純に、次の同時刻を待てば戻れるんじゃあないですか」
「あっ…、なるほど、日吉はかしこいな!」
「……上から目線なのが気になりますが、一応恐縮に思っておきます」
「………でも、じゃあ、あとほとんど丸一日ここで待つの?」
「………そういうことになりますね、うまくすれば、半日後の午前4時44分44秒でも成功するかもしれませんが」
「………ここで?」
「………はい」
うう、とくぐもったような響きが鼓膜に届く。余り聞いたことのない種類の声色だと日吉は思った。懸念がありあまるほど滲み出ている。
「…大人たちへの言い訳は―――跡部さんあたりにうまく立ち回って貰うことになると思いますが」
「いや、そういうんじゃなくて」
「………はい」
「………それ、すっごく怖いんだけど」
「それは辛抱、」
「無理無理無理無理!ちょ、馬鹿!無理だって!」
「…言うにこと欠いて馬鹿とは聞き捨てなりませんけど」
「だって、だって現状日吉と話してなきゃ気が狂うよ!?この空間」
「先輩、少し落ち着」
「落ち着けるかぁーっ!!!第一、その時間が来れば絶対に戻れるって確証もないんだからね!」
どうやら、現実世界と似て非なる異空間の恐怖はことの他大きかったらしく、は受話器の向こうで絶叫した。挙げ句、語尾は再び涙を孕み、日吉は絶句する他術を持たない。すみません、と言う一語が口をつきそうになったけれど、謝ればいいようなもんでもないので、すんでて押し止める。すると、息を正しながら、のほうが頼りなく呟いた。
「…ごめん、ちょっと取り乱した」
「…気にしてません、俺も―――無神経でした、多分、少しだけ」
「本当に思ってる?」
「勿論」
「嘘くさー」
「ったく…まあ、ひとまず、不毛かもしれませんが、他の手を考えましょう」
短針はとっくに五の上を通過し、準じて日はもうすっかり落ちていた。わずかばかりの黄昏もすでにはかない。中庭は外灯があつらえてあるが、もともと夜を過ごすためのものではないから申し訳程度だ。吹く風の音が耳に痛いが、はきっとこの音色ですら恋しいだろう。証拠に、再びの熟考を始めた日吉の沈黙に、耐えかねたが啜り泣きを振り切って口火を切った。
「な、なにか妙案がありますか?報道部校内新聞係怪奇異常現象記事担当日吉若さん」
「そんな担当ありませんが?」
「えっ、そうなの?そうだとしたら片寄りすぎでしょ、記事の内容!」
「いいんですよ、良くも悪くも、こういったものはそれなりに盛り上がりますから」
「まー確かにねー…そう言えば、心霊スポットって結構あるよね、氷帝学園」
そんなに歴史も古くないのにさ、と続けてはふうと嘆息した。下手な会話の切れ目に怯えてるのか、いささか早口である。わかりやすい。
(心霊スポット)
(ねえ…)
日吉はに応対しつつ思案して、そうか、と心で小さくごちた。これが妙案かは判らないけれど。
「空間の裂け目から人ならぬものが来るなら、他の心霊スポットも似たようなものかもしれないですね」
「うん?どういうこと?」
「他の心霊スポットから、うまくすればこっちに帰れるかもしれない、ってことです」
「でも…時間とか」
「神出鬼没で目撃情報の多い霊の出る場所を当たってみればいいと思います」
「…日吉ってさ」
「はい?」
「見かけによらずSF脳だよね?」
「…ごきげんよう、先輩」
「あー、ごめん、ごめん!つい本音が!」
(なんでこんなひとのために)
(なんでこんなひとを)
首を軽く振ってやれやれと息を吐いた日吉は、ではまず手始めに、と校舎を見詰め皮切った。ここはいい塩梅に特別教室が近い。特別教室は心霊スポットの宝庫と、どこの学校も相場が決まっている。
「美術室、行ってみましょうか?右から三つ目の絵画、動くらしいですから」
「えっ、…ひ、ひとりで行くの?」
「…判り切ったこと言わないで下さい」
「ひ、日吉、絶対電話切らないでよ」
「…………、」
「へんじ!日吉、へんじ!」
「あーもう、判ってますよ」
そうして、
はカンバスに描かれた女性が動き出すという美術室に向かった。教室の状況が判らないと不便もあるだろうと思い、日吉もまた、と同じルートでこちらの氷帝学園を練り歩く。夜闇を纏う学園は、音こそあれど、人はまばらでのいる場所に近しい雰囲気を持ち合わせていた。そういえば、着の身着のままで飛び出してきたからほんの少し、いやかなり肌寒い。
「…先輩」
「うん?」
「寒くないですか?」
「う、うん、平気だけど」
「そうですか、なら良いです」
防寒着も纏ってない状態で蹴落とされたのなら相当不憫だと思ったが、どうやらそうではないらしい。身勝手に安堵していたら、向こう側で引き戸の開く音がして、それからぽつりとの声色が落下した。
「ひよしの、そういうところが好きだよ」
「………、は?」
(…いま)
さらりととんでもないことを言わなかったか、と思ったが、それは慢心するに不十分すぎる言い回しで、日吉の胃の腑でひとしきりぐるぐると渦巻いた。
(なんでいま)
(このタイミングでこんなことを言うんだ)
(このひとは)
受話器越しで本当に助かったと思いながら、熱くなった耳を抑えた日吉は、決して悟られないよう深呼吸する。は、と言えば、まるで何事もなかったかのように次の一語をほざいたから、憎らしくて堪らなかった。
「く、くらくてよくわかんない」
「…電気、つければいいじゃないですか」
「つけたはずなんだけど、なんだかよく見えなくて…、あ、あった」
「どうです?動いてますか?」
「動いてない、と、思う、…多分」
どうやら視界すら不明瞭らしいあちらの氷帝学園から、たどたどしいの挙動が伝わってくる。少し遅れて美術室に入った日吉もまたその絵画を目にしたが、深く帽子を被る女性は微笑むばかりで、矢張り決して動こうとはしなかった。
「そうですか…、とりあえずその絵画に、…乗ることは無理か…、両手でもついてみて下さい」
「適当じゃない!?」
「俺だってよくわからないんだから、仕方ないでしょう」
「…もー…、わかったよ、やってみる」
そうして、は日吉の指示に従い、おもむろに両手をカンバスにひっつけた。途端、うっ、と小さくがわめき、日吉は泡を食った。
「先輩!?」
「あー…、ごめん」
「どうかしたんですか?」
「少し、眩暈……、びっくりした」
「…大丈夫ですか?」
「うん、でも、そういえば」
「はい?」
「マンホールの上に乗ったときも、こんな感じだったかも」
「本当ですか?」
「うん」
の言い様はぼんやりしていたが、日吉はそこに一筋の光を見た気がした。存外、自分の思いつきも捨てたものではないかもしれない。
「…やっぱり…、じゃあ、次は屋上倉庫に行ってみましょうか」
「ええ、あんな暗いとこ絶対」
「つべこべ言わないで下さい…、戻りたいんでしょう」
「…………はい」
強めの口調で物申した日吉は、自分の引き出しからあらかたの心霊スポットを絞りだし、を誘導した。第三音楽室、シアタールームA、講堂の準備室、放送室…しかし、先のような気の遠くなる現象がしばしば起こるのみで、の声は相変わらず受話器の向こうで響き、途絶えてこちらにやってくることはなかった。
ついぞあらかたの場所を調べ尽くし、仰ぐ空には星がちらついている。
(…まずい)
外気は冷たさを増しているのに、焦りから日吉の額には汗が滲んでいた。自分がこれだけ焦燥しているのだから、電話の先に繋がる人はことさらだろうと思うと余計に焦りが募った。さらに言えば、もうすでにどこの部も、委員会も完全撤収を指示される時刻に差し掛かかっている。今まで人の目(主に教師の目)を掻い潜って来たが、そろそろ警備員がうろつき出す時間だ。見つかれば下校を余儀なくされる。そうすればはもちろん、自分さえ明日の夜明け前、もしくは夕方までの時間を気が気でなく過ごすだろう。もしかしたらすでに、が帰宅しないことで家の人が不穏を感じているかもしれない。慈郎は、岳人は、それに続く跡部は、果たして今どんな風に立ち回っているだろう。捜索願いなど出されてはいないか。
加えて問題はもうひとつある。日吉とはかれこれ一時間以上通話を続けており、散策の途中では所持していたバッテリーに携帯を繋いでいる。携帯を使う頻度が人より高くない日吉は、放課後になっても十分なほど充電が残っていることが常だが、もはや電池残量表示は30パーセントを切っていた。
(…そうだ)
ふと、日吉は部室の備品キャビネットに充電器が用意されていたのを思い出した。7時を回るとクラブハウスのセキュリティが強固になるから、今のうちに取っておくのが得策だ。出来れば、そんな長居をすることなく解決させたかったけれど、こうなれば仕方がない。乗りかけた船というより、むしろ船頭となりつつある自分が易々とことを投げ出すのは余りにも非道な気がする。こうなったら、とことん付き合うのが筋だ。
「次は、どこに行けばいい?」
「あー、…すみません、先輩、俺はちょっと部室に向かいます」
「部室?テニス部のだよね?」
「はい、取りに行きたいものがあるんで…、歩きがてら他の場所を考えますから、少し待ってて貰えますか」
「そっかー…じゃあ、私も部室に向かおうかな」
「…さすがに疲れたんじゃないですか?休んでるといいですよ」
「ううん、平気、そのほうが、なんか心細くないし」
しおらしいことを口にして、は軽く笑った。そのかすかな挙動が、なぜだか日吉の胸元をひどく絞めた。身体を蝕んだのが罪悪感なのか、無力感なのかは判らないけれど。
(くそ……)
自然と足早になった日吉を、不思議と感じ取ったらしいが、ちょっと待ってよ、と呟いて可笑しい。ふと振り向けばそこにが居るような気がして思わずかぶりを返しそうになるけれど、無様だからやめた。ああ、なぜでなくてはならなかったんだろう、なぜあの時間だった。このままが戻ってこなかったらどうすればいい。こんなことになるんだったら、告げておくべきだった。
(落ち着け、)
(落ち着け、自分)
思考の類いが不吉な憂いを孕んでいることを覚えた日吉は、ずいぶん前に飛び出した部室の扉に手をかける。慈郎はあのあとどうしたのかわからないけれど、鍵は開け放たれたままだ。つがいの音が耳に痛く響き、中を除くと、当然のように自分が置き遣ったものたちが机に広がっている。電気のスイッチに手を伸ばしたが、いることがばれたらまずいかもしれない、と考えた日吉は、慣れているから問題ないだろう、とそのまま暗がりに足を踏み入れた。
「何を取りに来たの?日吉」
「携帯の充電器です…確か、先輩が持ってきたんじゃなかったですか?」
「あー、あったね!部活の間学校から盗電してた!」
「…その言い方、訴えられますよ?」
「跡部がいいっつったんだからいいの!…でも、あれ…?」
「なにか?」
「いや、そのう…」
キャビネットを引いた日吉は、片手で心当たりを探ったが、それらしいものが見つけられなかったので、携帯を耳と肩の間に挟みつつ今度は両手を伸ばした。しかし、電池らしきもの、ストップウォッチらしいものは指に触れても、充電器のプラグらしきものに到達できない。それから間もなく、その答えのようなものが降ってきて、日吉は眉間に濃い皺を刻むこととなる。
「それ、わたし、なくしたかも」
「っ、はあ?」
「あ、いや、違うの、き、聞いて、日吉」
あからさまな非難の声に怯えつつ、はおどおどと言い訳の口を聞く。
「使って、そのあと、自分のロッカーにいれといたら、明くる日、なくなってたの」
「…定物定位置管理だ、って、アンタが一番口煩くほざいてた気がしますけど!」
「で、でも、もともと私のだし!その日は急いでて、それで…」
「言い訳はそれだけですか?」
「す、すみません、ごめん…」
「ったく…」
誰のために、と言ったら恩着せがましくて虫酸が走るからあえて口をつぐみ、日吉は頭を抱える。このままでは、いつ電話が切れるか時間の問題だ。そののちの自分と、の状況が手に取るようにわかるから、もはや溜め息しか零れない。
「でもね、変だったんだよ」
「何がです?」
「私が部活を辞めるちょっと前から、ロッカーの中のものがなくなることがちょいちょいあったんだよね〜」
「ズボラですからね、先輩、もともとは」
「ちょっと!!!ちゃんと毎回鍵閉めてたし!ちょっと気持ち悪かったんだから!」
「…へえ、例えば何がなくなったんですか」
「…貴重品はいれてないし、みんなのロッカーよりずっと小さいから…リップクリームとか、替えの靴下とか、髪留めとか、そんなものだけど…」
「…そんなにたくさん?」
「うん、あ、ポッキーとかアルフォートがまるっとなくなってたこともあった」
「……それは芥川先輩の仕業だと思いますが」
「私もそう思ったから問い詰めたんだけど、濡れ衣だって、一点張りでさ」
嘘を吐いてる感じでもなかったんだよね、と続けてのち、は変なの、と少々けだるげに零した。思い返して見れば、秋口にそんな類のことで慈郎とが口論していたことがあったような気もして来た。しかしお菓子だけならまだしも、その他小物がそんなに立て続けになくなるなんておかしい。簡易的な施錠ではあるだろうが、さして値段の張らない雑品のためにわざわざ馬鹿なリスクを負ってこじあけることがあるだろうか。ストーカー、というのも考えがたい、と一蹴してしまうのはいささか失礼であるかもしれないが。
(……まさか)
(いや、そんな……、でも)
(待てよ)
ふと、日吉の内側にひとつの可能性が持ち上がる。振り返れば、かつてのものであったロッカーが部室の隅、暗闇にぼんやり佇んでいた。マネージャー用にあつらえられたロッカーは、簡単な荷物置きとして機能しか持ち合わせていないから、通常部員のそれの半分しか高さがない。二段に積み重ねられている左端の上段がの使っていた場所で、そこはが最後に扉を閉ざして以来、まだ誰にも使われていないはずである。
(…………少し小さいか?)
歩み寄り、試しに扉を開いて見る。やはり、これでは幾分か心許ない、とひとりで所論を覚え唸っていると、が向こう側で、何しているの?と訝しんで述べた。日吉は手を伸ばし、ロッカーの側面を確かめるように触れながら、はっきりとした口調で物申す。
「………もしかして、先輩の小物、そっち側に飛ばされたんじゃないですか?」
「…は、…え?それって…」
「このロッカーが、人知れず心霊スポットだった、ってことです」
「え、ええええぇ、嘘でしょ」
「嘘だとしたらアンタが相当だらしないか、ストーキングを行う物好きな狼藉者がいたってことになりますが」
「…どっちも絶望的にイヤ」
「…とりあえず、今までに準じて…、と言いたいところですが」
「………何か、問題でも」
「ええ、非常にシビアな問題が」
「………なに」
「ロッカーが小さいんです」
そう、それはさっきから日吉が確認していた『サイズ』の問題であった。空間の裂け目から落ちたものはすべて小物であって、大きなもの(例えば衣類やタオルケット)は姿を消してない。となると、さらに大きな人間ひとりを運ぶだけの力が作用しているか怪しくなってくる。
「これじゃ、うまく空間が開いても、先輩が通過出来るか判りませんね」
「と、とりあえず、試してみようよ」
「………片腕だけこっちに送られても困るんですけど」
「日吉以上に私にとっての一大事だよ!?それは!」
「…とりあえず、ロッカー開けてみて下さいよ」
「うん、わかった」
発言に不服の色を滲ませつつも、は日吉の言葉に従った。そして、なんの気はなしに開いてみたロッカーを覗き込んだらしいから、うっ、とくぐもった声が届いた。
「…どうしたんです?」
「………あ、あった」
「………何が」
「リップクリームも、髪留めも、アルフォートも…………、入ってる」
憶測がほとんど事実へと摩り替わり、日吉はわずかに口元へ笑みを送る。一方は、嘘でしょ、とか信じられない、とか言う類の声をいつもより半音高めに放った。自分が得体の知れない場所に放り込まれておいて、今更何を、とも思うが。
「伸るか反るか、やってみるしかないですね」
「う、腕だけになっても受け止めてくれるのかよー」
「……それはまぁ、そのときで」
「はくじょうもの!」
ここまで助力したのにそんな銘を押されるのは不本意極まりないが、四の五の言っている暇もない。さあ、と促しの声を送った日吉は、自分が引き込まれたら世話がないと思い立ち、一度ロッカーの扉を閉ざした。
「じゃあ、とりあえず入れるかやってみる」
「お願いします」
一度液晶から耳を離し、表示を確認すると、電池はもはや残りわずかとなっていた。万事休す、という言葉が頭を過る。これで駄目なら、一度帰宅してから再度に連絡を試みるしかない。…慈郎の例を考えるとうまくいく確証は、ほとんどないけれど。
「いしょ、っと、せま!」
「入れそうですか?」
「下ならまだなんとか、いけそうだけど、っ、しょ!上だから」
「椅子使ったらどうです?」
「んなもん、もー使ってる!って、ば!」
(…あれ?)
暫く気にもかからなくなっていた雑音が、唐突にザーザーと波打ち始める。いつの間に消えかけていた希望の灯が、もう一度灯る感触がして、日吉は手に汗を握った。それに伴って、不幸にも電池切れを知らせる警告音が耳をひとしきり煽った。
(…時間切れだ)
「先輩、どうにか頑張って下さい」
「頑張ってる、よぉ!?」
「こっちで、待ってます」
「え、なにその不穏な台詞、ちょ、っと、待っ」
「待ってますから」
「やだっ、ひよ」
の声は無情にもシャットアウトされ、日吉の鼓膜にだけ残響のように溢れた。いつか、、と書かれていた名入れを撫ぜて、日吉はかぶりを下ろす。ロッカーの無機質な温度が、額に冷たい。
(うまくいってくれ、)
(頼む)
(頼むから…)
祈りというより懇願に近い気持ちで、日吉はロッカーの内側へ耳をそばだてる。性にあわない声をあげせいで、少し息があがっている。心臓だけが、いやに煩い。引き換えに、恐ろしいほど静かなそこは、向こう側の世界を彷彿とさせて、ぞっとした。どうか、どうか。
(……うまくいってくれ)
しかし、5分待っても10分待ってもが現れる気配は見受けられなかった。
「…嘘だろ」
思いがけず声色を漏らした日吉はロッカーの前で硬直する身体をなかなか動かすことが出来なかった。すぐに思考を切り替えて、別の立ち回りをしなければならない状況なのに、思考が放心しきっている。今はどうしているのだろう、と考えると、数分前まで鼓膜に宿っていた声が無性に恋しくなった。九分九厘泣いているだろう。虚勢を張る癖の意味がわからないくらい、怖がりで泣き虫なのだ、あのひとは。
なせ、どうして、じゃなければならなかったのか。
「…っわ、!?」
改めて先と同じことを強く思った直後、凭れていたロッカーが前触れもなくがたりと音を立てる。驚いている間もなく立て続けに、激しく側面を打つような音色。ポルターガイストみたいだ、と状況に似つかわしくないとぼけたことを思ってのち、すぐそれが何であるか咀嚼した日吉は、いつにない声を張り上げた。
「さん!?先輩!?」
呼応するように、扉の内側が、何か拳のようなもので強く叩かれた。間違いない、と日吉は思って、扉に指をかける。引き換えに自分が引きずり込まれても、構うものか。
「今助けますから」
開けた扉の奥は闇に包まれていて、詳細は窺えなかった。ただそこから伸びる手のひらは、まごうことなくのものである。そこから、かぼそく啼く声すらみとめられて、日吉は心底ほっとした。しかし、胸を撫で下ろしている暇はない。
「っ、く」
なるたけ奥深く腕を突っ込んで、の脇あたりをがっしりと掴んだ日吉は、渾身の力を以てこちらがわにを引き込んだ。
「った、あ、ひよ、日吉、日吉だよね!?」
「…かなり狭いですが、少し辛抱して下さい」
「うん、がんば、ってる」
甲斐あって、ほどなくロッカーの内側から、の瞳の色が覗いた。瞬くと視線がぶつかって、それからはもう、あっという間の仕事だった。抱え込むように両手で半身を引き上げて、自分の胸元に引き寄せる。体制を崩しかけたけれどすんででこらえて、ついてきたの身体をすべて受け止めた。
「ひよし…」
戻ってきたははじめ脱力してその体重ほとんどすべてを日吉に預けていたが、自分が無事帰ってきたという自覚が沸くと同時にゆるゆると自立した。曝されていた孤独の所為か、ぬくもりが嬉しくてつい涙声になったは、そのまま、日吉の胸に埋もれて涙を零し始める。
「めっっっっ…ちゃ怖かった」
「…………そうでしょうね、お疲れ様です」
「日吉がいなかったら、発狂するか、耐えかねて自殺してたかも」
「…そういう胸クソ悪い仮定はやめて貰えますかね?」
「いいじゃん、生きてるんだし」
「…まあ…あんたがいいなら、それでいいですけど」
同じ場所に立っているはずなのに、歯痒く遠かったが今ここにいて、ありていには言えないけれど、日吉は幸せだった。今このときくらいは許されるだろう、と思いながら、腕を背中に廻し力を篭めてみたら、伸びた腕が自分の肩口を掴むから泣きたくなる。
「わたしを、見つけてくれてありがとう、日吉」
くぐもった声が身体に満ちて行く。ああ、やっぱりのことが好きだ、と痛感しながら、日吉は、軽く頷き、今ひとたびその名を呟いた。
「先輩……、」
何かを言いかけた矢先、廊下を伝う人の足音がして、日吉ははっとかぶりをあげた。そういえば、そろそろ七時になる。きっと警備員だ、そうに違いない。
そう確信した日吉は、ふとまだ窓の外が暮れきっていないことに気付いて、目を見張った。
「………あれ、」
それどころか、自分は部室の椅子に腰掛けていて、目前には日誌が置き遣られている。わけもわからず時計を見ると、時刻は今まさに午後4時44分を示そうとしているところだった。しかし、廊下を辿る足音だけは徐々に大きくなり、やがて部室の前で一時停止する。慌てて立ち上がり、扉を開けると、そこには瞳をまんまるく開き、こちらを見上げるの姿があった。
「お、疲れ、日吉」
「…………お疲れ、さまです」
「ど、どうしたの、鬼気迫る顔して」
「いや…、その」
「本当に疲れてるんじゃない?日吉部長は真面目だからなあ」
たまにはサボるのだって、悪くないと思うよ、と微笑んで、は日吉のわきを擦り抜ける。
「あ、私のロッカー、まだ誰も使ってないんだね?」
「……ああ、はい」
「マネージャーって長続きした試しないもんなあ、みんな部員目当てで入るんだもん」
私を除いて、と続けて、はさっきまで日吉が座っていた場所に腰掛ける。そうして、日吉はやっとことを咀嚼する。
(………まさか)
(全部………、夢……?)
(だっ…た?)
「…、はは」
「えっ、日吉…どうしたの?気持ち悪!」
「…いえ、こちらの話です」
「どちらだよ、説明して、先輩命令」
「断固拒否します」
「もーかわいくねーやつ!」
酷い出来のB級映画程度の想像力は持ち合わせているんだな、と自分を評価しつつ、日吉は何だかひどく居た堪れない気持ちになった。ただ等しい安堵と綯い交ぜであることが救いなのか、どうかはわからない。
「委員会だったんじゃないですか?向日先輩は?」
「慈郎とマック行くっていうから、ダイエット中だし見送った」
「へえ、…でもまたなんでここに」
「日吉が多分いると思って」
は含みのある笑顔を曝して日吉を見上げる。日吉は、いやな予感しかしないと思いながら、首をかしげる。それからが口にしたのは、予想通りというか、斜め上を行くというか、そんな台詞だったから驚愕せざるを得ない。
「あのね、私あのマンホールに乗っかってみたの」
「は、はあ!?」
「勇気あるでしょ?すごくない?」
「………た、祟られでもしたらどうするんですか?」
「な、なんでそんな怖い顔すんの?あそこ、そんなにやばかった?」
「………、」
絶句して、日吉は思わずから瞳を背ける。時計は問題の時刻を過ぎ去り、あまりにも平和な時間が辺りを包んでいるから笑えた。夢の中の自分は、今頃中庭に走り出していたのに。
(これでよかった…)
(………んだよな?)
釈然としない自分の心境に疑問を覚えつつ、目前に鎮座するのロッカーを視界に入れる。掌に、のぬくもりが残っていて面倒くさい。そんなものけっして、ありはしなかったのに。
「そろそろ帰ろう、日吉」
「…そうですね、そうします」
そのまま、何の気なしにのものであったロッカーへ指をかけた日吉は、溜息交じりに扉を開いた。ギイ、という特有の音色が辺りに響き、かすかな夕日が、その中へ差し込める。
そして日吉は、我が目を疑った。
「っ、なんで…、」
どうしたの、と疑問するの声がどこか遠くで響く。それから間もなく、同様にロッカーの中を確認したが、あっ、と弾んだ声をあげた。
「あれー?充電器、あったんだー」
「………、これ、先輩が置いてった、んですよね?」
「いや、置いてくつもりはなかったんだけど、見つからなくて」
嬉しい、と感嘆しつつ、は充電器に手を伸ばす。無駄にヒヤリとした日吉は、思わずそれより先に充電器を掴んだ。唐突な挙動に、は目をぱちくりとさせている。仕舞った、と思ったが、仕様がない。
(あれ…?)
よくよく見れば、充電器のケーブルを結束しているものに、ひどく見覚えがある気がした。ドーナツ型の形状をしているそれは、テニスラケットに装着する振動止めアクセサリーである。黒の輪に、赤いブランドロゴ。…記憶が正しければ、それは昔自分の使っていたものであった気がして。
「か、かえして」
「……………これ、俺のじゃありません?」
「そ、そうだよ、…2年のはじめに、わっかに亀裂がはいってとれたやつ」
「……………なんでまた?」
「結束するのに丁度良かったから、使ってるの!もうかえして!」
「……………いいですけど、先輩、なんか変ですよ?」
「日吉に言われたくない!」
荒げた声とともに日吉の手元から充電器をぶんどったは、そそくさとそれを鞄に仕舞いこんだ。…それにしても、なくした充電器がどうしてこのタイミングで出てきたのだろう。誰かが見つけて、のロッカーに仕舞っておいたのだろうか。それにしては出来すぎてはいまいか。
「なんか変だったんだよねー、私のロッカー」
「…ロッカーまで変なんですか?」
「…聞く気がないなら話さない!」
「……まさか、ときどき小物が煙みたいになくなった、とか言うんじゃないでしょうね」
そののち、が放った一語によって、日吉の背中が粟立ったことは、言うまでもない。
「…なんでわかったの?」
「…………、…」
もう絶対にマンホールに近づくな、と帰りしな釘を刺そう、と心に誓った日吉は、続け様齎されたの一語で、やっと、何もかもこれでよかったんだ、と僅かに頬を緩めた。
「でも、これ日吉が見つけてくれたんでしょ」
「………、まあ、第一発見者的意味合いで言えばそうなります」
「そっか…、じゃあ、…見つけてくれてありがとう、日吉」
(…ああ、俺は)
(このひとが)
「……お安い御用ですよ、先輩」
木々のざわめきが窓から響き、黄昏が、の笑顔を照らしている。
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