すべては夏が元凶だ。もっと言えば梅雨のころから憎むべきものはあったかもしれない。地面を湿らす絶え間のない雨に、どこからともなく発生するボウフラ。活性化する太陽の恩恵を受け、我が物顔で飛び回る、鬱陶しい吸血虫。
「ね、ひよし」
「……はい」
「ここ、部室」
「……知ってます」
比類なき エ ネ ミ ー
朝から部室の空調がおかしかった。制御室へ赴くと、確かに設定は冷房と記されていたけれど、送り込まれる冷気はか細く、心もとない。しかし虫の息とは言え完全に冷気が遮断されると部員達はゾンビになってしまいかねないので、整備は部活ののち、夜の仕事と言う話になり、今に至っている。そんな部屋でひとりきり日吉を待つ本人は、日吉しかいないしいいか、くらいの軽い気持ちだったろう。制服のボタンをみっつめまで開け放ち、内側に風を送り込むべく私物の扇子をはたはたと仰いでいた。着替えを終え控え室から出てきた日吉は少々泡を食った。なにやってるんです、と釘を刺すと、日吉を待ってた、と検討違いの返答が漏れだして、余計に悶々とする羽目になる。そんな知れたことを聞きたかったんじゃない。まさかよもや、他の誰かがいる空間で同じことをする道理はないと思うけれど。
めのどく
という四文字が脳裏を伝う。馬鹿なんじゃないか、このひとも、自分も。控え室よりあからさまに温度も湿度も高い部室の一角で、それとは関係ない汗がじとりと日吉の背中に溢れた。さっさと帰りますよ、と継いで喉から放とうとしたしゅんかん、視界の脇で捉えていたの鎖骨界隈に身に覚えのない赤いものが浮かんでいたから息を飲む。数秒ののち、考えるより先に足が動いていたから自分でも驚いた。唐突に詰め寄られたは、たぶんそれに輪をかけて驚愕した。え、あ、と声にならない声をあげ、鼻先わずか5センチメートルのところで控えた日吉を目で追うのに必死だ。思わず手放した扇子はピシャリと音を立てて、の凭れていたテーブルの下に転げた。やや眉を潜めた様子の日吉は、のブラウスの襟をつかんでわざと少し乱暴に引っ張る。先までちらちらと見えるのみだった核心が、日吉の眼前に露呈する。
「ちょ、え、ええ?」
「……ふん、何だ」
目線の先の眉間と、襟を掴む力が同時に緩みひとまず安堵したではあったけれど、わけがわからないから釈然としない。しばたたいたのち、視線を落として胸元に送ると、そこには小さな虫刺されが、いかにも痒そうに紅く発色していた。これか、とは飲み下して、はは、と、どこか日吉を挑発するような笑みをこぼした。否、本人にはそのつもりがなくとも、多分、日吉にはそう聞こえた。それがよくなかった。
「……何笑ってんです?」
高等部氷帝テニス部、レギュラー部室はご丁寧にカードキーと指紋認証の併合で入室出来るようになっているから、平民(と、どっかの誰かは言っていた、馬鹿だ)は易々とその門戸を潜れない。しかし、裏をかえせば認証がまかり通る数少ない輩は易々と入室出来るということであった。つまり、どういうことか。組み伏された腕を縛る力に意識が持っていかれて余り巧くものを考えられないけれど、このままことが運べば非常に拙い、と言うことだけは判る。部活も終わり、全員が退室を終えた現状とは言え、誰がいつ、「忘れものしたぜ!激ダサ!」と言いながらドアを開け放つか知れたものではない。ああ、虫ごときに嫉妬してみせた(と言っては御幣がある)年下のかわいい恋人に、不覚にも笑みを零してしまった自分が浅はかだった。それは日吉のプライドを刺激するに充分な行為であったことくらい、少し考えれば判るはずだったのに。
「日吉!ちょ、タンマ!冷静に、なって、しんこきゅう!」
抗議しつつ、力だけで飲み込まれつつあるは先まで凭れていた作業テーブルの無機質な温度をブラウス越しに背中で感じて身震いする。冷静ですよ?と口先だけで述べてみた人の前髪が額に触れる。洗いざらしに近いそれはひやりと水っぽく肌を濡らして、いやに心地良いと感じた自分がいやになった。冷静なわけがあるか、と心で唱えながら、口に出来ない。口上は何かの皮切りな気がして、口を噤む。多分それもささやかな時間稼ぎにしかならないということは心のどこかで判っていたけれど、それでも。
もうどうにでもなれ。
諦めと殆ど同時に、日吉の唇の感触が咽喉元に落ちてきたから、思考は余計有耶無耶になる。さらにつべたい毛先の温度が首筋へ伴い、頭の中で何か小さくぱちんと爆ぜた。日吉の肩口で進撃を阻んでいた(つもりではあったが、抵抗出来ていたか甚だ怪しい)掌の力を緩めた刹那、無駄なことはするな、と言わんばかりに利き手の自由を奪われた。言うまでもなく、日吉の利き手は自由だから、のブラウスを暴くのも、背中で頑なに繋がる下着のホックを外すのもまるで造作のないことである。わかりやすい開放感が不安で眉を潜めると、見上げた日吉はさも楽しそうに笑んでいて憎らしい。日吉はモラリストだからかような行為も今まで御誂え向きの場所でしか遂行されなかったしこれからも多分そうだと高を括って来たのだけれど、きっとそう言う風に鬱屈した人間こそタガが外れたとき何を仕出かすか判らないのだ。
「誰かに、見つか、ったら」
「…はい?」
「見つかったら、ひよしの、せいだから」
ありったけの憎しみを籠めた瞳を、目下の人に投げたつもりだったのだが、効力は1ミリたりとてなかったらしい。返答の代わりに胸元へのくちづけを齎されてはくぐもった声を漏らした。日吉は背中が粟立つのを感じながらそのまま執拗に愛撫を続ける。ふと、眼下に先に惑わされた虫刺されの痕を見つけて下手に焦れ込んだ。戯れに舌を這わせると、が高い声でひとつ鳴いたから面白くなった。
「っやだあ、」
自分の加虐心がどのように構築されているか、まだは全て判ってはいないらしい。好都合だと思いながら、虫刺されの微かな膨らみを前歯に引っ掛ける。そうしてどさくさ紛れに、其処をきつく吸い上げた。
「っう…」
左手を口元に添えて声を抑えるを上目で確認しながら、日吉はそっとくちびるを肌から遠ざける。胸には先より赤く膨れた痕が残って、ふと笑んだ日吉を見るの瞳は非難に満ち溢れていた。
「なにしてくれてんの、もう…痒いし!」
「紛らわしいとこ刺されるあんたが悪いんです」
「すげー理不尽!日吉の馬鹿!」
「…少し、黙ってください」
半身を完全に机の上に持ち上げられて、覆い被さられた勢いのままでくちびるを奪われた。その間節ばった左手は身勝手にブラウスの中を探るから咽喉からおかしな声がよどみなく溢れたけれど、すべてがすべてその口内に吸収されて打ち消される。角度を変えて重ねられる馬鹿みたいに甘ったるいキスに苦しいとか辛いとか言う負の類の感情がいちどきに反転してしまいそうで怖くなった。きつく閉ざしていた瞼を開ければこれ以上ないほど近くに日吉の熱っぽい瞳が控えていて、ふと下腹部の奥まった部分が疼いた、気がした。そうしてすっかりその舌に応じている自分をきっと愉快に思っているだろうことは口惜しくて堪らないけれど、これはもう惚れた弱みだ仕方ない、と言い訳を覚えつつ左手をそっと日吉の首筋に寄せる。日吉のかぶりがびくりと揺れて、今度はのほうが愉快になった。反射でくちびるが離れたのは、手抜かりであったけれど。
「……こそばゆいです」
「日吉、首弱いもんねぇ」
「あんたに言われたくないんですが」
「う…んっ?」
眉を潜めながら、既に割って入られている足を指先で辿られる。膝、太もも、足の付け根。ああ、もう駄目だ、お仕舞いだ、と言う諦めの心はほんのひとさじで、心のほとんどは期待で埋め尽くされている。ひとりの人に溺れるってこういうことだと思いながら、核心に触れられたはせめてもの仕返しだ、と最後の理性を振り絞り露にした日吉の肩口に噛み付いて、そのまま与えられるものすべてに身体を委ねた。
「…ひよしのっ、ば、かぁっ」
「……止めますよ?」
「………いいもん」
「ふーん?」
「…やっぱやだ」
腰を摩りながら眼下を見詰めたは、すっかり派手になった虫刺されを改めてみとめて嘆息する。先に苦い薬でも塗っておいてやればこんなことにはならなかったかもしれない、と感じながら、見目痒さに拍車がかかったそれに爪をひっかける。結局誰も入ってこなかったから良かったものの、こんな場所を虫に刺されなければ危ない橋を渡るような行為に身を染めることもなかったんだといまいましい気持ちになった。夢中になってからはすべてがすべて興奮材料にしかならなかったけれどそれは結果論であることを女の身としては強く主張したい。依然として微風を齎すクーラーを睨みつけて、足元から救済した扇子をひらひらと揺るがせるは、ああやっぱり自分もシャワー室借りれば良かったなとぼんやり思考しつつ、日吉の鞄に視線を送った。刹那、更衣室の扉が乱暴に開き、再びのシャワーを終えた日吉が現れた。その瞳はなんだか鋭いものを孕んでいたからは言葉を失った。そしてその怒りに、いささか身に覚えがある。
「……さん」
「ど、どうしたの、日吉」
「…なんですか、これ」
「……えっ、あっ、…日吉きっちりシャツ着てるし、大丈夫じゃん?」
「…質問に答えろ」
「どうしたもこうしたも……最中につけたとしか…」
日吉の鎖骨界隈では、虫さされに似た赤い痕がはっきりと自己主張していた。肩口に噛み付いた際、どさくさまぎれに吸い付いた折のものなのだけれど、ワイシャツからはみ出るギリギリのところに配置されていてなんとも危うい。見えないところとは言えさんざん自分は吸い付いておきながらてんで不条理な物言いだと思いつつ、狙って行った感が否めないとしてはいささか口篭るのも仕方ない。瞳がぎろり、と擬音語を立ててを見据える。はひっ、と小さく鳴いた。
「…ユニフォームの場合丸見えなんですが」
「…………………………はっ!」
「…遅いんだよ、馬鹿」
俄かに伸ばされた腕が利き手を掴み、強い力で引き寄せられた。日吉は微かに微笑んでいる。いやな予感がした。
「ひ、いや、ごめんて、お許し…」
「却下」
「〜〜〜〜〜!!!!」
首筋に生暖かいものが寄せられて、身の毛がよだった。日吉のくちびるだ、と脳が理解した瞬間、刺すような痛みがちくりと駆ける。突き放そうとも思ったけれど、瞬間的にことが終わってしまい、は呆然とした。日吉はの肩口でくっと笑って、そのまま獲物を、抱き止めた。
「…このモスキートやろう…」
「…もっと刺しますか?」
「……遠慮しときます」
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