蝉が木々をつんざく勢いでけたたましく唸りを上げている。
夏の象徴とも言えるその鳴き声は一種、猛暑日が立て続く日々への悲鳴のような心地すらするのは、自分がこの暑さにうんざりしているからと言うのに他ならない。それでも、馬鹿げた贈り物の配達人を結果的に快諾してしまった自分はひどくあざとく、抜け目ないと思う。腕にのし掛かる夏の重み。今年も、でんすけ西瓜とやらは上等に仕上がったらしい。叩いてみると、いかにも身の詰まっていると言った風の低い音が指を伝って木霊する。
ゆびさきに
夏のいろ
北海道の知り合いが毎年送ってくる黒い西瓜の値打ちも知らず、振る舞われるがままに食していたけれど、ひょんなことでぽろりとその西瓜の話を溢したら、それは大層だから是非部室に持ってこい、ととある先輩が少々興奮めいて告げた。ことのおこり、発端はそんなくだらないことだ。それは高校2年の夏のことで、翌年は母が持て余すだけだから持っていきなさいと話をはじめ、しぶしぶ(嫌々、といってもいい)風呂敷包みに掌を寄せたことをよく覚えている。
「わたし、この世の食べ物の中で西瓜が一番好きかもしれない」
確か、ことの起こった一年目も、不本意な二年目も、彼女は西瓜のひとくちめを頬張って、同様の台詞を吐いたように記憶している。一年目はともかく、二年目何故彼女がそこに居たのかは不明だ。しかし、卒業した去年の三年生が集っていたこと考えると、同学年の誰かから情報が漏洩したとするのが妥当だ。しかし、ともかく、その二年目がなければ、きっとこの突拍子もないメールは俺の元に届かなかっただろう。
[でんすけ西瓜、今年も届きましたか]
差出人のは高校三年間、美術部と二足の草鞋でテニス部の補佐的業務を行っていた人だ。マネージャーというほどつきっきりでたいそれたことは行っていない、と本人は言っていたし、繁く顔を見た覚えもないから実際そうだったのだろうと思うけれど、跡部さんを始め、テニス部3年連中とはいやに打ち解けていて、ああこの人は人の心を解く術を何か心得ているのだろうとある日ふと、ぼんやり思ったのだった。
[はい、3つばかり家で眠っています]
腹の探り合いのような問答だと思っているのは俺だけかもしれないと思うといささかばつが悪い。しかし求められている言葉を送るのもなんだか癪だから、聞かれたことにほんの少しの付加情報を添えて投げる。するとほどなく、目を疑う返信が胸元の携帯に飛び込んできた。
[東京都○○区○○東1の20の14 コンフォートキャッスル303]
「はあ?」
道すがら思わず声をあげた俺はわけがわからなくなって、思わず電話帳ボタンをタップする。ほとんどやりとりの行われたことのないさんの携帯番号が液晶に浮かび上がる。
それと、携帯が着信ならではの長いバイブを刻み始めたのはほぼ同時の出来事だった。先まで液晶に浮かんだ名前と携帯番号が改めてポップアップされ、俺は少々戸惑った。
「...もしもし」
「もしもし、日吉くん、久しぶり」
その声が妙にけだるげだったせいか。
それとも、自分の呼び名がよそよそしいものにすり替えられていたからか。
はたまた久しぶりという言葉の重みを受けてなのか。
ほんの僅かな侘しさが心を曇らせたから腹が立った。
多分、輪をかけて不機嫌な声を漏らしてしまったのは、そのせいだ。
「...なんなんです?アレ」
「うちの住所」
「さんの家、大学からこんなに近かったですか?」
「一人暮らし始めたの、ゴールデンウィークから」
「はあ......、で?」
「今年も西瓜が食べたいなあと思って!日吉の!」
「.........送れ、と」
「そんな横暴なこと言わないよ!ただ」
「ただ?」
「大学行くついでに、うちに寄ってお裾分けしてくれないかなあって!」
えへへ!と笑う様子はいかにも悪びれずといったところだが、充分横暴かつふてぶてしいことに気付いていないのだろうか、と絶句する。西瓜の重みひとつとっても、伝票を書くほうがよっぽど建設的である。
「あ、面倒だったらいいよ?」
「面倒です、凄く」
「だよねー、うん、西瓜重いしねー」
ごめん、そこまで頭が回らなかったわ。と素直に謝って見せるさんに今度は拍子抜けの溜め息が溢れる。脳裏で肩を落とす彼女の絵が浮かんで、少し罪悪感が生まれるのは不覚としか言い様がない。
「夏バテでほとんどご飯が食べれなくてさあ」
「...そうなんですか?」
「西瓜だったら食べれるかなって思ったら、日吉の顔を思い出したんだよね」
「...俺の?」
「うん、まあ西瓜といえば日吉、みたいなところある」
「やめてください、その連想」
「ふふふ」
自分の顔を思い出した、と聞いて何を思ったか悟られる道理がないけれど、怖くなって暫し口をつぐんだ。さんは深い息を吐いて、何故だかぽつりと、感謝を述べた。
「ありがと、少し元気出た」
左手で強く拳を握りしめてのち、思わず言葉を連ねた自分は、打算なり計算なりするいとまなどないにせよ、定めてきっとあざとく、まあそれ以上に馬鹿だった。
「明後日の午後、大学の帰りで良いですか」
ただでさえ重い西瓜を抱えていたのに、担任の教授から家族旅行のエジプト土産を貰うのはいささかありがた迷惑ではあったけれど、艶やかな色調の機織りもののような代物だったから、さんに押し付けてしまおうとデイバックに詰め込んだ。まあこの教授がエジプトにいって長期不在を決め込まなければ俺はわざわざ夏期休暇中のこの日に大学に赴くこともなかったわけで、だからいらないものにせよ押し付けられるのくらい身勝手を承知として快諾して貰いたいところである。
[今大学を出ました。たぶん15分程度で到着します]
大学の裏門から出るや否や、メール送信をタップして太陽を仰ぐと、南中高度から傾いてなお煌々と強い熱気を放っていた。夏バテ、と言うものになった試しがないけれど、これはひどく堪えるのではないか、とぼんやり思いながら、いいえて複雑な心境で地面を蹴った。
自分の知ってるさんは夏バテなんて縁がなさそうなのに、と失礼なことを考えながら、コンビニに寄り道した俺はご丁寧に2リットルペットボトルの麦茶とスポーツドリンクまで携えて、それでも宣告したのとそう変わらない経過時間には彼女の住む建物の館名板と対峙するまでに至っていた。ポストに名前がないのは女性のひとり暮らしを警戒してのことだろう。ポケットで震える様子もなかった携帯を念のため確認するると、彼女からの返事は来ていないようだった。少しおかしく思いながら(思わせるほど、連絡はマメに行う性質の人だ)階段を上る。流石に汗が額を流れ落ち、こめかみから顎へと伝うのを覚える。三階建ての小型マンションに、エレベーターが誂えられているべくもない。
「いいんだよな、今日で」
階段を上りきったあたりでひとりごちた俺は、ここまで来たら仕方ないと嘆息して目的の扉まで歩み寄った。緊張と呼んで正しいのかわからない類の心拍数が降って沸いたけれど、やり過ごす他術を持たない。人指し指でインターホンのボタンに力を籠めると、内側から小気味良い呼び出し音が溢れてくる。
しかし、これといって返答はなかった。
「...えっと」
これはなんだ。まさか嵌められたか、とも思ったけれど、そんなに性質の悪いことはしてこない人だ、と信じたい。信じるとすればどう考えるべきか、悶々となりつつ、俺は再度ボタンを押下する。
矢張り応答はない。心拍音が別の様相をはじめて、違う種類の汗が背中を伝った。
まさか、扉の内側で倒れていやしまいか。
先日のはかない声を思い返して、何故だか俺は戦慄した。
試しにドアノブを捻ってはみたけれど、クラッチがガチャリと鈍い音をたてるのみで、言うまでもなく開く気配はない。
「......さん?」
ドアに身体を這わせて、声を送ってみる。しかし、このくらいでリアクションがあるようなら、先のインターホンで充分だったはずだ。舌打ちをしながら、握った拳をそのままドアに放る。少し強めの呼び掛けが、扉の内側から反響する。数回打って、再び彼女の名を呼んだ瞬間、事件は起こった。否、軽く事故だ、この仕打ちは。
「っ、...さん!さん!」
「......は、はぁーい...」
「っは!?」
声はいかにも恐る恐るという感情を孕みつつ、なんと背中にぶつかった。驚愕で眼を見張りながら振り返ると、自分の来し方よりひょっこり顔を出す、さんの姿。みるみる血の気が引くのを覚えた直後、今度は腹の底から沸騰するような熱が込み上げてくる。マンションの廊下が外に面していなかったのが不幸中の幸いだとか考える余裕も、この時の俺は持ち合わせていなかった。
「ごめん、ごめんてば」
「いいえ、気にしてませんよ?まったく!」
「嘘すぎるよね!?」
「いえ?さんが約束の時間界隈にうっかり携帯忘れて外出するアホかもしれないことくらい想定の範囲内だったと思うので、完全に俺の早とちりだったと猛省してますよ?」
「言葉の棘が鋭利すぎて痛いよひよし!!!!」
「...ふん」
向かい合わせで座るテーブルの上には同じメーカーの麦茶が二つ並んでいる。話によれば、家に客人を呼ぶのに気の利いた飲み物も用意されてないのに気づき、重い身体を引き摺って買いに向かったそうだ。挙げ句、携帯はとうの昔に充電が切れていたらしい上に、携帯されていなかったという有り様である。救えない。俺は注がれた麦茶を流し込んで、コップををや や乱暴にコースターへ戻す。瞬間、さんの肩がびくりと揺れた。
「…体調が優れないんだったら、家でおとなしくしてればいいんですよ」
「うん、でも、言ったって夏バテだし、ぐったりしてばかりもいられないよぉ」
ぐんにゃりとわざとらしくテーブルに突っ伏したさんの細い腕が眼前に露呈する。さほど以前を知らないにせよ、痩せたことは明白だ。キャミソールからすらりと伸びる腕には節が浮かんでいる。
「……西瓜」
「ん!」
「西瓜、要るんでしょう?」
「要る!」
かぶりをあげたさんは目を輝かせていた。やれやれと思いながら、傍らの風呂敷の結び目に手をかける。容易く結び目がほどけて、でんすけ西瓜ならではの黒光りした表皮が露出した。いつの間に身を乗り出したさんは、おお、と感嘆めいた声を漏らす。再び、やれやれと内心で呟いて、西瓜をテーブルの上へ置き遣った。
「切るのも面倒なんで、このまま持ってきました」
「重かったでしょ?ありがとう」
「いえ…食べきれないだろうとは思ったんですが」
「そう?3日もあれば余裕でしょ?」
「…お腹壊しますよ?」
三度目をやれやれを胃の腑に落としたことも知らず、いとも無邪気に、さんは西瓜の表皮を撫ぜている。
「まさか、本当に食べられるとは思わなかった」
「…あんな横暴な頼み方しておいて、よく言いますよ」
「あはは、そうだっけ?」
「まあ、ついでなんで構わないですが…そういえば、こちらこそついでですがお渡しします」
「ん?なあに、これ」
「ゼミの教授がくれたエジプト土産です」
ふわ、と変な声をあげながら表彰状授与さながらにそれを受け取ったさんは、少々うやうやしげに布地を広げて見せた。紺地に金の刺繍。美しいけれど、大学一年の男へ送る土産物としては疑問が溢れるばかりだ。時間がなくて、奥さんが適当に選んだらしいことはほのめかしていたけれど。
「すごく綺麗!いいの?」
「俺が貰っても持て余すだけですから、迷惑でなければ」
「やったー!嬉しい!この部屋殺風景だから、ミシンで端っこ叩いて暖簾にでもしようかな」
想像の三割増しで喜んで見せたさんに驚愕のような、それだけではないようなモヤモヤが胸の内側を流れる。その心境の折も、彼女はしげしげと金糸に目を細めていて、訪れた柔らかい沈黙になんだか少し居たたまれなくなりながら俺は言葉を舌に乗せる。
「殺風景、というより...」
「ん?」
「広いですよね、この家」
「あー、うん」
改めて見廻してみると、1LDKと思わしきマンションの間取りは充分なスペースをはらんでいて、大学生の一人暮らしの部屋としてはかなり贅沢な造りと言えた。殺風景に見えてしまうのは、必要な家具を全て配置してもまだ有り余る余白が存在しているからだろう。
「もともと知り合いのおうちの嫁夫婦が住んでたところみたいで、子供ができて広いおうちに引っ越すからって凄く安価で貸して貰えたの」
「ふうん、幸運でしたね」
「でも、やっぱりちょっとひとりでは広すぎるかな」
生地を丁寧にたたみながら、さんは天井を仰ぎ見る。二、三遍しばたたいて、唇を結んだ彼女は、何かしら考えているように見えなくもない。ああ、と呻き声のようなものをあげた彼女の喉元あたりに視線を這わせながら、俺はどうかしましたか、と気のない疑問符を、試験的に投げてみる。
「ひよってさ」
「はい」
「今彼女とかいるの」
なぜ。
なぜこのタイミングでその質問を。
面食らった俺は多分少し間抜けな声をあげて、だからだろう、いつのまにかぶりを下ろしていたさんはぷっと吹き出した。少々不愉快な心地に見舞われながら、とりあえず目下の麦茶の残りを飲み干して、俺は溜め息と一緒に回答を吐き出す。
「二ヶ月前に別れましたが、それがなにか」
このくだらない情報を受けてさんの双眸がどんな色に変わるのか興味があったけど、大したものは得られなかった。表情を形容するならば、いかんともしがたい表情、というのが正しい。
「そか」
そういうあんたはどうなんだ。
のどの手前まで沸いてきた台詞は何故だか音にはならなかった。俺の心の焦燥めいたものを知るよしもない彼女は猫のような伸びをして、それからさてさて、と西瓜に両手を伸ばす。まるで、なにごともなかったかのように。(事実彼女にとってはなにごとでもなかったのかもしれない。)
「冷やすにしても食べるにしても、とりあえず切らないことには始まらないよね」
「....持ちましょうか」
「平気平気、ありがとう!ひよも食べるでしょ?」
「...じゃあ、折角なので」
やはりなかったことになったらしい先の話は俺の中でだけ宙に浮いていた。ペットボトルを傾けて、麦茶を追加した俺は、頬杖をついた掌の内側に、そっと溜め息を溢す。それとほぼ同時に、立ち上がった彼女の影が揺らめいて、
それから不自然に覆い被さった。
「!?」
ぐらり
と、
崩れ落ちた彼女の半身をテーブルへ転倒するほんの間際でどうにか受け止めた。しかししなだれた片腕は重力の赴くまま空を掻いたから、麦茶をいれたばかりのコップが犠牲になって、フローリングを冷たく濡らす。西瓜は、部屋の隅に鈍い音を響かせながら転げていった。その一連ののち、やっと状況を把握したらしいのろまな頭が血液の循環を促して、いやにばくばくと大きな音で心臓が唸る心地がした。掌にひんやりとした二の腕の感触。右胸に預けられている彼女の嵩は矢張りはかない。小さな肩を揺さぶるのは憚られたから、せめてその名を声に起こす。
「さん!さん!」
「…ん、わー、…ごめん」
気絶したのかと踏んでいたから、すぐに起こった声色に酷く胸を撫で下ろす。申し訳なさからか、彼女が腕の中で萎縮したように感ぜられた。
「大丈夫…ではないですね」
「へいきだよ?ただの立ち眩みだし」
「頭から崩れ落ちるような類いの目眩は穏やかでないですが」
「へへへ…」
「へへへ、じゃないですよ…」
炎天下ほっつき歩いてるからだ、とか、わきまえず唐突に立ち上がるからだとかいろいろと難癖はおもい当たったけれど、強く言っても仕様がないから胸の内に押し留める。その気持ちが態度に露呈したのかもしれない、ほどなく、彼女はくぐもった声でごめんなさい、と小さく告げた。こういうとき、どうしたらいいのかよくわからず、ほとほと当惑しながら、一か八かという心持ちで手を伸ばす。自ら触れて見た彼女の御髪はすべらかで心地良かった。胸に埋もれているさんがどんな顔をしているのかは判らない。
「俺が切り分けて来ますから、あんたはそこで座ってて下さい」
「え、悪いよ!ひよ、私や」
「聞こえませんでした?あんたはそこでおとなしく座ってろって言ってるんですが」
「でも…」
「いいから、四の五の言わずに座ってろ…」
「は、はい…」
完全に押し負かされた形で下肢を張り付ける羽目になったさんは罰が悪いような、釈然としないような顔で肩を落とした。溢した麦茶を片付けさせて(もちろん、自ら引き受けたことだ)なお作業を頼むのは気が引けるのかもしれないが、このときばかりは状況をわきまえて貰うのが最良に決まっている。刃物を持ったまま気絶されたら、今度こそどう転ぶかわからない。
包丁の場所を聞いてのち、西瓜を抱えてカウンターキッチンの内側に侵入した俺は、さんの視線をこめかみあたりに感じつつ、丁度視界に入ったまな板を取り出す。
「どのくらい食べるんです?」
「んー、半分の、半分の半分くらい?」
「八分の一!?大きくないですか?」
「だって、部室ではいつも申し訳程度しか食べれなかったし」
とは言っても、これから有り余るほど独り占め出来るじゃないか、という疑問は今の彼女にとってきっと実に不毛だ。俺はそうですか、と呟いて、包丁を取り出すと、黒い表皮をいちどきに突いた。瓜科特有の水っぽい香りが鼻腔をくすぐる。半分になった西瓜の片側がごろりと倒れ、真っ赤に熟れた可食部が露になる。さんが思わず立ち上がりそうになっていたけれど、俺の言葉を思い出したのか、一瞬腰を浮かせるだけに留まった。少し可笑しい。
冷蔵庫は一人暮らし用にしては大きめのものが誂えられていたから、残りの西瓜四分の三個分は容易とはいかないまでも無難に収まった。まな板のまま出すわけには行かないから、食器棚を開けて、大きめの皿を物色する。
「……あ」
「………どうかした?」
「いえ、なんでもないです」
一度動きを止めた俺に小首を傾げて見せたさんを、お門違いにも憎らしく思いながら、俺は目下の白い大皿に手を伸ばす。
「塩、いいの?かける派だよね?」
どうやら以前部室に西瓜を持って行った際、俺が塩まで持参して来たことを律儀に覚えていたらしい彼女は、西瓜を目前に差し出されるやいなや遠慮がちに質問した。
「…余計なこと覚えてますね」
「いや、塩くらいはあるからさ、うちも」
「別に、自分のために持ってったわけじゃありません」
「なんか、期待を裏切らないよね?ひよしって」
「…どういうことですか」
「西瓜に塩かけて食べそうだな、ってこと」
「意味がわかりませんけど」
再び向かい合わせになった俺たちは、どちらからともなく西瓜に手をあわせる。おいしそう、と彼女は笑いながら、西瓜に手をかけ、おもむろに頬張った。
「んむ、おいひい!」
「そうですか」
「あー夏が来た」
大袈裟に嘆息する彼女を尻目に自分も西瓜に唇を寄せる。果肉を齧ると、惜しみのない甘さが口の中を飽和させた。美味しい。さんのけれんな一語もあながち間違ってないと思わせるような夏の味だった。
「やっぱりこの世の食べ物の中で一番好きかもしれない」
「それは、良かったですね」
「ふふ、ありがとう、ひよし」
「どうせ、貰いものですから」
大それたことはしてないです、と二口目の西瓜を口に含む。さんは人差し指から滴る西瓜の果汁を舐めとって、そのまま指先を小さく食んだ。まただ、また何かを考えている、と俺は思って、あえてそこから視線を逸らす。すると、直ぐに次の言葉がこちらに振って沸いた。
「西瓜もそうだけど、逢いに来てくれて」
ふとまた視線を彼女に戻すと、すでにさんの興味は西瓜の甘みのほうへと移っていた。俺は感情が混線するような心地で、むしゃくしゃしながら再び西瓜を齧る。
俺がいとも容易くその手薬煉に指を絡めたわけを、彼女が理解しているとは到底思えない。しかし、彼女は女で、俺は男で、ここは所謂密室空間だと言うことくらい認識していないほど彼女も愚かではないと思いたい。矢張り先の突飛な質問の際、勢いに任せて投げつけておけば良かったのだ。今彼女が誰かのものであるか否かを確認する一語を。そうすれば、誰と付き合っても忘れることのなかった積年とも言える思いの丈をこの際ぶつけておくこともやぶさかではなかった。食器棚の隅に蹲る、ペアマグカップを目視するその前に、きっと、片をつけておくべきだった。
生ぬるい沈黙が流れ、時折互いが西瓜を食む小気味良い音が通過する。西瓜の可食部が終われば、たぶんきっとこの空間は仕舞いだ、とは思ったけれど、どうすることもできないまま、いずれ皿の上には西瓜の皮と、黒い種だけが取り残されるだろう。窓の外を見れば、すでに夕方の色味を空が連れてきていたから余計に憎らしくなった。
「…ひよしはさ」
ふと
さんがひとりごとのように、小さく沈黙を裂いた。俺がはい、と応じると、なぜだか少し言い難そうに伏し目になって、それからぽつぽつと言葉を継いだ。
「一人暮らし、とか、考えない、の?」
「…考えないことはないですけど、…実家から大学遠いですし」
「…そか」
先刻と同じ類の返答をされて鬱屈した俺の言葉尻は、少し鋭利であったと思う。
「さっきから、何なんですか?」
「……あ、ごめん」
「さして興味がないなら、真面目に答えるのも馬鹿げてるんでやめて欲しいんですが」
「や、違うの、あの、あのね」
苛立った俺を見て相当狼狽した彼女は、えっと、とか、その、と言うような場繋ぎの言語をとことん繋げてのち、青くなって赤くなった。なにがなんだかわからないけれど、滑稽なその様子に腹を立てたのがつまらなく思えてきた俺は音もなく息を吐き、玩具めいたその様子をじっと見詰めている。ほどなくして、さんはやっと言葉を継いだ。もう終わりに近づいていた西瓜に送り込まれていた視線が、すっと真っ直ぐこちらを捉えたから、ほんのわずか心臓が高鳴った。
「……このおうち、ひとりじゃ少し、広すぎるみたい、で」
先刻口にしたのと似通った類の台詞を、浮かべたさんの面立ちは少々強張っている。俺はそれを受けて瞳を数回しばたたいた。咀嚼するにはいささか厄介な代物だった。胃の腑に落ちていったところで、果たして正しく消化できるか怪しかった。
「……それはさっき聞きましたが」
「それはそうなんだけど、そうじゃなくて」
「まあ……それはそれとして」
「……うん?」
「なにかいろいろ…すっ飛ばしている気がするんですけど」
「さ、察してよ」
耳を赤くしながら、さんは最後のひとくちを齧って涙目になる。俺はなんだか酷く脱力しながら、煩悶とか焦燥に別れを告げた。西瓜を利用して見えようと先にはからったのは、どうやら彼女のほうだったなんて、誰かとわけへだてることなくあっけらかんと自分に接していた彼女から、誰が想像出来ただろうか。
俺はもうどうでもいいやと言う気持ちになりながら、先刻まで決意めいていた台詞をするりと吐き出した。
「俺はずっと、さんが好きでしたけど?」
彼女がこれ以上ないくらい瞳を見開いて呻いたから、可笑しくなった。
「あんたはどうなんです?」
「…いや、その、あのう…」
「単なるルームシェアの相談なら、他をあたって欲しいんですが」
「ひよし、性格悪い…」
「…じゃあ嫌いですか?俺のこと」
「いや、それは…」
さんざん彼女をつついて、自分を好きだと言わせた頃、空は黄昏に包まれていたけれど、先刻と違い追い立てられているような心地には見舞われなかった。傍らに引き寄せて、改めて胸に抱いた彼女のからだは冷たかったけれど、くちびるは相反していて、言うまでもなく、西瓜特有の甘い香りが鼻腔を擽った。
暑さも薄れ、もうすぐ講義が本格的にはじまるという9月の終わり、俺は自分の荷物をあらかた彼女の家に運び入れ、晴れてその家の住人になった。荷物の整理が終わると同時に、お世話になりますと言う言葉と同時に母からの手土産の梨を渡したら、私は梨が世界で一番好きだとかほざきやがったので西瓜じゃなかったのかと強く突っ込みを入れたらどちらも一番だと言いながらキッチンへ逃げ去った。早々、梨に包丁を入れ始めた彼女に大きな溜息を吐いて、皿を用意しようと食器棚を覗くと、以前隅に追いやられていたマグカップが中央に鎮座していたから泡を食った。
「…さん、このマグカップ」
「ああ、そのマグカップ、かわいいでしょ?取っ手が腕組んでる形になるんだよ」
「……前隅に追いやられてませんでした?」
「彼氏が居るって勘違いした友達が引越し祝いでくれたんだよ…、だからずっと使ってなかったんだけど」
俺の気持ちなど露も知らない、知るよしもない彼女は事も無げに真実を告げた。無論、誰をも攻められない俺はひとつ大きな溜息をついて、どうしたの、と疑問する彼女に、首を振る他術を持たなかった。折角だから、と紅茶のティーバックを取り出したさんは、マグカップにそれを放り込んで、ポットから熱湯を注ぐ。梨と紅茶、変な取り合わせだと感じながら、カウンターキッチンの中で、小さく乾杯をした。
これからどうぞよろしく、の意味を込めて。
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