春爛漫の気候から一転、気まぐれな空はいやに冷たい風をもたらしている。完全に騙された、と内心で舌打ちをして、はマンションの扉の前に蹲った。日吉はゼミの飲み会で遅くなる、と言っていた。居酒屋は大学の学生に贔屓にされているところで、自分も幾度か足を運んでいるが、メニューがどれも安くて美味しい反面、半地下の店内はろくに電波が入らないことだけが学生たちの不満であった。だから、幾度となくコールした電話先で受話器を取る(口にしてみて判るけれど、古い言い回しだ)のが、憎らしいあの女であるのは仕方のないことだった。
-おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか
電源が入っておりません-
スマートフォンの充電はもう3パーセントしかなくて、心許ないからポケットに仕舞いこんだ。暇を潰すツールさえなくなってしまったの口からは溜息が滲み、それはかすかに白く残響する。あまり携帯に重きを置かない日吉のことだ。充電が切れているのに気付かないこともザラで、だから電波の届かないところにあるのか電波が入っていないのかはもはや日吉自身すら与り知らない可能性がある。
なぜこんな寒い廊下でが蹲っているかと言うと、理由は単純明快。日吉より先に家を飛び出し、鍵を所持するのをすっかり忘れたというただそれだけのことである。間が悪いことに、大家さんも電話に出てくれない。こういうとき管理会社が傍でないマンションはいささか不便だ、とはしみじみ思った。
「はやく帰ってこないかな、ひよ」
腕の時計を見ると、時刻はもう22時を廻っている。は飲み会となるとこんな時間を廻るのはザラでその度日吉を不快にさせるのだが、日吉はだいたいすでに帰宅して、酔い醒ましのコーヒーを煎れて欲しいと頼んでくる時間帯だ。カフェインは酔いを助長させると思うのだけど、日吉は決まって煎れたばかりの温かいコーヒーを片手に、狭いベランダに誂えたスツールに腰を引っ掛けて夜風を浴びる。俺はそうすると酔いが醒めるんですと言って聞かない。病は気から、のようなプラシーボ効果だと咀嚼しつつ、何も言わないのは年上の恋人のたしなみだとは思っている。ベランダにスツールはひとつしかないから、無理くりリビングの椅子を持ち込んで、自分は二杯半の砂糖をかき混ぜた甘いコーヒーを飲みながら日吉の火照った顔を眺めている時間は好きだ。少し饒舌になった日吉が、繰り出す他愛もない会話の糸口もまた。
そんなことを考えていたら、むしょうに温かいコーヒーが飲みたくてたまらなくなったけれど、自販機に行く間に、日吉と入れ違いになったらと思ってやめた。自分がいなかったら、日吉はきっと心配するに違いないだろう。自分がさして連絡もなく、遅く帰ってきた折と同じ皺を眉間に寄せるかもしれない。酔っ払って上機嫌なはその皺を擦って消そうと試みたりするのだが、容赦なく手は取り払われる。そして降ってくる低い声。
「少しは学習してください、あんた馬鹿ですか?」
あんたみたいな女でも、悪さを働こうとする輩はいる物騒な世の中なんですから、とくどくど言い始める日吉の声を、酔いが廻ったはどこか頭の片隅で、それはもう片手間に聞いている。とりあえずうんうんと返事はしてみるけれど、日吉の顔をじっと見ていたらなんだかその唇に触れたい衝動が沸いてきて、そんな折のタガは非常に外れやすいものだからそう思った次の瞬間には日吉の唇を塞いでいたりする。ごめんね、すきだよ、と囁く声は、果てしなくただただ女のものだなぁ、と自分で自分を愉快に感じていたら、ホントに馬鹿ですね、と短い嘆息。その手に主導権のようなものを握らせた自分は小悪魔ってやつかもしれない、と、逆に押し付けられた唇を感じながら、はにへらと笑うのだった。
ああでも今になって判る。有耶無耶にしてきた日吉の焦燥と心配は多分こういう類のことなんだろうと。もしやまさかとは思うけれど、ゼミにいる後輩の女の子と二人きりで飲む運びになって、そのまま泥酔させられて過ちを犯していたらどうしようとか、すれ違い様自暴自棄になった男に刺されていたらどうしようとか、危ない犯罪組織の取引現場を目撃してコンクリート詰めにされて…、とか、これは少し非現実的かもしれないが。
妄想したら堪らなくなって、バッテリーが×印になる前に、もう一度連絡を試みた。不機嫌そうな日吉の写真が画面に踊る。しかし、無常にもコール音は鳴らず、矢張り聞こえてくるのは先の声である。指先が酷く冷たくて、泣きそうになった。今日に限って、何で鍵を忘れてしまったんだろう。
【おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか電源が…】
「ひよし、日吉ぃ…」
膝小僧の間に顔を埋めて、は涙声になった。次の飲み会は絶対早く帰ります、早く帰れなそうなら、早めに連絡します。と心で呟いてのち、肩の震えと一粒の涙。いやに大きく響く車の通過音が虚しい。
「………何してんですか、さん」
「ふわっ!?」
少し遠くで響いた声に驚いて、顔を持ち上げると、エレベーターの前から、日吉がえも言われぬ顔でこちらを見ていた。日吉だ、と、はありふれたことを思って、迷子の不安から開放された子供宜しく、ことさらに涙腺が緩むのを覚える。
「びっ、くりした」
「完全にこっちの台詞だろ、それは…、てか、泣いてんですか?」
「か、鍵忘れちゃって、待ってた」
「それで、泣くんですか、あんた」
「ちがう……」
目前まで詰め寄った日吉が、蹲るを見下ろす。慌てて涙を拭ったは、おかえりなさい、と小さく呟いた。
「遅くなってすみません、携帯の充電切れてたみたい、でっ!?」
前触れもなく立ち上がったは、日吉の首元に絡み付いた。冷えた身体に、酔って温まった日吉の体温が馴染んで心地良い。日吉は暫くそのまま固まっていたけれど、暫く経ってからふ、と小さく笑いを漏らしてジーパンのポケットから家の鍵を取り出す。がどこうとしないので、仕方なくそのまま鍵を開ける。左手なので少し廻し難い。
「ほら、ただいま、さん」
「……うん、コーヒー…」
「今日は、……仕方がないので俺が煎れますよ」
何が仕方ないんだろう、と思ったけれど、玄関に入るまでのほんの短いひととき、冷たい指先を握ってくれたから、ああそういうことかとなんとなく理解した。何分今日は寒いから、カーテンを開いて、部屋を暗くして、アロマキャンドルを焚いてみたりして、そんな酔いの醒まし方もいいかもしれない。ソファで寄り添いながら、いつのまにか朝がやってきたって、明日は幸いなことに休日だ。
とりあえず、今のうちに鍵は鞄に仕舞っておこう、と、はキッチンに向かう日吉の背中を緩む頬で見詰めている。
「何笑ってんです?」
|