夜の色味を帯び始めた空を仰ぎながら、二人はいつも通り近からず遠からず、の距離を保ちつつ、ぼんやりと並んで正門を目指している。春を間近にして、最後の足掻きと言わんばかりの北風がびゅうと吹き抜けると、は小さく唸って、暫し歩みを止めるが、日吉はそのさまをしれっと見つめているし、決して立ち止まったりはしないけれど、実のところほんの僅かに歩く速度を落としている。そしては勿論日吉の些細な優しさに気付いているけれど、あえての指摘は怒りを買うかもしれないから厳禁だ、と言うことも痛いほど判っていて、だからマフラーの下で笑みを噛み殺していることも絶対に悟られてはならない。ほどなく校門を潜れる、と言うところで、がふと風もないのに立ち止まるから、不思議に思った日吉は流石に歩みを止めて振り返る。首を傾げると、まるで用意されていたかのような(実際用意されていたのだから仕方ない)驚きの声が、鼓膜に届いた。

「あっ!」
「……はい?」
「ごめん、ひよ、私、忘れ物しちゃったみたい?」
「………別に、大したものじゃないなら明日にしたらいいんじゃないですか?」
「えっ!いや、大したものじゃないんだけど、いや、まぁ大したものなんだ、っていうかその、す、すぐ戻るから!待ってて」
「………早くして下さいね、寒いんですから」
「うん、ありがとう!ごめんね!」

日吉はぱたぱたと部室の方向に走っていくの後ろ姿を眺めながら、嘆息した。

「バレバレなんだよ、バーカ」


とチョコレート


誰よりも早く部室を後にしたはずだから(正しくは日吉に次いで2番目だけれども)多分まだレギュラーメンバーは部室に居るはずだ。校庭は幸い誰もいない。突っ切ったほうがずっと早いから、陸上部の直線トラックに沿って駈け抜けながらは自分が何をやっているのか、一瞬わけがわからなくなった。クラブハウスに到着してテニス部の文字が見えた頃のは、もはや外の温度とはうらはらにすっかり暖まっていた。背中に汗が伝う。おざなりなノックを響かせて、扉を開くと、視線はいちどきこちらに一点集中する。呆気の瞳を総取りする中で、唯一長太郎だけが、あれ、せんぱい、と口を開いた。

「じゃーん、みんな!チョコレートの妖精が現れたよ?」
「…帰れ」
「おい、せっかく正門からここまで全力疾走してきたのに帰れとは何だ帰れとは、お前が帰れ、クソ宍戸」
「口悪!」
「くちわっり!」
「口悪いなぁ、

ソファに座る三人から不名誉な三連コンボを頂いたチョコレートの妖精・はぎりぎりと奥歯を慣らしながらマネージャー用の備品ロッカーに手をかける。中は鮨詰め状態ではあるものの、意外に几帳面に整頓されていた。下段脇にユニクロの白い紙袋が窮屈そうに挟まっている。は新品のタオル類をかき分けて、紙袋を取り出すと額の汗を拭ってから、改めてみんなに視線を送った。

「あれっ!?萩やんは?」
「あん?知らねえよ」
「知っとけよ、部長だろう!?跡部、仮にもさ」
「仮じゃねえ!」
「えー困るなあ、まだ全員居るだろうと思って戻ってきたのに…」

眉を潜めながら紙袋に手を突っ込んだは、袋の底を覗きこむようにして中身を探っている。部員一同はその様子を怪訝な顔で見ていたが、扉を開け放って冒頭の台詞より、これから何が行われようとしているかはなんとなく理解していた。大方の予想通り、中から取り出されたのはセロファンでそれらしくラッピングされた小包、定めて、中はチョコレートスイーツだと予測できる。何を隠そう、今日は乙女の祭典・バレンタインデーなのだ。ご丁寧にレギュラー全員分のチョコレートを用意したは、これを渡すために正門から校庭をすり抜け、部室までわざわざ戻ってきたのである。そして、この流れはが夜も寝ないで考えていたひとつのシナリオだった。

「じゃあとりあえず跡部、もうトラックは行っちゃっただろうから、面倒を承知で持ち帰って下さい、捨てるなら、家で捨てて下さい」

あ、義理だよ?あ、友チョコ?と付け加えられ、チョコを突き付けられた跡部は、何だか屈辱的な気持ちになりながら小包を受け取った。いやと言うほど本命チョコを突き付けられ、高等部に入ってからはトラックの出動すら余儀なくされる大層な身の上だと言うのにも関わらず、こんな風についで感満載で渡されると逆に印象に残って後世まで語り継げてしまいそうである。しかし、貰ったチョコのクオリティは見た感じ他の本命チョコさながらで、挙句例年通り感謝の手紙めいたものまで誂えられているから、判ったじゃあ捨ててやると言う類の憎まれ口も安易に叩けない。

「あん?たいがいマメだなお前も?」

…と、一体全体悪態なのかそうでないのか判らないリアクションを取るのが関の山である。

跡部が手紙の封を開け始めたのを尻目に、宍戸たちの腰かけるソファに歩み寄ったは一見ビジネスライクな感じでひょいひょいと小包を投げて行く。その男らしいさまはとてもバレンタインチョコを渡す女の子のそれには見えないなあ、と、何気に酷いことを思いながら、鳳はその様子を微笑ましい様子で見つめている。

「ほらよ、宍戸、がっくん、忍足」
「雑じゃね!?俺ら雑じゃね!?」
「うるさい、宍戸、黙れ、宍戸」
「ラッキー!何気にのチョコ美味いからな!なあ、今開けてもいい?」

さすががっくんはかわいいこと言うな、宍戸とは大違いだ、と思いながら隅でいびきをかく慈郎の掌にしっかりと小包を握らせただったが、直後ふわりと素朴な疑問が脳裏に宿って、首を傾げる。

「ラッキーって何さ?」
「そら、あれやろ、本命がおるのに今年も貰えてラッキーちゅうことやて」
「あっ、みなさんそのことなんですけど」
「…わかってるって、大変やな?

にわかに立ち上がった忍足がうんうん、と頷きながら、歩み寄ってきたので何だがぞっとした。慈郎のほっぺをぷにぷにするのを中断して立ち上がったは、何よ、と警戒した様子で忍足から離れる。なんでやねん、と呟いた忍足は、溜息を混じらせながら、しかし一発必中での図星を突き刺した。

「日吉がうるさいから貰ったことは言わんといてって言うんやろ?」
「な、なんでわかっ…」
「そらわかるわ、そないに息切らして戻って来よったら」
「い、いぃ急いでただけかもしんないじゃん」
「ほうか?大方忘れ物したから待っとけ言うてきたんちゃうん」

いよいよ返す言葉がなくなったは、肩手に樺地への小包を携えながら、耳まで赤くなった。そして、そのまま自分の靴を磨いている樺地の所へ歩み寄り、物陰に隠れるようにそっと寄り添う。

「樺地、いつも癒しをありがとう?」
「は、はい…」
「…話逸らしおったわ…」
「うっさいなー、チョコレートの妖精はみんなにチョコレートを渡す使命があったんだから仕方ないでしょ?だいたいいいじゃん、友チョコなんだから、男に渡そうと女に渡そうと関係な」
「お前、それ若に言ってもいいのか?」
「すみません、宍戸さん言わないで下さい、この通りです」
「…変わり身早すぎやろ?」

樺地の肩を借りて反省のようなポーズをして見せたは、皆の溜息とせせら笑いを受けながらなんとなく日吉への謝罪を心に浮かべる。
北風をその身に受けながら正門の近くで待ちわびているであろう自分の恋人は、一見こういう部分に許容がありそう、というか関心がなさそうに思えて実は頓着する性質だったから、男女とも交際範囲の広いにとっては非常に決まりが悪かった。慈郎といつの間に寄り添いながらうたた寝してしまったときは暫く不機嫌だったし、数日前悪戯に滝に抱き付いたときの鬼の形相は多分一生忘れられないんじゃあないかと思う。そういうところ非常に意外性があってとっても可愛い我が年下の恋人だと思ってはいる(怒られるので絶対に口にはしない)のだが、バレンタイン=感謝の気持ちを伝える日、という若干間違った捉え方をしているにとって、本命チョコ以外を制限されるのはいささか不本意だった。でもきっとそういう自分の考えのほうが不本意だと日吉が感じていることもは痛感していたから、だったらこうするより他ない、と、実行したのが、忍足が説明した件の陳腐なシナリオなのであった。ぐすんぐすんと嘘泣きをしながら 、は長太郎に歩み寄る。長太郎は 、笑いながらまあまあ、との肩を叩いた。

「平気ですよ、なんだかんだ日吉、優しいです(多分!知らないけど!)から」
「うん…ありがとう長太郎ちゃん…、あと、ハッピーバースデー?」
「あ!ありがとうございます!」

一回り大きな包みの中には、水色に青の刺繍がほどこされたスポーツブランドのリストバンドとタオルが透けて見えた。長太郎は照れ笑いしながらそれを受け取ると、もう一度改めてありがとうございますと呟く。

「長太郎ちゃん、16歳の抱負を聞かせて?」
「えー…思い浮かばないなあ、やっぱり世界平和ですかね?」
「うふふ、長太郎ちゃん可愛いなあ(馬鹿で)」
「…跡部へ、もう跡部と知り合って早5年の月日が経とうとしていますね、なんだかかんだ喧嘩もしたけれど跡部のことはいつも凄」
「おい、そこ、読むんじゃねえよ!バカ!」
「あん?どこの誰とっつかまえてそんな口聞きやがる」
「広辞苑で『デリカシー』の部分千切って呑み込んでちょうだい!あーもう立ったまま気絶するかと思ったわ…」

唐突なネタ振りに、早々吹き出したのはソファ組である。しかし、直後余りに鋭すぎる眼光が三人から奥に佇む発言者へ向かって放たれたから、三人はしれっと別の行動(携帯を覗く、雑誌を見る、帽子を脱いでみる)に身を任せる。そんなことより夜に書いたしっとりムードの手紙を読まれることのほうが一大事であるは、眼光やら眼力やらなどどこ吹く風だった。

「テメエ…二度と日吉に逢えなくしてやろうか?」
「えーマジマジ怖いC!」
「おい、やめとけって…、戸籍ごと存在を消されんぞ?跡部に」

岳人に釘を刺され、ふわい、と気のない返事をがしてのけた頃、不意に部室の扉が開いた。そこには、先刻いつのまにいなくなっていたらしい萩之介が佇んでいる。

「あっ、萩やん!よかった、帰ってなかったんだね?」
「うん、担任に呼ばれててね…、どうしたの?
「萩やんに友チョコ渡そうと思って、戻ってきたの!」
「あー、なるほど」
「ん?なるほど?」

あはは、いやいや、と緩やかに笑んだ萩之介に、は首を傾ける。とりあえず、小包を渡したは、どうしたの、と何気なく尋ね、萩之介はありがとう、とマイペースに返答したのち、先の言葉を継いだ。

「日吉が昇降口でがたがた震えながら待ってたからさ」
「え、うわ、わああ!萩やん、何でそれを早く…」
「うん?もさして焦ってないみたいだし、なんか目つきも悪くなってたけどあれはあれで面白かったから、ほっとくのもいいかなって」
「よくないよ!?萩やん、全然よくないから!萩やんのときたま何故か人間的に欠落した部分こそ面白くて凄く好きだけどなんだろう、今は凄い怖い!」
「てかー、が結局長居してたんじゃん?かわいそー日吉、なははは!」
「く、くそくそ岳人!帰る!」

ユニクロの袋を投げ捨てたは、引き換えに鞄を抱えて萩之介の脇をすり抜ける。にたにた、と言うみんなの視線が痛いけれど、構うもんか、と耳を赤くしながらは涙目になった。

「じゃあね!はぴばれんたいん!」
「フラれへんとええな?
「え、やめて、そんなことになったら、私…」
「私…なんだよ…」
「いや、な、なんでもない!」

踵を返したは、言いかけた言葉を酷く後悔しながら、クラブハウスを飛び出し、トラックに向かう角を曲がる。昇降口まで日吉が戻ったのは、きっと正門の風当たりが強すぎた所為だ、と言うのは容易に想像がついた。そりゃそうだ、あのあたりはほとんど何もなく、吹きさらしに近い。ごめんね日吉、さすがにごめんね、と何度も心の内側で唱えながら、は鞄の中でしっかり守られた本命チョコレートと日吉のことを交互に考えながら、渡り廊下を突っ切って昇降口の方向へ曲がった。昇降口の脇からひっそりと見える大きな影。あれが多分日吉に違いない。は恐ろしい気持ちと高揚感のようなものを綯い交ぜにした胸を押えながら、一旦停止して、一度だけ大きく深呼吸した。それから改めて歩み寄ると、こちらに気付いたらしい影が大きく揺らめき、いやに低い声を送りだした。

「………遅い」
「ご、ごめんね、本当ごめんなさい!」

スライディング土下座にさしかからんばかりの勢いで頭を下げたに、露骨な溜息を漏らした日吉は、嫌味たっぷりの口調で言葉を投げる。

「…そんなに大事な忘れ物だったんですか?」
「う、う…うん!ていうか、なかなか見つからなくて…」
「なるほど……」
「うん…」
「滝さんが職員室に居ましたからね?」

言いながら、日吉は斜め頭上、2階に煌々と照る職員室の明かりを指差す。はその言葉の意味が一瞬わからなかったが、理解してゆく工程でするすると血の気が引いた。

「す、すみません…」
「いーえ、別に?気にしてませんけど?」

日吉はマフラーに口元を埋めながら、いやに冷めた瞳でこちらを見降ろしている。絶対嘘だ、と心で呟いて、はじわじわと迫る罪の意識に苛まれ始める。同時に、去り際忍足が言った言葉がふと頭を掠めて、急激に不安が募った。

「や、やだっ!」
「………は?」

ポケットに突っ込んでいた左腕を掴まれて、眉間の皺を深くする。こちらを見上げてくるの瞳は少し潤んでいて、頬はいやに赤かった。いや、これはきっとここまで走ってきた所為だけれど。

「ひよしに嫌われたら、死んじゃう…」

てゆうか、爆発する、自動的に、と唸るように続けたは、唇を噛んで、またさらに赤くなった。これは多分、疾走が由来のものではないだろう、と日吉は思いながら、口元に空いているほうの掌を寄せる。

「…ぶっ…く…、あはは…」
「う、うわ、言わなきゃ良かった!言わなきゃよかったよ、わー!」
先輩はほんっと…どうしようもないですね?」
「あ!手酷い!」
「どうしようもなく俺のこと好きですね?」
「あ、それは、もう…はい…」

際限なく赤くなるを見ていると、あながち爆発出来ると言うのも嘘ではないかもしれないと思いながら、日吉は断続的に笑い続ける。は、と言うと、羞恥心に苛まれながら、なんだか日吉がご機嫌になったようなので結果オーライ、とのんきなことを考えていいる。笑いがおさまりかけて、左手をポケットから引き抜いた日吉は、やれやれと言う風に息を吐くと、そのまま掌をに差しだす。

「……で、何か忘れてるんじゃないですか?」
「わ、忘れてないよ!」
「そうですね?そこまでされたら流石の俺もブチ切れるを通りこして呆れます」
「美味しいものは最後残しの私ですよ?」
「腹が減ってるときに食べたほうが美味しい、という考えもありますけど」
「え、今、何の話してるんだっけ?」
「…先に始めたのはそっちじゃないですか」

えへへと笑いながら鞄をまさぐったは、さっきの小包よりふたまわりは大きい紙袋を取り出す。ご丁寧に造花まで添えられているけれど、その他小包と自分への贈り物の相違を日吉が知ることはない。はうやうやしく持ち上げたそれを、表彰状授与さながらに掲げて、ぽつりと言葉を添えた。

「若くん、好きです、つきあって下さい」
「…もう付き合ってますけど?」
「いやいや、思い出そうよ?あの時の新鮮な気持ち?」
「新鮮も何も…まだ数カ月じゃないですか…」
「そうだっけ?えへへへへ…」
「まあ良いです…、ありがたく頂戴します」

日吉もまた綺麗にひとつ礼をして、の手から贈り物を静かに受け取る。上目でちらりと盗み見た日吉の面立ちは柔らかくほころんでいて、の心を異様に舞い上がらせた。日吉は手に入れた包みの袋を、ほんの少しのいとま、目を細めて眺めたのち、丁寧に鞄にしまい込む。そんな日吉を見ていると、もしかして、今日ばかりは少しくらい許されるんじゃないか、と、恐る恐る日吉の無骨な右手に触れた。日吉は一瞬躊躇うようにに目を見張ったけれど、の思惑通り、俯いただけで、けしてそれを振り払おうとはしなかった。の細い人差し指が、日吉の人差し指に絡まる。それからは、当たり前のように右手と左手が馴染んで、ひとつの塊になる。どちらからともなく昇降口から足を踏み出して、目前の正門へと歩みだす。またひとつ、強い北風が吹いては立ち止まりそうになったけれど、強い日吉の力が、を前へ押し出した。なんだかあまり寒くないような気がする自分は、少し、いやかなりゲンキンだな、と俯いて、は笑い声を零す。日吉はそれを見て、なんだかつられそうになった自分を不覚に感じながら、正門の向こう側に視線を送った。

「ひよし、ねえひよし」
「はい?」
「ぎゅーとかちゅうとかはなしっすか?」
「…学園内でこれだけひっついたのも、俺にとってはかなりの妥協なんですが」
「じゃああそこを抜けたらオッケーってこと?」
「それは……」

「おい、誰か写メ写メ!」
「か、かわいそうですよ!」
「くそくそ、日吉!」
「…お前ら、馬鹿やってねーで帰るぞ!」


日吉が、の御髪に口元を寄せて、何か呟くのを、遠くから、テニス部レギュラー陣が見つめていたことを、二人は知らない。





 


20130216 北風とチョコレート