重く垂れ込めた鉛色の空が雨音を齎すまでそう時間はかからなかった。朝のニュースは絶望的な降水確率を告げていたから、よもや傘を忘れる人間も少ないようで、窓の外、眼下には色とりどりの花が咲き乱れている。遠くに雷鳴がチカッと瞬いたから、綺麗だなとおぼろげに思って、は遠くの雲に向かって携帯カメラのシャッターを切った。雷鳴の刹那を捉えることは難しかったけれど、存外拙くない光景だと頷く。いつ帰れるのだろう、と言う不毛な考えはとっくに捨てていた。どうせなら、虹が出るまで待ったっていい。そんな覚悟だった。待てと言われたら待つように仕上がったのは、帝王が帝王であるがゆえ培われた下僕根性と言うやつなのだろうか。答えのない思案を浮かべた頃、液晶にやっとその氏名が踊る。『跡部景吾』は溜息を吐いて、通話ボタンをタップする。帰れ、と言われることすら念頭に置いて、はもしもし、と電話先へ声を送った。

「長引きそうだ」

跡部はそれだけ告げて、他は何も言わなかった。悟れ、と言うことだろう。無言の数秒間が答えを急かしているように思えて、心臓が上ずった。

「判った」

は答えて、向こうが切る音を聞かないうちに早々と携帯を耳から遠ざける。生徒会総選挙が近い。跡部が会長職を外れる極めて重要な選挙だ。慌ただしいのも無理はないだろう、とあまりにも容易く咀嚼出来るようになった自分は、どうかしているかもしれない。窓の外の花はとうにまばらで、さらに言えば、それすら有耶無耶になるほど、窓の外は激しい雨粒の音で犇めいている。帰ろう、と呟いた、自分の声がはかなくて惨めだと、は自嘲気味に笑んだ。
渡り廊下はもはや屋根の意味がないと言うほどに濡れていた。土砂降り、という言葉そのままの雨は左から横殴りに地面を叩いている。時折吹く風がさらに雨の勢いを助長する。冷たい雨の季節でないだけ幾分かマシだろうと、はほとんど雨の内側と言える渡り廊下に足を踏み入れる。これを過ぎなければ、昇降口には辿りつけないのだから仕様が無い。グラウンドに面した渡り廊下は長く、グラウンドの逆側には庭のようなものが誂えられているけれど、今はそれに目をやる余裕もない。ただ、グランド脇のテニスコートの方向から、時折、ボールがぶつかる音のようなものが聞こえるのが気になった。ほとんど目視は出来ないし、もしかしたら、気の所為かもしれない、とは思うけれど、まさか。渡り廊下を抜けて、立ち止まったは、一度テニスコートの方向に目をやった。人影は、見えなかった、と言うより、矢張りよくわからなかった。まあいいか、と思っていたのだ、その瞬間までは、確かに。気が変わったのは、昇降口の傘立てにひとつだけぽつんと、寂しそうに置き去られた、赤に紺が映える傘と対峙してからのこと。ひとりではまるで大きな、ツートーンカラーの大輪を雨粒に曝した、その瞬間である。
 


 

けたたましい雨粒の音を頭上で聞きながら、はクラブハウスの脇を抜け、テニスコートへと向かった。ちょくちょく跡部の練習風景を眺めに行っていたにとってもはやそこは歩き慣れた道であったけれど、今日ばかりは足元が悪い。舗装された地面すら、水掃けが悪い所為か酷い水溜りをこしらえていて歩き難かった。すでに、ローファーの中はぐしゅぐしゅと音を立てていて不快である。ありていな興味本位で、いったいぜんたい自分は何をやっているんだと思ったけれど、もうテニスコートは目前で、後悔は時すでに遅しと言えた。加えて、コートに近づくにつれ内側から響くボール音が生生しく鼓膜を叩き、幻聴ではなかったのだとは確信する。フェンスを覗き込もうとしたけれど、先に傘の外郭が金網に触れて無数の水滴が散らつく。その金属音に驚いて、影が見返るのを、は遠くで見ている。視線がぶつかった、ような気がした。それでいて、すぐに目前の人影は背を向けて、作業を続けた。は何だか心配になって、金網の扉のあたりまで移動すると、錠を下ろしてさらに練習中のコートへと詰め寄った。雨を纏ったレギュラージャージに、切り揃えられた濃茶の髪色が見て取れて、そこで始めてはっきりと、目前の人物が特定された。

「日吉くん?」

が名を呼んだことで、ほんの刹那、その身体は制止の色味を見せたけれど、すぐにまた力任せに振りぬかれた腕は、ラケットを撓ませ、ボールを受け止める。もう充分すぎるほど水分を含んだテニスボールは、本来の2倍ほどの重さで日吉を翻弄した。弾む力は本来の力の1/2程度に等しかった。サービスライン付近で一度跳ねたボールは殆どがベースラインに辿り着く前に力を失い、その界隈で群れをなしている。雨の中でただひとりきり 遮二無二動き続ける日吉の様子に、何だかは狼狽えて、二度目の声を投げた。

「日吉くん!」

先ほどより強めに放たれた自分の名前に、日吉はやっと、両腕の力を緩めた。やや鋭い瞳が、じっとこちらを見据える。呼びかけに遅れること数秒、やっと日吉は思い唇を微かに開いた。

「はい」

顎の先から、髪から、指先から、滴る水滴。レギュラージャージは肌にぴっちりと張り付いて、もはや身体を何かから守る術を失っている。しかし、日吉はそんなこととるに足らないと言った様子で、コートに佇んで、じっとこちらに視線を寄せていた。

「なんですか」
「…なんで、も、何も」

日吉が今まさに向こう見ずなことやってのけていることは明白だったけれど、咎めたてられるような立場でないことが災いしての言葉を詰まらせる。荒んだ気持ちでボールを打ち返していたのか、言葉の端々に苛立ちのようなものが籠められていた。躊躇う刹那、眉を顰めた日吉が、何故だか一瞬泣いているように見えて、はあのいつになく晴れた初夏の頃を思い出した。空は青く、風は澄んで、帝王は勝利の笑みを浮かべたけれど、そのどれよりも痛烈に、項垂れた目前の人の涙が瞼に焼きついている。跡部に言われ、試合を見に来たは、敗北が決定した跡部に声をかけることも出来ないまま、そのすぐ向こうで腰を下ろし、頭にタオルをかけて拳を握る日吉のことをなんだかぼんやりと見つめていた。跡部は悔しくてこんな風に涙を浮かべたりするだろうか、いや、きっとしないだろう、と、門違いな自問自答を心に浮かべたは、変にちりちりと痛む胸を抑えながら、結局跡部に声をかけられるまで、その場所から動くことが出来なかった。帝王は負けてなお悠然とした口調のまま肩を叩き、ただ一言、もう帰れ、と告げたのだった。

「今日は、跡部さん、居ないんですね」

日吉は、ただの一歩もそこから身動きしないまま、自分から話を逸らすように、言葉を放った。はそれを受けてゆっくりと頷く。

「……うん、駄目、かな」
「いえ、ただ珍しいと思って」
「………そんなことより、風邪ひくよ?」

自分が跡部とセット(というより、跡部は単独でも成り立つから腰巾着のようなものかもしれない)に思われていることにいささか不満を覚えながら、はハードコートの際まで歩み寄る。ここから先は専用シューズのみでしか踏み入れられない。言わば聖域のようなものだと、は思っている。傘だけを若干前に差し出す仕草をして見せたを、日吉は訝しげに見つめている。

「クラブハウスまで入れてあげる」
「……本気で言ってます?」
「本気も本気だけど」
「…あなたは、もっとまともな人だと思ってました」

雨に濡れた唇が、嘲るように歪む。論を俟たず、日吉が何を言いたいかということは理解していた。自分の行いがどれだけ非生産的で馬鹿げているか、と言うことも。

「放っておいてください」

そんなとこに突っ立ってると、あなたまで濡れますよ、と継いで、日吉は背を向ける。語尾は少し強めに放たれていて、を突き放すには充分の効力があるだろうと、日吉は信じて疑わなかった。まず、自分の恋人を通じて顔を見知っただけの自分に、なにゆえ今ここまで介してくるのかが判らない。下手な憐憫ならば迷惑だし、そうでなければなんておめでたい人なのだろうと思う。跡部の隣にいてあまるほどのひたむきさを持ち合わせたは、恐らく後者の方で、それゆえに日吉は、二人が居る光景にいつもどこか整合性のなさのようなものを感じずにはいられなかった。
後方を盗み見ると、は先程の場所に落ち着いたままである。しかし、きっとこのいとまは踵を返すまでの序章だと、日吉はまるで軽んじていた。だから、次の瞬間、意図せず視界を遮った翳りと、打ち止められた雨粒に、甚だ面食う羽目となる。

「っ…?」

声もなく振り向いた眼前には、言うまでもなく、が佇んでいた。その向こう側、さきほどまでが佇んでいた場所には、脱ぎ捨てられたローファーが無造作に置き去られている。日吉は目を見張った。

「何してるんですか…!?」
「だって、ここはテニスシューズでしか…」
「そういうことを言ってるんじゃ、ないんですが」
「ああ、もともと浸水してたし、変わらないよ」

は場面に似つかわしくない顔で、いとも柔らかく微笑った。そう言う彼女は何故、最早無意味な自分に傘を差しだしたのか。冷え切った指先で、傘の柄を掴むと、滴る水がの親指で弾けた。きっと、もう何を言っても聞かないだろう、と思ったけれど、あえて思いのたけを唇に送る。

「…あなたまで濡れますよ」
「うん、そうだね」

日吉をコートの端まで導いて、水びたしになったローファーをつっかけながら、いつのまに主導権を取られた傘の柄を見れば、骨ばった右手。上目を遣うと、重みでしな垂れた前髪の先から、絶え間なく水滴が落ちている。その隙間からは、思いの外淡い色をした黒目が覗いていた。日吉をこんなに傍で観察したのは始めてだ、とは思い、ほんの僅かに籠る心臓の熱を覚えながら、続けざま、これが本来のときめきと言うものなのかもしれない、と感じた。
跡部とはそもそも気の合う友達同士で、付き合うようになったのはその延長線上と言えた。跡部と自分は住む世界が違うとかでいやに崇拝している輩も多い中、対等な目線で自分と会話する自分が物珍しかったんだろう、とは考えている。そういう意味で、跡部はを気にいっていたし、もまた、跡部のことが好きだった。しかし、肌の触れ合いを過ぎてなお、それが純粋な恋心なのかは判らなかった。もしかしたら、跡部もそうなのかもしれない、と感じ始めたのは、つい最近のこと。

「どうしました?」

慌てて首を横に振ったは、がぽがぽと酷い音を立てるローファーの爪先に目をやる。そのタイミングで、また、不意に夏の光景が頭を横切り、は何だか堪らなくなった。何故か彼の慟哭がとてつもない臨場感を持って鼓膜を叩く。日吉は、ただ声もなく、其処に項垂れていただけだったのに。どうして。

クラブハウスがもうすぐ傍まで控えてなお、二人はほとんど無言のまま足を踏み出していた。名残惜しさが胸を詰まらせるけれど、歩みの速度を緩めない日吉に、ただは付き従う他術を持たない。残り数メートルのところで、日吉は小さくありがとうございました、と告げた。がまた首を振って答えると、さっきから、そればっかりですね、と微かに笑う。こちらこそありがとう、と言いたくなったけれど、きっと意味がわからないと思ったからやめておいた。傘の柄を託される折、ほんの僅かに冷たい指先の体温を感じてどきりとする。すぐに立ち去るのは憚られて、は暫く、ぼうっと日吉を見上げている。

「…さん?」

出し抜けに齎された名前には目を見張った。そうか、跡部はずっと自分を名前で呼んでいたから、日吉が名字に親しんでいないことは仕方がない。驚いたのに気付かれたのか、若干罰が悪そうな日吉に、は声を張り上げる。

「日吉くん、あの」
「…はい?」
「この傘、ひとりだと、少し大きいみたい」

今度目を見張ったのは日吉のほうである。言葉に詰まった日吉は、どう答えるかあぐねていたけれど、居た堪れなくては早々に言葉を続ける。

「だから、よかったら着替え終わるの、待ってるけど」
「…………いやあの」
「あっ、跡部は、だいじょうぶ」
「…………何も言ってないですけど」

何故だか、必死な様子のに日吉は狼狽して、とりあえず、判りました、と告げる。さっきから流されてばかりで癪だけれど、ほだされてしまう自分はもっと癪だ、と日吉は考えている。は跡部のもので、だから彼女が自分に手を伸べる所以もなければ、自分が手を伸べていい所以など、ことさらにありえないのに。いつかの夏の日、試合に負けた無様な自分を、何故かがずっと目で追っていたことを思い出す。気にかけるべくは自分じゃないのに、慰撫をはらんだその瞳は、跡部ではなく確かに自分に向けられていた。思い違いであればよかったけれど、そのままはほんの一瞬、こちらに駆け寄る素振りさえ見せた。どうして、と思いながら、どこかすがりたいような心地に見舞われたのは、多分あのとき心が弱り果てていた自分の一生の不覚だったと思う。控室でひとりきり、纏わりつく布地を取り払った日吉は、近場にあったタオルを掴んで嘆息する。
否、一生の不覚は、人のものに憧れてしまった今現在の自分自身だ。
自覚症状はゆるゆると作用して、数枚扉を隔てたと対峙するのが急激に恐ろしくなった。しかし、躊躇ったところで、そこには居て、きっといつまでも確実に、自分を待っているという確信があった。

「なんでだよ…」

に対してか、跡部に対してか、はたまた自分自身に対してか判らない憤りで胸を満たした日吉は乱暴に頭を拭うと今度は誰に向けるでもない舌打ちを零す。



嘆きの雨は峠を越え、しっとりと緩やかに地面を濡らし続けていた。晴れてしまったらどうしよう、と気を揉んで、は傘の先に滴る雨露で意味のない模様を生み出している。そうこうしている間に、雲間から微かな光が差し込める。雨は止む気配を見せないけれど、これは時間の問題だ、とは思った。水の含んだローファーを踏み締めながら、携帯カメラを構えたは、天気雨の空を携帯に閉じ込める。これも存外拙くない、と思っていると、忽如後方から足音が響く。日吉だ、と思うが早いか、声がの元へ寄せられる。

「…本当に待ってたんですね」
「そりゃ、勿論」
「折り畳み、あるんですけど」
「……………えっと」
「嘘ですよ……そんな顔しないで下さい」

日吉はあからさまな嘆息をして、はごめんと呟いた。きっと嘘ではない。朝の降水確率を思えば、日吉のような几帳面な人が、傘を持ち合わせてない道理がない、そう思ったけれど、あえてそれは追求せず、は先のジャンプ傘を勢いよく開く。それから当たり前のように、傘の柄を奪い取った日吉は、背中で行きますよ、と囁いた。慌てて日吉の隣に落ち着いたは、何か言わなければならないことがあると思いながら、何も告げることが出来ず、日吉もまた、同じだった。

気付けば、青い、青い空が水溜りに移っていたけれど、それ見てみぬふりして、二人は歩き続ける。どちらかが沈黙を破ったら、空を仰いで、携帯カメラを起動させるのだ、と目論見ながら、はまだ乾ききってない髪の隙間から、日吉の瞳を盗み見た。






 


20130207 アンブレラ