多分、もう何度目のスヌーズだ、と、洗面所の日吉は苛立っているだろう。毎朝反省の色味を見せつつ頭で判っても同じことを繰り返してしまうのは、全て私の持って産まれた睡眠欲の所為であって、決して私の根性がどうしようもないわけじゃないんだ。私はこれでも毎日頑張っている、とかなんとか言ったら一昨日軽く頭をはたかれた。見た目一瞬低血圧キャラっぽく見えるのに、実は寝付きも寝覚めも良いなんて詐欺だ。

さーん?」

葛藤とまどろみの最中で激戦を繰り広げていたら、鶴の声が飛んだから、私はがばりと音を立てて身体を起こした。怒りを孕みつつ、しかし冷静に、と、計算しつくされた声色である。これで起きれば存外機嫌は悪くないはずだ。まだ朝食も作れる時間だし、このくらいなら向かい合わせの席で、『一緒に出る気がないなら、今度から起こさず見捨てるからな』と一喝されるくらいで済むだろう。平和だ、平和すぎる。軽くベッドを整えて、携帯を充電器から外してからすでに開け放たれていた寝室を出る。リビングダイニングでは、パラソル型の室内物干しが佇む中、ワイドショーと朝のニュースの中間のテンションでキャスターが捲くし立てていた。記憶では、冷蔵庫の中の卵は4つ。今日あたり、買い足したほうが良さそうだ、と思いながら、キッチンカウンター脇にしゃがみ込む。棚に残るホットケーキミックスもラストワン。買い物リストに容赦なく追加である。冷蔵庫からあらかたの材料を取り出した頃、お腹が小さくくうと鳴った。睡眠欲が解消されれば、そりゃもう、次は食欲を満たすものだと相場が決まっているのだから仕様がないのだ。






9

時 半 の ジ ャ メ ヴ



「おはようございます…」
「おはよー、ぴよたん、今日はほっ」
「誰がぴよたんだ、誰が!」

すでに威圧を含んでいた声に拍車をかけたのは日吉のあだ名発掘王として誉れ高い私のちょっとしたお茶目心だった。ぴりぴり、と言う空気感がキッチンに伝わったので、やっぱり踵は返さないことにして、私はボウルに卵をぶつける。日吉は、これから 正味5分10分あの物干しパラソルにかまけることになると思うから、その間にひとしきりのことはやってしまわなければならない。

さんのは残ってますからね」
「あいあい」
「今日干すの忘れたら容赦なく俺の手にかかりますから」
「…気をつけます」

かなりあけすけになってきているとは言え、自分の洗濯物(主に下着)を眼前で広げられるのは流石に恐縮すぎるので、干すのは分担と言うことになっているのだが、もう2回連続干すのを忘れて洗濯機の中で日吉に発見されているので(下着の入ったネットを掴んで持ってこられたときは飲んでいたジュースを吹きました)後がない。別に日吉は下着なんか干すのくらいどうってことないのかもしれない(少なくとも表面上は)が、同棲をはじめたとはいえ、女としてまだいくつか砦は守っておきたいところである。日吉が動いている様子を視線の脇で確認しながら、私は熱せられたフライパンにバターを落とした。狭いキッチンからリビングへ、芳醇な香りが漂う。生地をまあるく流し込みながら、ソーセージとベーコンどっちがいいか尋ねようとしたけれど、忙しそうだし、どうせどちらでもいいと言うに違いないから、勝手にソーセージの袋を破いた。ホットケーキの1枚目 が完成したので、続けざまに残りの生地を流し込む。2枚目のほうが少し大きい。こっちは私の…いや、日吉のにしてやろう。叩き売りでも媚は押し付けておいたほうがいい。あとは昨日の残りのミネストローネに火を点ければ、朝食はほぼ完成である。

「ひよし、あとソーセージだけなんだけど、代わってくれる?」
「ん、じゃあ、残りタオル2枚お願いします」
「ほいきた」

洗面所脇の洗濯機から側面にへばりついた洗濯物を剥ぎ取って、リビングへと舞い戻る。日吉の洗濯物はなんだかモノトーンで、私の洗濯物はなんだかパステルカラーだ。とかなんとか思いながら適当に湿った衣類をぶらさげていると、後ろから食器のぶつかる音が響いた。継いで、カウンターに食器が置かれ、ほとんど同時にホットケーキとソーセージ とトマトの香りが鼻腔にぶつかった。

「ありがとう、日吉」
「いえ、こちらこそ、どうも」

冷蔵庫に食材を仕舞う日吉の背中に声を投げて、カウンターからソーセージとホットケーキののっかったお皿を持ち上げた。にまにました私は、結局テーブルに置くその瞬間までどちら側にどちらのホットケーキを配膳するか迷ったけれど、どうにかこうにか良心がほくそ笑み、それは日吉の定位置へ誘われた。ミネストローネは少し煮詰まってはいるけれど、それはそれで美味しそうである。私の力作だ。あとはバター、メープルシロップ、マーマレード、フォークにナイフにスープ用のスプーン、これでOK。定位置に座った私は、日吉がいつも通り、牛乳と麦茶を持ってくるのを待ちながらグラスを並べる。

「…まったく、2限始まりの朝くらい余裕持って起きて下さいよ」
「その、なんだ…すまん」
「反省してるんですか、本当に?」

やや荒々しげに置かれたお茶と牛乳、今日はオレンジジュースもある。謝りつつもどちらにしようかな、を同時並行しているとかは口が裂けても言えない。とりあえずオレンジジュースに手を伸ばした私は、にへら、と当り障りのない笑みをこぼして見る。

そうして初めて付き合せられた顔と顔。それから、丁寧に両手を合わせる仕草が行われ、いつものトーンで頂きますが響き、それから暫くは、食器の音しかしなくなる。

…のが通常の朝の光景だった。

「…いただ………っぷ…」
「…頂………なんですか」
「…………くくくくく」

ベッドから抜けて今の今まで、そういえば日吉の後ろ姿しか拝んでないことに気付いていなかった私は、不覚にも本日始めて正面から見た日吉の姿に驚きと笑いを禁じ得なかった。日吉はバターナイフに手をかけていたのだけれど、そのまま静止して胡乱の色を瞳に滲ませる。私だって笑いたくて笑っている謂われはないのだ。この笑いは、何がどうしたってよんどころないのである。メープルシロップを握りしめた私は、ひいひい言いながら、やっと咽喉の奥で淀みきったいただきますを声に起こす。附に落ちない顔を浮かべながら、とりあえず頂きますを続けた日吉の姿がまたおかしくて、更に哄笑が止まらなくなる。

「なにがなんなんだよ!?」

これでもかと言うほどメープルシロップをホットケーキにしたたらせながら、私は空いた手でこめかみを指差した。

「似合ってるねー?」
「はっ?はっ!あっ!!!」

日吉はほんの一語で何もかもを理解したようで三段活用めいた意味のない文字をクレッシェンド調に放出する。日吉の頭には、何故か私のヘアバンドが宛がわれていた。友達から誕生日に貰ったそれは、紫のタオル地で出来た代物で、額の中央に、黒レースであしらわれた大きなリボンにアナスイ、と印字されている。大人可愛いお気に入りの一品である。そんな小悪魔リボンが、何故かおでこまるだしの日吉の頭で踊っているなんて、これが笑わないでいられるか。何食わぬ顔でいつも通りの生活を送っていた私にとっては青天の霹靂であるし、もはや出オチである。それから、頬を赤くした日吉と笑いを堪える私の間に、一触即発のような雰囲気が漂った。あくまで気付かれないように。私の手がポケットの携帯電話に延びる。気付かれたら、せっかくのシャッターチャンスが不意になってしまう。しかし、すでに私の単純明快な思考回路を把握済みの日吉は、次に私が何をするかなどお見通しのようだった。携帯を取り上げようと伸びて来た長い手をタッチの差ですり抜けた私に、日吉は舌打ちを漏らした。

「ちょっと待ってちょっと待って1枚だけ!1枚だけ撮らせて」
「その1枚が至極凄惨な末路を生み出すんだよ、俺にとって!」
「そんなことない!FBに上げるだけだから!みんな可愛いって言ってくれるから!」
「そ、れ、が、最悪だって言ってるんだ、クソっ」

悪が栄えぬためには元を断てばいいことに、日吉は光の速さで気付いてしまい(当たり前だけど)次の瞬間、私のヘアバンドはフローリングに叩きつけられていた。手櫛を通せばすぐに馴染む従順な髪は、すでに額へと撫でつけられている。そんなわけで、日吉はあっと言う間に小悪魔系女子系男子からいつものきのこに逆戻りだ。面白くない。あーあ、と私はわかりやすい溜息をついて、椅子にどっかりと座りなおした。日吉も同様に溜息を吐いたが、私とは種類の違うものであったのは言うまでもない。しかし、まだ頬の赤は名残を見せているから、かわいいなあと私は思って、再び小さく笑った。ヘアバンドを救済した日吉は面白くない、と言うように、眉間に皺を寄せたまま、ホットケーキを切り分け始める。

「…かわいかったのになぁ」
「弁明しなくても判ってると思いますけど、かわいくなりたかったわけじゃありません」

確かに、日吉がかわいくなりたいなんて思ってしまったら、翌日彗星が急激な軌道変更をして地球に衝突するだろう。定めて自分の洗顔用ヘアバンドが見当らなかったから、間に合わせで隣にひっかかってた私のヘアバンドを手に取ったに違いない。だって心当りがある。多分そのヘアバンドとやらは、丁度 死角になっている部屋干しパラソルの一部分にひっかかって、ゆらゆら揺れているはずなのだから。そしてそのヘアバンドには、私が昨日零したうがい薬の茶色いしみがわかりやすく残っている。ああ、やっぱり消えなかったなあ、と思いながら私は、今日ロフトに寄って新規購入することを内心で決意した。そんなことより今は、メープルシロップをたくさん含んだこのホットケーキを平らげることのほうが先決なので、あえて何も言わないことにする。怒られながら食するなんて私にはそれこそ朝飯前だけど、出来ればおいしいものはおいしいと思いながら噛み締めていたいのだ。

「よくそんな甘いもの朝から食べれますね?」
「糖分は脳みその栄養素だよ、日吉くん!」
「そうですね、せっかく先輩にあわせて同じ履修科目取ったんだから、せいぜい頑張って貰わないと」
「心理学測定演習…って、かなり日吉に併せたつもりですけど…」
「…複素解析学のほうがお好みでしたか?」

不敵な笑みを口元に湛えて、日吉はソーセージを齧った。続け様に放たれたのは、寝てもノートは見せませんよ、の一言である。確かに、二人のコマ割りを照らし合わせると、この時間に取れる授業で無難なのは理学測定演習か複素解析学のみだった。そして、後者は起きていられる自信がない。むむむと、口をへの字型に曲げた私は、ミネストローネスープを煽って、ごちそうさまと呟いた。日吉はもうほとんど用意を終えているから、あと焦らなければならないのは私だけなのだ。日吉の膝からヘアバンドを奪い取った私は、洗面所に駆け出す。はい、と穏やかな返事をした恋人は、しぐれた春の空を窓越しに仰いでいる。余裕綽々の日吉を見ていると、やっぱり弱みを握ってやりたかったと言う思いが頭を掠めるけれど、いとけない様子が見られるのは自分だけの特権、と言い聞かせて洗面所の扉に手をかけた。

鼻歌交じりで洗顔料を泡だてている私は、こののち、茶色く染みたヘアバンドを持ちながら眉を潜めて佇む日吉が待ち構えていることなんて、露も知らない。




 


20130122 午前九時半のジャメヴ