はきけがする。
葛藤
罵倒
劣等感
オムニバス
あからさまに青い顔をしていたのだろう。視線の脇に、するりと白い手が伸びて、前髪の先に、触れる。やめろ、触るな、と振り払うはずだったゆびさきは空を掴み、そのまま、視界は白くフェイドアウトした。寸前でざわめきが鼓膜を叩き、誰かの尾を引くような悲鳴。濁したところで、犯人は判っている、何食わぬ顔で前髪をくすぐった、この女だ。
(もう、うんざりだ)
後頭部のじくじくとした痛みで目を覚ます。霞む視界が何を捉えるより先に、消毒液の香りが鼻を掠めて、ああ、自分はコートで倒れてここに運び込まれたのだなと言うことを瞬時に理解した。状況から考えて、ハードコートに背中から落下したのだろう。肩甲骨と臀部も鈍い痛みをたたえている。
「う…」
わずかに身を捩じらせると、耳の近くで氷枕が小気味良い音を立てた。その直後に傍で発せられたのは、出来ればしばらく遠ざけていたかった種類の声色だった。
「ひよ…、だいじょうぶ!?」
「…!」
昨日までの自分だったら、大丈夫なわけないです、とか、部活はどうしたんですか、とかいくらでも紡ぎだせる他愛もない言葉を持ち合わせていたし、心配をかけさせまいと善処する心の余裕すらあったかもしれない。しかし今日の自分は違った。何もかも、この人が悪い。ちかちかする瞼の裏側で、午後3時45分を指す時計と同時に移りこんだ景色が馬鹿のひとつ覚えみたく主張して来る。消えて欲しかった。午後3時45分の光景も、目の前で自分を案ずるこの人も、ついでに、自分の胸の内側にこびり付いた感情すらも、すべて。
「日吉?」
6限が終わり、何もなければそのままの足で部室に向かうのはルーチンとも言える生活パターンで、それはきっと俺だけに言えたことではないと思う。だからそのありふれた日常に異を塗り付けたのは、完全に向こうの手抜かりだ。彼女は知っていたはずだ。この時間帯の部室が危ないと言うことくらい。
「…あ…、べ…、お…がい」
だがしかし、僅かに色めいた声色が耳を掠めたそのしゅんかんに、ひとしきり、ためらってみればよかったのかもしれないと今になって思う。その折踵を返していたら、胃の腑の不快感を覚えながら横たわることなどなかった。それが彼女の―――先輩の声だと認識出来ていたならば、殊更だ。どこか彼女を買い被りすぎていたのかもしれない。本当の意味で清廉潔白な女性なんて、この世界のどこにも存在する道理はないのに。
「あとべ…」
もともとほとんど音のしないドアのラッチボルト。風のような扉の開閉音。午後3時45分を指す壁時計。多分二人は気づいていなかっただろう。唇を重ねたその瞬間を、俺に盗み見られていたことなんて。
「…っ、!!!」
初めから抑えるべく声もなかったはずなのに、俺は思わず右手で自らの口元を覆った。そして、二、三歩そのまま後ずさり、読んで字のごとく颯爽と、部室の前から姿を消した。14年の人生で思いつく限りの悪態めいた言葉が頭を横切り、気付けば部活開始の時刻を僅かにオーバーしていた。
「日吉、遅ぇぞ、…さっさとコートに入れ」
遅刻早々、コートに俺を飄々と迎え入れ、薄く笑んだ唇は、皮肉にも先刻先輩と重ねられていたもので、俺は人知れず、いつにない力でグリップを強く握り締めた。遠くには、先輩の誰かを呼ぶ声が響く。
(はきけがする)
(何が気持ち悪いって…)
(何が…)
なにが。
「日吉ってば!ちょっと、日吉!?」
覗き込まれた顔が、存外近くにあって驚いた。思考の内側に入っていたのか、暫くぼうっとしていたらしい俺に、先輩は怪訝な顔を覗かせる。慌てて脇見をした俺は、正直な感想を咽喉から送り出す。
「……うるさいです、先輩、あと、近い」
「あ、…、ごめん、ね?」
語尾を強めに申し立てたからか、おずおずと身体を引っ込めた先輩は、なんだかいつもよりしおらしくて、こちらの所為とは言え苛立ちが募った。いつもの先輩なら、心配してやったのに!くらいは言ってのけるはずだ。
「頭打ってたから、すこし、心配になっちゃって…」
「…背中から倒れたみたいなんで、平気です…少し痛みますが」
「……今日に限って水分補給しに来ないから、おかしいなと思って、寄ってったら倒れるんだもん」
あんたに近寄りたくなかったからだ、と言う言葉を飲み込んで、すみませんと零す。それを受けた先輩は、私に謝られても困る、今度から気をつけろと言った類の、至って正当な、先輩らしい台詞を散りばめた。俺は話の途中で半身を起こしてから、きつく握り締められた自分の左手あたりをじっと見ていた。だから、先輩の表情は判らない。声色からするに、多分少し怒っているんだと思う。
「ちょっと、ひよ」
「……はい?」
「なんでさっきから私の顔見ないの」
「……べつに」
「べつに、じゃない、あと言い様も、なんかキツい」
胸の内側がチリッと音を立てて痛んだ。この人のこういう、心の機微にはいやに鋭いところが好きになれない。隠そうとしたものを掘り当てられて、割を食うのはもとより、意図せず仰ぎ見るような気持ちにさせられるのも、もう御免なのだ。
(気持ち悪い)
(気持ち悪い)
(気持ち悪い)
右脇へ視界を移動させると、そこには膝でこぶしを丸めて、俯く先輩の姿があった。いかにも、傷ついています、と言った表情。自分が何かしたか、とでも言い出しそうだ。
「私、日吉に、なんかした?」
余りにも予想通りの文言。ただ、少しだけ涙を孕んでいるように感じた。嗜虐心のようなものが根底で頭を擡げたのを感じて、自虐めいた笑みが口元に浮かぶ。
「ドリンク持ってかなかったのも、そのせい?」
瞳は、縋るように、攻めるように、こちらに寄せられた。馬鹿馬鹿しい、と思った。
そうです、その所為です、と言ったって、救われない癖に。違う、そうじゃない、ただ少しイラついていただけです、すみません、って、そんな答えを期待している癖に。あんな声で跡部部長を呼ぶ癖に、唇を空け渡す癖に、俺に何を与えられても満たされない癖に、この人は、そんな眼で俺に何を求めていると言うのだろう。
(なんで)
(なんで、こんなひとを)
すきだ、と
ほしい、とおもってしまったんだろう。
(…気持ち悪い)
右手が、その細い左手首を捕まえるのは造作もないことだった。引き寄せて、自分の胸の内に抱き止めることもまた。それを押し返すような、僅かな抵抗。しかし、相手が曲がりなりにも病人だということを踏まえているのか、ままならない。何をされてもおかしくない状況なのに、馬鹿だ、このひとは。
シーツに、ぱたりと涙が落ちるのを見止めたけれど、力を緩める気はさらさらなかった。やがて、俺の胸のうちに顔を埋めたままの体制で、先輩は、抵抗を止めた。腕の内側で、微かに両肩が震えている。堰を切った涙が、止め処なく溢れている。
それまでの間に、彼女は、か細く、一度だけ、やめてと啼いただけだった。なぜだかそれが静止には聞こえなくて、だから余計に、とてもそれ以上は踏み込めなかった。はたから見れば、泣いている先輩を、自分が慰めているような格好に見えて、ちゃんちゃら可笑しい。お前は今何をしているんだ、と、天井から客観的に自分を監視する自分が、腹を抱えて笑っている幻想が見える。加えて、俺が脱力しても、不思議と彼女は俺から離れようとしない。身から出た錆が血液を循環する。しんぞうがいたい。
揺れるカーテンの隙間から、傾きかけた太陽の赤い光が差し込めて、彼女の髪をきらきらと濡らしている。躊躇って触れると、先輩は一度びくりと揺れただけで、拒絶の色を見せなかった。代わりに、掠れ切った声でぽつりと、耳を疑うような一語を漏らす。
「ごめん」
「………は?」
「ごめん、日吉、泣いたりして」
「な……、あんた、馬鹿ですか?」
(泣かしたのは、俺だろ)
そんな判りきったこと、反論しても仕様がないので黙りこむ。すると、勿論意味を判りきっているであろう先輩は小さく首を振って、違う、と言った。
「日吉のせいだけど、そうじゃない」
「どういう…」
「あたしね、今日、しつれんしたんだ」
台詞の語尾は消えかかっていた。胸元に力が篭る。彼女は、再び泣いていた。失恋、と聞いて、浮かんだのは午後3時45分の光景。甘えた声、重なる唇。
(……あ)
『あとべ…』
「わたしね、ずっと好きだった人がいて」
「でも、ふられちゃった」
「諦めるからキスしてっていったの」
「困ってたけど、お願いって、無理言ったの」
「そしたら、仕方ねえなって」
「でも」
「やめておけばよかったかな」
「かなしくなって、ひよしにやつあたりして」
「そのくせすがりついて」
「さいあくだね、わたし」
「さいあくだ」
午後3時45分、心に亀裂を施されたのはてっきり自分だけだと勘違いして喚いて喚いて彼女を攻めて攻めて攻めて仕舞いには自分を嫌悪して咽喉を酸っぱくして腕をただ支離滅裂に振り回してぶっ倒れて挙句陳腐に戯れてこの様だ。
「ごめんね、ひよ……」
「謝るな、よっ…」
ぎゅう、と、軋む音がするほど腕に力を篭めた。う、と微かに彼女が呻く、そして、そのまま幾度目かの涙が始まる。二度目の謝罪は、きっと俺への返答を孕んでいただろう。それは、午後3時45分彼女が下された判決と同様のものだ。それこそ、午後3時45分に俺が悟りきっていたものではあったけれど、肩越し、自分の涙腺まで少し緩んだのは彼女に悟られたくなくて、さらに力を強める。細い肩に顔を埋めた俺は、暫くそうして、先輩の鳴き声に耳をそばだてていた。時折混ざる、謝罪の一語が鬱陶しかった。でも、反発する術を自分はひとかけらも持ち合わせてはいない。
窓の影が、長く長く伸びて、カーテンが揺らめくたび俺たちの上に波紋を描く。黄昏が近い、じきに夜が来る。
それまでは、どうかこのままで。
翌朝、
ほとんどの場合、朝一番に部室を開け放つのは俺の役目だったから、内側から飛んできた高らかな声に面食らう羽目を負う。
「おっはよう、日吉!今日も早いね」
俺を待ち構えていたのは、朝が苦手なことで有名な先輩だった。背後から、午前7時前を指す時計がこちらを伺っている。
「先輩は珍しいですね」
「あ、眼鏡?これねー、忍足よろしく伊達なん」
「違います、珍しく早いですねって」
「なっ、わ、わたしだってたまにはねえ」
鞄を置いて、ネクタイを緩めながら、どうせ眠れやしなかったんだろう。とか、また泣いたんだろうかとか、そんな不毛なことを考えてしまう自分こそどうかしている。ふたつの終わりも、ひとつの涙も、慰めも、すべて昨日で完結したのに、伊達眼鏡で隠した腫れぼったい瞼と、寝不足で出来たクマは今日になっても物語るから、痛々しくてならない。溢れそうになった溜息を寸前で食い止めて、背を向ける。そして、その流れで更衣室への扉のレバーハンドルを握った。
「日吉ってさ」
引き止めるように飛び出した声が、俺を制止する。返事の代わりに立ち止まった俺は、そのまま耳を欹てた。
「…ひよしって、優しいね」
「……………先輩は、馬鹿ですね」
「……うん、そうかも」
会話が途切れたから、俺はそのまま扉を押して、更衣室に脚を踏み入れた。名残惜しい視線のようなものを背中に感じる。でもきっと、彼女はもう何も言わない。きっとあと5分もすれば、鳳か宍戸先輩あたりが部室の扉を開くだろう。俺はじれったくその場に留まった。今言わなければ一生いえない言葉が、何かあるはずだと、そう思った。
「先輩」
「っ、ん?なあに」
「俺、は」
遠くで
足音が聞こえた気がして背中が粟立つ。息を呑む音が、脳髄に響く。
「俺は、いつか、跡部部長を越えますよ」
扉を閉めるほんの一瞬だけ振り返り彼女の顔を盗み見ると、ただの硝子板が入っただけの丸い枠の奥で、先輩の目が見開かれたのが判った。それと、彼女の脇で、部室の扉が開く音がしたのはほぼ同時の出来事だった。
更衣室の扉の内側で思わずしゃがみ込んだ俺は、高鳴る胸のうちで、新しい始まりの音を聞いた気がした。
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