もしかしたらもうこれからずっとそうなのかもしれない、と思い始めたらそればかり考えてしまってどうにもならなくなった。ただでさえ縮まないのだ、この距離は。あのひとと自分が節目を跨いで生まれて来てしまったそのしゅんかんから、けっして、1ミリも揺るがないもの。

(ねむいなあ)

中間考査という長くて短いトンネルが、視線の先にちらついているのに、それとは別の理由で、寝不足が続いている。勉強もしてないことはないけれど、それがひと段落して布団に潜ると、なんだかいろいろぐるぐる考えてしまって、よくない。むしろ考えることはひとつなくなったはずなのだ。すっきりと、ではなかったけれど、さっぱりと、清清しく。なのに、そのぽっかり空いた穴をすっぽりと塞ぐように、新しい考え事が増えてしまった。

「ふあ・・・」

欠伸をかみ殺して、机に向かう。ノートが西日で赤く照らされている。背中が、少し温かい。余計眠くなってしまうかな、と、は腰を持ち上げた。図書室。中央の広いスペースは大きな窓の向かいに大きめの机がいくつか並べられているが、デッドスペースを活用したような形で隅のほうに小さな机があつらえられているのをは知っていた。誰もいなければいいけれど、と願いを篭めて本棚の奥を覗くと、持ち主のいない机はどこか寂しそうにぽつんと、いつもの場所に置かれている。時計を確認すると、時刻はすでに17時を回っていた。完全下校の18時半まで、もう余り時間はないけれど、寝不足も度が過ぎている気がする今日は家に帰ると即ベッドに転がって、そのまま朝を迎えるコースが易々と想定出来る。だから、せめてギリギリまで学校で勉強していたかった。

「こういうとき数字を見ると絶対まずいから」

と、自分への言い訳をして、座るや否や数学の教科書を鞄に仕舞い込んだは、英語の教科書とノートをおもむろに開いてのち視線を落とす。英文の羅列も正直堪えるけれど、数字に比べれば幾分かマシと言えよう。

(そういや)
(跡部と忍足は選択科目の試験もあるんだっけ?)
(あいつらの脳内構造どうなってるわけ?マジで)

余計なことを考えながら、ペンのノック部分に唇を押し当てて、訳文をぶつくさ構築していたは、ほんの近くに人影が忍び寄っていたことなど露ほども気付かなかった。つまり、油断していた。の居る場所は図書室の隅。暗がり、とは言えないまでも人気は余り無く、狙いすましたかのように傍にある蔵書はミステリーだのホラーだのの類である。だから、唐突な来訪者に、が必要以上に、顔を引き攣らせてしまうのは、多分、仕方のないことであった。加味して、は極度の怖がりでもある。

「・・・・・・先輩?」
「ひっ、あああああ、ァ?」

どうにか微かに働いたモラルが図書室だぞ、と制御を効かせたのか、さほど大きな声ではなかったものの、来訪者が驚く程度の素っ頓狂ぶりだったことは確かである。証拠に、肩でも叩こうとしたのであろうてのひらは顔の真横に引っ込められ、いつも冷静に整えられている面立ちは軽く歪んでいる。しかし、恐る恐るが後方を見た頃の彼は、すっかり呆れ顔へとシフトチェンジしていた。

「な、なんて声出すんですか・・・」
「ひ、ひよ、・・・日吉?」
「・・・・・・そうですが」
「なーんだ、驚かせないでよ?」
「・・・挨拶しようと思って呼びかけて、勝手に驚いたのは先輩のほうですが?」
「・・・え、えへ」

えへ、じゃないですよ、と冷たくをあしらった日吉その人は、の脇をすり抜けて、斜め向こうの本棚へと向かう。そして、ミステリーの棚に抱えていた本を戻してから、改めてのほうに視線を寄越した。は跳ね上がった心臓の音を遠くで聞きながら、日吉の挙動を何故だかじっと見詰めている。日吉を傍で見るのは久々だな、とは思っていた。廊下ですれ違っても、自分は友達と一緒で、会釈するくらいが最大のコミュニケーションと成り果てていた寂しさを思い出す。多分、日吉はこのタイミングでに『なんで図書室に来たの』とか『今日は何もないの』とか聞かれることを想定していた。だから視線がぶつかっても、なお何も言ってこないことに罰が悪くなって、一瞬瞳を爪先に落とす。それから、ふといつも通りを装って、口を開いた。

「返却の督促通知、掲示板に貼られてたんで」

返答として用意していた言葉を吐いた日吉は、返した本の背表紙をとんとんと叩いた。俺としたことが、読むのさえすっかり忘れてました、と肩を竦めて、嘆息した日吉は、そのまま本棚を仰ぎ見る。ああ、そうだ、こんなだったとは思って、なんだか嬉しくなった。たかが数週間顔を突き合わせてないだけなのに、こんな他愛ない言葉を落とす日吉を、もう長い間見ていないように錯覚していたのだった。

「ここさいきん、忙しかったからでしょ?日吉部長は」
「・・・・・・やめて下さい」
「ん?何をだい?日吉部長」
「・・・・・・判っててやってますね?」

微かに頬を染めた(ような気がする)日吉は、視線だけで猛烈抗議する。



 イ ン タ    ー    バ ル



――――予想はしていたことだったけど、まるでその通りに、跡部は来るあの夏の終わりに、バトンをしっかり日吉に渡して、後ろ手を振った。引退の二文字が翻り、その瞬間、テニス部にとって跡部はたちは、過去になったのだった。

「俺様のようには成れなくても・・・、せいぜい足掻くんだな?」

言いながら、日吉の肩を叩く跡部。読み取り難い叱咤激励だな、とは思ったけど、実にそれが跡部らしくて、不意に涙腺が緩む。

「・・・何泣いてんだ、、アーン?」
「先輩・・・、別に、今生の別れじゃないですから」

わかってるよ、でも、と言おうとして、言葉にならない。せめて、あんたの目元だって赤くなってる、と言い返してやりたかった。しかし、すべからく慈郎や長太郎が涙声で励ましに来たから、余計に拍車がかかって、うまくいかなかった。

そうして、は日吉にとってただの先輩になったのだ。まあ、部長から先輩になった跡部に比べれば、ほとんど何も変わってないようなものだけれど。




「でも、実際そうでしょ?引継ぎもままならないのに、そのまま試験期間だもんね」
「会計業務なんかに比べれば、引継ぎなんてあってないようなものですよ」

視線は本棚に走らせたままで、日吉は事も無げに零す。ええと、と指先を陳列された背表紙に這わせた様子を見ると、次に借りる本でも物色し始めたのだろう。

「・・・また借りるの?読む時間ある?」
「いつも鞄に入ってるから、なんとなく・・・」
「へえ?そういうもん?」
「性分なんです、いつもそこにあるものがないと、しっくりこなくて・・・落ち着かないと言うか・・・」

日吉が選んだ本は存外高いところのもので、多分、自分だったら背伸びしても届かないだろうとは頭の片隅でぼんやり思っている。

「なんか意外」
「・・・何がです?」
「ひよはそういうの、割り切っちゃう人だと思ってた
「・・・最終的には割り切れても、はじめからそう上手くは行きませんよ」

サイボーグじゃないんですから、と続けて、本棚から身を引き剥がした日吉は、ゆっくりとこちらに近付いて来る。日吉が肩でとんっ、と本の背表紙を打った音が小さく響いた。

「帰らないんですか?」
「うん、図書委員が見回りに来るまで、ここにいるつもり」
「そんなに熱心でしたっけ?」
「失礼な」

椅子を引きながら、嘲笑めいたものを浮かべた日吉に眉を顰める。

「てゆうか、範囲復習全然終わってないのに、このまま帰ったら、絶対ヤバい」
「はぁ、・・・寝不足ですか?」
「嘘、顔に出てる?」
「出てないですが、なんとなく」
「いや、出てんでしょ?ゾンビみたいな顔してんでしょ??」

ひゃー、と悲鳴をあげて両頬を押さえたを、正面に落ち着いた日吉はいかんともし難い顔で見ていたけど、暫くしてふっと吹き出した。

「寝不足なら、いっそ思い切って寝たほうがいいんじゃないですか?」
「いいわねーにねんせいは、お気楽で・・・曲りなりにも私はじゅけんせいなの!」
「・・・評定平均、そんなに不安なんですか?」
「不安も不安よ!これで内部受からなかったら、跡部に笑われるどころじゃ済まないんだから!」

はっきり言って、自分が氷帝に入れたのが不思議だ、と自負するの考査平均点はいつも平均スレスレだった。加えて、高等部進学には指定資格の取得と、評定平均プラス内部受験の入試結果が総合で関わってくる。内部と言えど、割にシビアな戦いなのだ。

「部活もなくなったし、今回の中間考査は何としてでも頑張らなくちゃ!」

腕まくりして机に噛り付いたを、日吉は少しの間だけ見ていた。それから数回の瞬きののち、そうですか、とひとりごちるように言って、いかにもミステリーですよと主張する書籍のページを静かにめくる。

数分間は各々が各々の動作音を立て、マイペースにも緩やかな時間が流れていたに違いなかった。しかし。

「もう、だ、め、だ」

掠れたの声、そして、ばたりと言う大袈裟な衝撃音によって一連の流れに早々の終止符が打たれる。自分の視界に伸びてきたてのひらに身を竦めて、日吉は怪訝に声の主を見つめた。のっぺりと机に伏せるの姿が、そこにはあった。刹那、の伏せられた顔が少しだけむくりと浮かんで、前髪の隙間から寄せられた瞳は、いやに不気味である。

「ね、む、いよう」
「だから言ったでしょう、・・・無理なんですよ」
「少し・・・あんしんしたら、余計眠くなった」
「は?」
「なんでもない」

顎を机について、どうにか顔だけを持ち上げてから、は不服そうにくちびるを尖らせる。そして、仕方ない、と溜息を吐く。

「じゃあさ、小一時間寝るから、ひよ、起こして」
「俺に小一時間ここに留まれ、と?」
「だって意外と暇そうじゃん!いつのまに腰据えやがって!余裕だな!」
「誰かさんと違って、毎日真面目に勉強してるので」
「あっそー!じゃあそういうことで、おやすみっ!」
「・・・ふっ、・・・・・・おやすみなさい」

―――あれっ?やけに素直だったな、日吉のくせに、と思うのが早かったか、ものの数秒では眠りの最中へ落ち窪んだ。なんだか優しく齎されたようなおやすみなさいの声だけが夢の内側まで響いてきて、その寝顔は、柔らかな笑みを浮かべている。

「・・・あんしん、ね」

頬杖をついた日吉の視界には、もはやのつむじと、伸びた右腕しかみとめられない。わざわざ確認するべくもないけれど、寝息から察するに、定めて安らかに眠っているはずだ。さっき何に心を緩めたのかは判らないけれど、不安で寝不足を誘発させるなんて、この人も存外かわいい部分を持ち合わせているんだな、と日吉は思った。・・・きっと、自分のそれとは違う悩みだろうけど、と目元を擦りながら。あのとき、に寝不足ですか、と指摘したのは、当てずっぽうだ。あえて言うなら、―――自分がそうだったからだ。

縦に並んだ文節が歪むや否や、日吉の視界は暗転した。それから向かい合わせの寝息が調和するのに時間はかからなかった。



もしかしたらもうこれからずっとそうなのかもしれない、と思い始めたらそればかり考えてしまってどうにもならなくなった。ただでさえ縮まないのだ、この距離は。このひとと自分が節目を跨いで生まれて来てしまったそのしゅんかんから、けっして、1ミリも揺るがないもの。

いずれ有耶無耶になってしまうんだろうか、と思っていた。毎日のように顔を合わせて、笑顔だったり、苛立ちだったり、涙だったりを共有して、歩いてきたのに。馬鹿みたいだ、気にかけることなんて、きっと他にもたくさんあるに決まっているのに、何故、こんなに歯痒いのだろう。会話をすれば、遠ざかった日々がウソのように微笑むことが出来るけれど、来年は?日吉は新しい組織を率いて、は新しい組織に属す。そして、それが当たり前の、日常になる。そうしたら、現在は過去だ。詰められない距離が、余計に広がる気がして、ひどく悲しい。

(悲しい、悲しい)
(日吉が私の知らない日吉になる)
(そんなの悲しい)

の瞳から、ぽろりと一粒の涙が流れた。
指先がぴくり、と揺れて、ほんの微かに、伸びたの指先が、放り出されていた日吉の左手の指に触れた。それを受けて(であるかのように)日吉は中指を折り曲げて、の人差し指を捕まえる。ぎゅう、と力の篭められた人差し指は手繰り寄せるように日吉の中指に絡んだ。自分たちの与り知らないところでゼロになる距離。零れた涙の跡は消えなかったけれど、はさきほどと打って変わって、にへら、とだらしない微笑みを浮かべている。

「ひょ・・・」

消え入りそうな寝言が、鼓膜を叩いたのか、は知れないが、日吉の眉間がその折緩んだのは確かなことで、多分それは、が日吉にとって、いつもそこにあってしっくり来るもの、ひとつだったからに違いない。

そして、小さな寝息が図書室の奥で木霊する中、結局二人の指先は、


図書委員が気まずそうに声をかけるまで、離れることはなかった


のであった。





「っていうか信じらんないんだけど、なんで寝るかな!」
「…って言うか、俺起こすなんて言いました?」
「それは屁理屈ではないかね?日吉若くん!」
「チッ…」

屁理屈は言いすぎだとしても、まああの流れのおやすみなさいは確かに了承したと同義だろう。…ということは重々日吉も自覚していたから、わかりやすい舌打ちはして見せたものの、そののちはっきりと謝罪を声にした。

「すみませんでした」
「もー、すみませんじゃないよぉー、あの時の図書委員の呆れた顔!もう恥ずかしくて穴があったら入ってそのまま永眠レベルだったわ!」
「…謝っても結局これだ」
「なんか言いましたかー!?」
「言いましたが、平和的解決を望むので、言わなかったことにします」
「可愛くないなあ!なんか奢れ!絶対奢れ!」
「…部活もなくなったことですし…着実に太りますね?先輩」
「うわああああああ、マジで今むかついた!」

黄昏も終わりに近づく中、もう人もまばらな通学路にの怒りが木霊する。外に出るとバスは行ってしまったばかりだった。だから2バス停分くらい歩いちまう?と言うことになり、今に至るのだが、ひとりの先輩を歩く騒音スピーカーにしてしまうくらいだったら、あの場所に留めておいたほうが幾許かはマシだったかもしれない、と日吉はいささか後悔した。しかし、あの場所に留めておいたところで同様にバスを待つ氷帝生の注目の的になっていたかもしれないから、きっと同じようなものである。

「良かったじゃないですか、結果的にぐっすり寝れて、さっぱり起きられたんですから」
「……確かにっ、それはそうだけど…!」
「俺が起こしたら『あと5分』を…、少なく見積もって3回は言われてましたね」

朝は携帯アラームの目覚まし機能のスヌーズに頼り切りなことで定評のあるは、日吉の的を得た意見にぐうの音も出なかった。さんざん日吉を困らせた結果。ぐずぐず起きて眠いよ眠いよ繰り返す自分が、怖いくらいに想像できる。

「それは、結果論だよ、日吉くん」
「こういう場合、結果が全てですよ、先輩」

こうなると、いよいよどちらが口答えしているのかわからなくなって、不毛感を覚えたはきつく口を結んだ。それから少しの間を置いて、吐き捨てるように、悪態を吐いた。

「…もういいよ、ひよの馬鹿…毒吐ききのこ」
「なっ…!」
「あ、バス来たバスバスー!」

気付けば二つ目のバス停はとうに目の前で、丁度いい塩梅に後方からバスが向かってくるのが見える。日吉ははぐらかされたことを口惜しく思いながら、暫く反撃の機会を伺っていたけれど、はうふふ今日の夕飯は何かしらなどとひとりごちてはぐらかして来るし、バスは来るしで、すっかりタイミングを失ってしまった。はあ、とわかりやすい溜息をついて、日吉はの後に続き、バスに乗り込む



のを止めた。




「…あれ、ひよどうしたの?」
「……」
「ねえ…乗らないとバス出…
「いいんですか?」
「な、何がよ」
「せっかく…」

最後の一語を日吉が吐き捨てるのと、バスの乗車ドアが無常に閉まるのは、ほとんど同時の出来事だった。

「せっかく何か奢ってあげようと思ったんですけど」
「え?えーーーーーーー!」

プシュウ、と音を立てて、ぴっちりとドアは閉ざされた。日吉は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、扉越し、優雅に手を振っている。

「ちょ、ま、次のバス亭で降りて折り返すから、待ってて!ね、ひよ!」
「…はい?」
「ちょっと聞こえてんでしょ!待っててよね、待っててよねえええー!」

窓にへばりつきながら、声の余韻を残して、は都営バスに連れ去られて行く。次の停車駅は徒歩5分程度の場所だから、少し歩いていればきっとすぐに落ちあえるはずだ。手持ちの小遣い程度では奢れるものも限られてくるけれど、まあ、きっともそんなに我儘は言ってこないだろう。日吉はの必死な形相を思い出して、暫しくつくつと笑いながら、いやにゆっくりと、歩みを進めた。

(まあたまには)
(こんな日も悪くないな)

ほんのわずかなまどろみだったのに、思考はひどく鮮明で、心はとても、凪いでいる。目覚めるほんの間際まで、指先に覚えたぬくもりは、夢だったのだろうか。夢でなかったらよかったのに、と思った自分が気恥ずかしくて、日吉は首を振る。

ふと前を見れば、街の向こうに逃げてゆく黄昏雲が驚くほど綺麗で、鮮やかな秋の訪れを告げているような、そんな気がした。刹那、黄昏雲とすれ違うように、手を振るの姿が、視界に現れた。

「いたあーーーー!!!ひよーーーー!!!」


たぶん全速力で走ってきたであろうは肩で息をしながら、まだ速度を緩めない。怒りなのか、喜びなのか、どちらともつかないような表情で、真っ直ぐ日吉を見詰めている。
そんなを見ていると、自分が感じている焦燥とか、淋しさとか、そんなの馬鹿みたいだ、と、日吉は思った。緩む頬を押さえながら、日吉は軽く地面を蹴る。


二人の距離がゼロに近付く。


 


20121228 インターバル