もうどのくらいぶりになるだろう、このドアノブに、自ら手をかけるのは。

「なつかし…」


 が  ら  ん  ど う


少し体重をかけなければ開かなかったドアのたて付けは、赤也が部長の時代に修繕された、と聞いた。今思えば、すでにそこからガタが来ていたのだろう。呆気ないほどするりと開いた部室の扉を、潜るのもきっとこれで最後だと思ったら感慨が胸に溢れる。来月、このクラブハウスは壊されて、新しいものに建て替えられる。もうすでに建物の玄関口は立ち入り禁止の札が掲げられていたけれど、無理を言って入館を許して貰った。既にどの扉も鍵はかけられていないから、自由に廻りなさい、と言ってくれた当時の顧問の面立ちは、あの頃より柔らかに見えた。彼も今年で顧問を退くらしい。

扉を潜ると、いつもの窓が視界に飛び込んでくる。しかし部屋の様相がまるで違えて見えるのは、備品や機材が何ひとつ置かれていないからだ。残されていたのは、奥の壁沿い、向かい合って誂えられたロッカーのみである。

何もないと、こんなに広いんだ、と思いながら、私の心が寂寥で満たされる。ロッカーへ歩み寄り、最後のレギュラーの名前を辿るけれど、記憶が身勝手に名前を擦り替えて頭に送り込んだ。仁王、柳生、丸井、切原…。切原のロッカーは八つ当たりにより壊滅的になり、扉だけ新調したから他のものより少し新しくて、色調が浮いている。切原を知らない下級生は、その所以を知っているんだろうか。扉が閉まらなくなって慌てふためく切原を叱りつける真田のことを思い出したら、不意に笑い声が零れた。

「…誰かいるのか?」

入口の方向から沸いた声に驚いて視線を送ると、刹那脳裏に宿っていた人物がお目見えしたから驚いた。

「真田!」
「ああ…、お前か…」

真田は安堵したように目元を緩めて、開けた扉を丁寧に閉めた。奇遇だな、と続けた真田は、辺りを見回し、多分さっきの私と同様の感慨を胸に入れている。

「西原先生に聞かなかった?」
「ん…ああ、俺が行ったときは席を外していてな、別の先生に話をつけた」
「そか…」
「一昨日、柳と幸村が来たというから、俺も見修めにな」
「…柳め、クラスメイトなんだから誘えよな…」
「お前は忙しそうにしてたと聞いたぞ」
「確かに、まあ一昨日は委員会だったけど」

肩を竦めて、何とはなしに切原のロッカーに手をかける。ラッチのガチャリと言う音が響き、さび付いた高音とともに扉が開いた。言うまでもなく、中には何も入っていない。傍に、真田の影が及んで、少し胸がざわついた。

「…ひさしぶりだね、何だか…、クラスも3年間、別々だったし」
「そうだな…」
「…またマネージャーやりたい気持ちもあったんだけどね」
「…その件は、蓮二が最後まで粘っていただろう」
「あー、柳は自分の小間使い作って仕事減らしたかっただけでしょ」
「……お前、手酷いな、蓮二には」
「そう?…ふつうだと思うけど?」
「…ふ」

ロッカーの棚のあたりをふと一点見詰めながら、真田の笑い声を感じた私は何だか嬉しくなった。思えば、ここで見かける真田はいつもどこか張り詰めていて、凪いだ表情が珍しいとさえ思える。わきあいあいと騒いだ思い出もあるはずなのに、脳裏にちらつくのは口を真一文字に結んだ真田の姿ばかりだ。隙のないまなざし。それに余剰がないことを見て取って、盗み見ることが通例となっていたのかもしれない、と当時を憶測する私の心は、気恥ずかしさでいっぱいになった。

「……あ」

赤くなった顔を思わずロッカーに押し込めた私は、ロッカーの奥に油性マジックで書かれた文字を見つける。自分の影の所為で暗がりになってうまく確認出来ないから、少しだけ身を引いた。不審がる真田はさらに私の傍らに熱を寄越す。どうした、と真田が呟いた直後、多分ほぼ同時に私たちは、その落書きの文字を認識した。

『絶対優勝』

「…赤也かな…」
「この字は…間違いないな、あいつ…」

これはいつ刻まれたものなのか。4連覇を成し遂げられなかった中学最後の年か、はたまた、後輩気質の赤也が皆を統べて全国に導いた、翌年のことだったのか。どちらにせよ、ここに蹲り、油性マジックを握り締めた赤也はすがるような、請うような気持ちだったろう。決意を、どんな形でも刻み込みたくなるくらいに。わたしたちが、そうであったように。

「…怒る?」
「…そうしたいところだが、…時効ということにしてやろう」
「…素直じゃないな、真田副部長」
「どういう意味だ…」

(嬉しいくせに)

反論の声は笑い混じりで、私の鼓膜を優しく擽った。屈んだ真田のかんばせが、ほど近くにあって、忘れかけていたものがさきほどにもましてふつりと沸いた。瞬いて、見詰めて見ると、少しばつが悪そうに、真田は立ち上がった。そして、かつて自分の名前が記されていた後方のロッカーの前へと移動する。

「……『水沼』くん…、知ってる?」
「ああ、高等部との合同練習の折に試合をした、なかなか筋がいい」
「ふうん」
「…お前も練習くらい、たまには見にきたらどうだ」
「いいよ、寂しくなるから」
「……そう、か」

私がいなくても世界は成り立ってしまうことを、安易なまでに見せ付けられそうで怖い。それを選んだのは自分だから、余計に。そうしなかったことを後悔してしまいそうで怖い。それは、まごうことなき今の自分への否定であるし、平行世界を手中におさめることが出来ない限り、比較なんかできっこない。できっこないけれど、テニス部で仕事をさせて貰えた3年間は私の中で、今でもくすむことなくきらきらと輝いている。まばゆいほど。だからあのまま、テニス部に関わる場所に身を置いていた自分は、どう在ったのだろうかと、今でも時折考えてしまうのだった。
彼の名前が記されていないネームプレートを指の腹でなぞりながら、私は唇を噛んだ。そしてその輝かしい思い出の場所が、消えようとしている。否、もはや人の気配がしないここは、半分消えていると言って相違ない。

「…なくなっちゃうんだね…」
「……ああ」
「…寂しいな、すごく…」

俯いたら、重力に伴って水分が涙腺に傾れた。ここでの喜び、ここでの悲しみ、ここでの口惜しさ、みんなの影、みんなの痕跡、赤也の落書き、全部のいとおしいものがここには詰まっている。幸村は、ここに立って何を思っただろう。涙のひとつぶ、とまでは行かなくても、ひとひらの溜息くらいは、落としただろうか。柳は、そして真田は、何を思って、ここに。

「寂しいのは、…なにも、お前だけじゃないさ」

はっきりとして発音で述べられた言葉にはっとこうべを上げる。視線がぶつかったほんの一瞬、真田は目を丸くしたけれど、すぐに和いだ。

「幸村も、柳も、丸井も、仁王も、切原も…皆寂しがっているだろう」

小さく頷くと、真田もまた同じように首を縦に振る。途端、宿る決意めいた表情。私が見詰めた、あのときの真田だ、と思った。私が一途に想いを寄せていた、真田弦一郎の。

「強い感情と、思い出を共有できる人間がいれば、人は無敵だ」
「………うん…」
「だから、俺は辛くない」

不意に零れてしまった涙を拭って、私はもう一度、大きく頷いた。真田は眉を潜めて微笑う。あの頃より、真田は少し柔和になったと思う。同時に、あの頃から真田は、少しも変わっていないと思う。私の目に、真田はどう映っているんだろう。

「…真田は、強いなあ」
「…強くなどない、当然のことを言ったまでだ」

真田のものだったロッカーに額を押し付けながら、一息ついた私は、心の中でさようなら、と摩り替えて、ありがとうと大きく呟いた。今日この日この時を、真田とむかえられた私は、多分きっと、頗る幸せだと思いながら。


 

 


黄昏迫るクラブハウスを、携帯電話のカメラで切り取った私は、流れで一緒に帰ることになった真田の隣に小さくおさまる。もういいのか、と告げる真田は矢張りたわやかに思える。伸びる影をぼんやりと追いながら、私はぽつり、と、思わぬ言葉を吐く。

「…練習、見にいこっかな」
「…何だ、気が変わったのか」
「うん…」

何故だ、と言われれば、もしかすると大半を占めるのは不純な動機かもしれない。でも、不思議と、もうそこに寂しさは生まれない気がした。

「気が向いて、何よりだ」

夕闇の中、真田が微笑う。つられて微笑う私の中に、思い出と、暖かな感情が

暖かく灯った。

 


〔脱稿〕 20140319 がらんどう