びっくりした。

あのしゅんかん、私の世界に神様はスロー再生をかけたんだと思う。景色が反転して、おかしな浮遊感を受けとめながら、私は多分、このまま死んじゃうのかもしれないなってほとんど他人事みたく考えていた。後頭部は下に向いているプラス教室のタイルはびっくりするほど固い、イコール。計算式を連ねつつ、また別の頭では、走馬灯のようなものが駆け巡った。それを締めくくったフィルムと、最後視界に映った人物が何故か重なって、それから人の落下する鈍い音。遅れてクラスメイトの悲鳴。あれ、おかしいな、死んでないし、痛くない、と思った刹那、背中側から呻き声のようなものが身体を伝って響いてきて、驚いた。そのときはじめて、私は「誰か」の上に落下したのだと言うことを悟った。

「…ってぇーーー」
「むっ…むかひ!?」



ロップ





「…だからお前にはまかせらんねーって言ったんだよバカ」
「………すみません」
「あーマジ、超いてーし…」
「………ごめんなさい」
「あと、重かった、むちゃくちゃ」
「…っ、…申し訳ない!」

オニオンリングを食みながら、向日は非難の瞳を決してこちらには向けず窓の方向を見ながら文句した。ああ、相変わらず言い様キツいなこいつと思いながら、何も言い返せないのは仕様がないことだ。なんでもいうことを聞きますと言ったら何か奢れと言われたのでマックでいいですかと聞いたらフレッシュネスだと注文されたから今に至る。中学生の小遣いでフレッシュネスは辛い、辛いと思いながら、何も言い返せないのはやっぱり仕様がないことだ。向日は恩人なのである。彼がいなかったら、今の私はないと断言できる。後頭部は床に向かってまっさかさまだった。あのままだと、もしかしたら死んでいたかもしれない。走馬灯を見せてきたところを見ると、多分神様は殺す気だった。

「第一、女なんだからあんなところ登ろうとすんなよな」
「…あ、パンチラ問題のこと?」
「バッカそういうこと言ってんじゃねーっつうの、お前ホントバカだな」
「…顔赤いよ、向日」
「るせえ!あーくそくそ」



ロッカーの上の掲示物の画鋲が私の机の傍に転がっていた。発端はただそれだけのことだった。見上げると、掲示物の右隅がぺらぺらとしていて気になったから、留めるだけだし、そう時間はかからないだろうと椅子をロッカーに引き寄せ、その上に登った。否、登ろうとした。

「おい、何してんだよ

私のやろうとしていることに気付いた最初の人が今目前にいる向日岳人だった。怪訝な瞳をこちらに寄せられたから不本意で、私は短く理由を告げた。

「これ、落ちてたの、留めようと思って」
「やめとけよ、お前まで落ちたら洒落になんねーぞ
「へーきへーき、バランス感覚あるほうだから」
「いいから、俺に寄越せよ」
「だいじょーぶ、ノープロブレムだってば」

まー確かに、向日ならおっこっても一回転して着地してクラスメイトを沸かせるくらいのことやってのけるんだろうなとかぼんやり考えていた。そのぼんやりが集中力の欠如を招いてよろしくなかったのかもしれない。ロッカーの上に両足を着いた刹那、おもむろに上体を崩した私は、そのまま後ろにつんのめって、落下した。そして向日に受け止められて、今に至ると言うわけである。
私と言う決して軽くはない一人の人間を受け止めたことにより、向日のどこかしらが折れたり駄目になったりしてないかと気を揉んだけれど、不幸中の幸い(と、私が言っていいものかは知れないが)で、背中に軽い打撲を負っただけで済んだらしい。上手に受け身が取れていたんだろう、と保健室の先生は私達に優しく告げた。

「…とりあえず、左手が何もなくて安心したよ」
「あ?あー…まあ、そこは勿論庇ったから」

クラシックダブルバーガーを大口開けて噛み締めながら、もぐもぐと向日が返答する。テニス部レギュラーの向日にとって、利き手の損傷は致命的だ。大きな大会は終わったと言っても、まだちょくちょく部活に顔を出している向日にとって、残り数ヶ月の中学テニス部での生活を蝕んでしまうのは酷く居た堪れない。

「…まーでも」
「うん?」
「お前が死ななくてよかったぜ」
「あ、いや本当に、今この命があるのは向日様のおかげですよ?」
「感謝しろよ?っつーか、誕生日がの命日とか、最悪だかんな」
「……は?向日今日誕生日なの?」
「おう」

ハンバーガーをかじりながらあっけらかんと答える向日だけれど、私は露骨に驚いた。大きなお世話かもしれないが、誕生日にいちクラスメイトであるこんななんかとハンバーガー食ってていいのか、という疑問が噴き出したからである。彼女はいないにしても、友達とわいわいしたりとか、家族でケーキを食べたりとか、そんな営みがあるはずじゃないのか。確かにフレッシュネスバーガーはバーガーだけでマックのセットを凌駕するトンデモ価格設定だけれども、誕生日祝いに食べるにはやや寂しい代物である気がする。そして何度も言うが、目前に居るのはただのちょっと仲の良いクラスメイトでしかない女子だ。

「い、いいの、向日、これでいいのか!?君は!」
「…は?なんだよ急に」
「や、だって…誕生日なのに…か、家族とかとさ…」
「家族と過ごすって歳でもねーだろ?まあケーキくらいは用意されてるかもしんねーな?」
「だったら、仲のいい友達とかさ…」
「あー…部活の連中は祝ってくれるって言ってたけど」
「えっ、なんで、もしかして、断ったの!?」
「断るかよ、…明日にしてくれっつっといた」
「は…なんで?」
「なんでなんでってうるせえなあ」

向日はジンジャーエールを含んで口の中のものを洗い流すと、ひとつ息を吐いて、かったるそうに呟いた。私は代わりに息を飲んだ。

「…あんな風に泣かれたら、ほっとけねーだろうがよ」
「……えっ!?」
「お前だよ、っバーーーカ!」




『ご、ごめ、むか……、ごめん!』
『い、いや……泣くなって、ヘーキだから』
『平気じゃないもん…ごめんー…』
『お、おい、なんか俺が泣かしたみてーじゃねえか、泣くなって、くそ!』



…確かに、自分は負傷していないのに申し訳なさでびーびー泣いて、そののち矢継ぎ早に奢りますから何でも言ってと縋りつかれたら流石にイヤとは言い難い。私はなんだか死ぬほど恥ずかしくなって両頬を抑えた。急激に熱が顔に昇って来るのを感じる。

「……し、知らなかったとは言えごめん!」
「あーもうマジで聞き飽きた、お前のごめん」
「だってさ…」
「パンチラも気にしねーようなやつが今更委縮すんなってーの」
「え、向日見たの!?」
「は!?見てねーよ、ふざけんな!」
「別に許すよ?命の恩人だし」
「パンチラから離れろ!」
「蒸し返したの向日じゃん!」
「うっせえ」

椅子の足を蹴ってそっぽを向いた向日の顔もなんだか赤い。なんだかんだ向日って結構男前なやつだよな、見た目とは相反して、と思いながら、向日のために買ったオニオンリングをひとつつまむ。途端睨まれたからつまむのも駄目だったかと肝を潰したけれど、放たれた声は結構穏やかで拍子抜けした。

「こうなったら、とことん付き合えよな…」
「…う、うん?」
「埋め合わせしろ、っつってんの」

いつのまにかハンバーガーを平らげていた向日は、最後のオニオンリングを口に放り込んで軽快に立ち上がる。つられるようにのろのろと立ち上がって、ひとまず首を傾げてみたら、たちまち腕を掴まれた。

「ちょっと向日、どこ行くの!?」
「どっか」
「なにそれ」

掴んでいた指先がそのまま下って、唐突に掌に預けられたしゅんかんはびっくりしたけれど、向日は命の恩人だし、誕生日だし、何といっても決していやじゃなかったからそのまんまにしておいた。向日の揺れる綺麗な髪の色を見つめながら、あああそこで死んでしまっていたら、こんなことも起こり得なかったのかと感慨深い気持ちになっている私は少し変かもしれない。

「むかひー」
「んあ?なんだよ」
「お誕生日おめでとう」
「……おう」



 


20130912 ドロップス
Happy birthday Gakuto!!!