切原赤也は後悔していた。こんなことになるのなら、正々堂々教室で居眠りを決め込んで、先生に顔面チョークを食らわされた方が幾分かマシだったかもしれない。背中に物差しを入れたかのように綺麗に歩くを横目で盗み見た赤也は、内心で大きな息を吐く。鼈甲のレンズフレームの向こう側に控える瞳は、いつもいやに涼しげであることは確かだったけれど、そこから心情を読み取れた試しは一度たりとて覚えがなかった。寄りにも寄って3年連続クラスメイトになってしまったから名前も顔も熟知しているけれど、見るからに折り目正しいと言った風のの性質を、赤也は未だ好きになれずにいる。加えて、余りに奔放すぎる自分の性質を、多分彼女は好ましく思ってないだろう、と赤也はどこか確信していた。眼前にすると、蔓延る苦手意識の盾は、本人達の意思とはほとんど関係ない。致し方のない現象である。苦手にも両想いは存在する、と赤也は今身を持って実感している。
「気分、悪いの?」
ちらり、と瞳だけでこちらを伺ったは、新味のない言葉を赤也に投げる。
「…うん、大したことはないと思うけど」
「そっか、でも、風邪も流行ってるからね」
二人の会話はふわふわと宙に浮いて、心許ない。保健室までの道のりが数マイルもあるように感ぜられて、赤也は仮病に乗じた溜息を禁じ得なかった。
こうなってしまったことの発端は赤也がゲームで貫徹したと言う酷く馬鹿げたどうでもいいエピソードから始まる。(始まりが始まりなので、始終下らないことは言うまでもない)授業中眠ればいいやなんて浅はかなことを考えていたが、翌日の授業は体育・体育・音楽・技術という奇跡の安眠防止的時間割で、そこから抜け出し、昼食を終えた赤也を手招きしていたのは強靭な武器を携えた睡魔であった。5限は古典。呪文のような言葉は眠るのにうってつけと言えたが、担当教師は鬼と呼ばれる50代の男教師である。ぐーすかいびきをかき始めたら、ただでさえあんまりよろしくない古典の成績が下がりかねない。ここはいっそのこと、具合の悪いふりを決め込んで保健室でぐっすり寝るのが得策だと考えた赤也は、清々しく手をあげて、体調の悪い旨を教師に告げたのであった。
「そうか、珍しいな、切原」
眠ることは珍しくないが、病を訴えるのは存外珍しかったらしい赤也は、いささか心配そうに眉を潜めた教師に内心でガッツポーズを決めていた。保健室の清潔なベッドで安眠が確定した赤也はニヤ付く口元を押えて、具合の悪そうな表情を顔に無理矢理張り付ける。ここまでは良かった。
「保健委員―…はー」
「坂本さんは今日お休みです」
「じゃあ、クラス委員長の、付き添ってやれ」
「えっ…」
「…はい、判りました」
男のクラス委員長は、と思ったが、なんと間が悪いことに、休みの坂本が兼任している有様であった。あいつ何休んでやがるんだよ、と的外れな舌打ちを心で決め込んで、のろのろと立ち上がる赤也。それに続き、これが見本だと言うように美しく起立したのはである。
「行こう、切原くん」
赤也がしまったと思うも、時はすでに遅く、事態は今に至っていると言う運びなのだった。
この数分間をやり過ごせば、後はベッドでの安楽が待っているのは事実なのだが、唐突な気まずさからか、不覚にもやや覚醒してしまった。赤也は視界の脇でを確認しながら、どことなく具合悪そうに、と計らって歩みを進める。そのうち客観的に自分を見る余裕も出てきて、何て自分は間抜けなのだろうと唇の内側で自嘲した。盗み見たはと言うと、凛とした瞳で真っすぐ前を見つめている。足早に歩くイメージがあるけれど、そこはかとなく緩やかな歩調に思えるのは、もしかしたら自分の体調を気遣ってのことなのかもしれない。眼鏡の脇から見る限り奥に控える瞳は大きく、まあきっと、眼鏡を外せば拙くない、というタイプの典型的な面立ちなのだろう、と赤也は考えている。
(まあ、そうは言っても)
(この性格じゃ男が寄り付かなそうだ)
毛頭手酷いことを考えていたら、存外建物の端にある保健室にも早く辿り着いた、気がした。旧棟、1階の隅に誂えられた保健室は、傍から見れば居たほうが病気になりそうだというきらいがあるけれど、中は昨年改修がほどこされて内装だけは随分綺麗になった。がいやに通る声で、失礼しますと告げたのち、開かれた扉の奥からは、まだ新しい建物の匂いと、消毒液の香りがする。
「…すいません、3-Dクラス委員長のですが」
が進入して行った扉を後ろ手に閉めた赤也は、人気のない保健室を訝しく思いながら一先ず病人が座るべく用意された丸椅子に腰かけた。腿の間の座面に手を置いて、そのまま椅子を回してしまいたい衝動をどうにか食い止めながら、が徘徊するのをまるで人ごとように眺めている。ふと脇に誂えられた机に利用者名簿が置かれていたから、暇潰しに、とでも言わんばかりに、自分の名前を書き殴っておいた。
(クラス、3-D 氏名、切原赤也 出席番号、7番、容態、体調不良…?、体温…)
「そっか熱はかんだ、面倒くせぇ…」
「切原くん!」
「わっ…、は、はい?」
ベッドの目隠しカーテンが勢い良く開かれたかと思うと、唐突にが声をかけてきたから驚いた。目をぱちくりさせて声の方向に視線を送ると、やや困惑の面持ちで、が呟いた。
「先生、いないみたい」
「あー…、じゃあ俺適当に休んでおくわ、先生が来たら、話しとくし…」
「…体温計、どこだろ」
赤也の話を聞いているのか、いないのか、カーテンをすり抜けたは、すぐさま次の行動へと思考を切り替えたようで、赤也の廻りにある机の袖机やらを開き始めた。
「保健室、変わってから勝手が分かりにくくなったよね、前のほうが良かったな」
「……あの、?」
「御免、すぐ探すから」
「お、おう…」
「寝ててもいいよ、辛いなら」
「あ、うん、じゃあ、そうする、わ」
泣いても笑っても保健室までの道のりだ、と思っていたのに、とんだ有様だ、と赤也は思いながら、なんだか本当に具合が悪くなったような心地で丸椅子から身体を引き剥がす。先程が捲ったカーテンを開くと、そこには洗練されたと言うべき白いシーツの波が広がっていた。赤也は開放されずとも少しほっとして、そのまま保険室のベッドに転がる。
(…多分、カーテンは開いといたほうがいいんだろうな)
視界の脇では、が体温計を探す甲斐甲斐しい影がちらちらと動いている。あー、なんでここまで真面目かね、けして聞こえないような声で漏らした赤也は薄く笑って瞳を閉じた。
(別に…体温なんて)
(適当に書いておきゃいーっての)
(あー)
(眠たくなってきた…)
の声が高らかに響いたのは、赤也にうとうと、と言う形容がされ始めたまさにその瞬間だった。
「あった!」
「っは…!?」
「ぁ、御免、つい…」
体温計探しが難航していたのか、見つかったことに思わず声を荒げたは、肩手に体温計を携えたまま、ほんの少し罰が悪そうに俯いた。無論赤也の毛穴からはストレス物質が発散されたけれど、自分にもやましいことがあるし、は善意のほどでやっているのだろうからぐうの音も出ない。
「とりあえず、熱、測って?」
「…判った、サンキュ」
半身を起こした赤也は、伸ばされたの手から体温計を受け取る。デジタル表示はすでに点滅を始めていたから、赤也はほとんど反射的にネクタイを緩め、慣れた手つきでワイシャツのボタンを上から三番目まで取り払った。赤也の鳩尾から胸にかけての肌色が唐突に眼前に曝されて、驚いたは慌てて踵を返す。
「あ、悪い」
「別に、大丈夫」
言葉とは裏腹、上ずったの声色は、俯いたまま、彼女の爪先あたりに落下した。一方赤也はうかつにもその様子を少し愉快に思いながら、肩にしなだれたの髪の色を見つめていた。強張る空気を、そっと赤也の声が切り裂く。
「突っ立ってないでここ座れば?」
「あ、うん」
ありがとう、と消え入りそうな言葉で呟いて、赤也の足元あたりに浅く腰かけたは、けしてこちらを見ようとはしない。計測時間が定められているのは重々承知だが、体温計が怠慢しているような気がして、やきもきする。
「………切原くんてさ」
の声と、体温計の電子音が重なる。あ、と赤也は呟いて、脇に挟んでいた体温計のデジタル表示に視線を送る。36.8度。そりゃそうだ、と赤也は笑って、体温計の先での肩口をつついた。
「平熱だった」
「ホント?…いや、少し高くない?」
「俺、平熱高いから」
「そうなんだ?」
ベッドから立ち上がったは、デジタル表示を見つめながら先の利用者名簿の元へ向かう。半身を再びベッドに埋めた赤也は、薄目を開けながら、ペンを走らせるの様子を見つめている。
(そういえば、さっき)
(何か言いかけてたよな)
思案している矢先、いつのまにカーテンの傍に佇んでいたは、ほんのわずか、悩むようなそぶりを見せたのち、赤也の脇に立って、その足元に置き遣られていた肌かけ毛布を掴む。赤也が目をぱちくりさせていると衣擦れの音と共に、毛布が自分の上に広げられた。
「体温高いなら、余計、寝てる間寒くなると思うよ」
「……サンキュー」
「じゃあ、私、戻るね?」
途中になっている言葉を残して、後腐れなく背を向けたに、赤也は少し驚いた。ただでさえお喋りとレッテルを貼られている赤也は、言いたいことがあったら絶対に最後まで口にするタイプなので余計である。しかも冒頭には自分の名前が含まれていて、赤也の話がされるであろうことはまさに火を見るよりも明らかだった。こんな壮大な次回予告を残して立ち去られては敵わないし、今日を逃せばいつその続きが聞けるか心許無い。だから、カーテンをほとんど締め切って、その奥へ消えようとしたの名を、赤也は少々大き目に叫んだ。
「おい、!」
ぺたぺた、という足音が一瞬聞こえなくなって、すぐにこちらに近づいてくるのを覚えた赤也はほっと胸を撫で下ろす。ほどなくして、閉められたカーテンの向こうから、の顔がひょっこりの覗いた。
「…どうしたの?」
「どうしたの、っていうか、お前何か言いかけただろーがよ?」
「うん、でもわざわざ言うことでもなかったから、平気」
「お前は平気でも、俺は気になるっつってんの」
「…そう?」
「そう!」
そっか、と呟きながら、カーテンの内側にやってきたは、赤也の寝そべるベッドの隣に誂えられたまるで同じ形のベッドに腰を下ろす。赤也はそれを怪訝な瞳で見ていた。
「切原くんってさ」
「…おう」
「……私のこと苦手だよね」
あまりある直球の質問をされて、赤也は絶句した。一方、の表情はいつになく柔らかい。してやったり、とでも言うところだろうか。そんなこと質問されたところで、『おう、苦手だぜ!死ぬほど苦手!』と親指を立てられるほど、流石の赤也も肝が座っていない。まして相手は女だ。デリカシーという言葉を赤也が知っているかどうかは怪しいところだけれど、そのような概念を持ち合わせていないわけではない赤也はひとしきり躊躇った。
「ほら、やっぱり、わざわざ言うことじゃなかったでしょ」
「……いや、そんなこと」
「別に気使わなくていいよ、顔に書いてあるし」
ふふ、と笑んでは掌に寄ったシーツの皺をじっと見つめている。赤也はむっとして、反感の声をに送った。
「…だって、同じだろ?」
「……うん?」
「だって、俺のこと苦手だと思ってんだろ?」
「…うん、そうかもしれない」
自分とは違い、いやにさらりと言ってのけたが、また赤也は不服だった。そして、苦手な相手とは言え苦手と言われて良い気分はしないのに、あっけらかんとしているにもまた何だか腹が立つ。こんなことになるなら、引きとめて促さなければよかった、と言う後悔の念を心に湛えながら、赤也はそーかよ、との居るベッドに背を向けた。
「でも、私切原くんのこと嫌いじゃないよ」
向けた背中に、意外な言葉がぶつかって、赤也は目を見張った。直後、ぱたり、と何かが倒れる音がして、さらに驚いた赤也は半身を起き上がらせての居る方に視線を送る。大の字になってベッドに身体を預けるの姿が、そこにはあった。
「切原くん、多分少し私のこと勘違いしてるよね?」
「…カンチガイ?」
「私だって、あーこのままサボっちゃおうかな、って思ったり、するってこと」
「まっさか、嘘つけよ?」
「嘘じゃないよ」
昨日、本の読み過ぎで少し寝不足だしね、とつけたして、は眼鏡を取り払ったのち、そっと目元に掌を被せる。
「委員長の仕事だって面倒くさいし、適任だって言われてるけど、本当に向いてるかなって思ってる」
「………へえ…」
「まあ、多分今日は役得だったと思うけど」
「は?役得?」
「だって、切原くん人気あるじゃん?女子に」
よもやの口からそのような類の台詞を聞くとは思っていなかった赤也は泡を食った。先輩も卒業し、すっかり立海テニス部部長の肩書も板についた赤也に黄色い声は絶えず、それはまあ勿論赤也も恥ずかしながら少々、いやかなり自覚に至っているところではあったものの、まるで色恋沙汰に興味がないと言う風のから問いかけられると、何だか気恥かしいものがある。
「っそ、そうか…、な」
「そうだよ、3年にあがって、一段と格好良くなった、ってこの前も話題になってた」
褒められているのだから、決して悪い気はしない。しかし、仄かに赤らんだ頬をには何だか見られたくなかったから、彼女が目を伏せてくれていて好都合だと赤也は考えている。座ったまま、大の字になったの姿は無防備で、思わず寄せた視線の先には、いつもより露になった白い腿が覗く。見てはいけないようなものを見た気がして、赤也は瞳の先を自らの掌に移動させる。
「切原くんが考えるより、存外、月並みだよ、私なんて」
視線の脇で、が俄かに身体を持ち上げる。直後、鼈甲の眼鏡を纏う気配がした。
「…何で、あんなこと聞いたんだ?」
ううん、と背伸びして見せるの姿を確認することはなく、赤也はぽつりと問いかける。は多分微笑んで、そうだね、と柔らかな口調で呟いた。
「せっかくずっとクラスメイトやってるのに、勘違いされてるの、寂しいじゃない」
「……そ、っか」
「御免ね、…すこし、長居しちゃった」
立ち上がったの背中が、おもむろに、赤也の視界を独占する。とうに、まどろみはどこかに追いやられていて、せっかくベッドの感触にありついたのに、なんだかとても勿体ない気はするけれど、なんだか今は思考が混沌としてそれどころではない。まるで関心のない、別の世界の人間だと思っていたが、自分に対してそれなりの意識を抱いていたことに、ただただ赤也は驚くばかりであった。瞬間、赤也の世界に決して踏み入れることのないと思っていたの爪先が垣間見えた気がして、赤也は複雑だった。
(なんだよ)
(マジ、調子狂う)
(…ふざけんな)
「じゃあ、今度こそ戻る、ね」
かすかに
後ろを見返りながら、は小さな声で口にした。それから再びカーテンの向こうに消えようとして、途端手首に篭められた自分とは相反するベクトルの力に上体を崩す。後方にベッドがなかったら、そのままけっして柔らかくはないリノリウムの床に真っ逆さまだったかもしれない。背中から倒れこんだは、赤也の横たわるベッドに仰向けで寝転ぶような形になった。目前には、覗き込む赤也の瞳。異様なまでの近さにあって、はフレームの奥の目を丸くする。自分をこんな形にしたのは、間違いなくこの人だけれど、しかし何故、は2、3回瞬いて、それでも溢れる疑問を言葉にすることが出来なかった。赤也の唇が、視界でゆっくり動く。
「このままサボってけよ」
「へ…あ、そんなこと…」
「出来ないって?」
「だって、私」
(切原くんの)
(付き添いで、ここに来たのに)
下手な誤解を受けて迷惑するのは赤也だろう、とは思いながら、赤也のいやに大きな瞳をじっと見つめている。しかし、なんとなく首を横に振れないでいるのは、決して自分の世界に踏み込んでこなかった赤也が、唐突にフレームインして来たからだ。赤也の言うとおり、彼のことは苦手かもしれない、でも、矢張り決して嫌いじゃない。寧ろ。
(むしろ)
いちどきに、顔が熱を帯びるのを感じたは、慌てて赤也のベッドから身体を引き剥がす。赤也は、あらあら、と気の抜けた声をあげて微笑った。
「いいじゃん、なんなら、俺がうまく言っといてやるよ」
「でも…」
「へーきへーき、俺そういうの巧いから」
それはなんとなく、判るけれど、と俯いて、はカーテンを握り締める。
「役得っつーんなら、ショッケンランヨウ?も、たまにはいーんじゃん?」
「……意味わかって言ってる?切原くん」
「んあ、半分くらい?」
が振り向くと、赤也は気の抜けたような欠伸を大きく漏らしながら、半身をベッドに埋める。
「一緒にサボろうぜ?」
「………っ、切原くん、もしかして」
「あっ、……しまった」
不用意に口を滑らせた赤也は、ちらり、との顔色を伺う。呆れた、と言う文字が顔に貼り付いていたけれど、もう仕方がないか、と思って舌先をちらりと覗かせる。はあ、と大きく嘆息したは、諦めたように重い足取りを引き摺って、赤也の隣のベッドに再び腰を下ろす。
「あっれー?一緒のベッドじゃなくていいの?」
「馬鹿じゃない!?」
かあ、と判りやすく顔を赤くしたは、もう、寝る!といささか大きな声をあげて、足元の毛布を翻した。赤也は重い瞼に耐えかねて、それでも薄く瞳を開けながら、の背中を見つめる。それから、見返り、枕元の机に鼈甲の眼鏡を置き遣るわずかないとまだけ、ほんの一瞬の素顔が曝される。
(ああ、やっぱり)
(俺の予想通りだったし)
それから、ほとんど間を空けず、ふたつの寝息は静かに保健室に響き、そのリズムは、ほとんど調和してカーテンの内側で交わっていた。
世にも
気がかりな
モーメント
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