なんの変哲もない朝だった。
はいつもと寸分変わらぬ時間に学園の門戸を潜り、知人数名とすれ違い様のほほんと挨拶をして、昇降口へ辿り着く。昨晩、同じような体制で本をまるまる一冊読破してしまったから、屈むと少し腰が痛いな、なんてどうでもいいことを考えながら脱いだ靴を拾い上げると、上から四段目、左から三番目にある自分の下駄箱の扉を開いた。途端、ばさりと言う乾いた音と共に、紺ソックスのつま先へ見慣れぬ物体が落下する。びくり、とわかりやすく驚いて、それでもひとまず自分のローファーをしまい込み上履きを取り出すという一連の流れを終えて、はやっと足元へ転がったそれをしげしげと見遣った。
「……?」
封筒。それはどう見てもまっさらな白い封筒だった。銀色のテープで封印されたそれを拾い上げたは、「ラブレター?」なんてわざとらしく、ありていに、一応呟いてみたけれど、自分に限ってそれはないことは分かりきっているし、こんな酔狂なこと、ネタ以上でも以下でもあってたまるか、とせせら笑った。封筒の裏表をくるくるとひっくりかえしてしげしげ見詰めながら、上履きに収められた足は自動的に生徒会室へ向かう。
廊下の突き当りを右へ折れたところで、奥に見えるうやうやしげな木製の扉の前に人影をみとめた。「あ、」と呟き、は脊髄反射で会釈より少し深い礼を送る。
「会長、おはようございます」
「…、なんだ、今日は少し遅ぇんじゃねーのか」
「会長が早いんです、珍しいですね?」
「…言葉に気をつけろ、と、何遍」
天然無礼ないつものに朝一番で顔を顰めた跡部は、その手元に、見慣れぬ白い封筒が握られていることにはたと気付いて、言葉を止めた。はとりわけそんなこと気にも留めずに、すでに跡部によって解錠されている扉のノブに手をかけ体重を奥へ押しやった。遮光精度の高いカーテンのせいで、中は夜のように暗い。それを跡部が来る前に開いて紅茶を入れておくのがここのところの日課であったのだけど、朝練が早く終わったのか、はたまた中止になったのか、ひさびさにかちあってしまった。別段に非があるわけでもないのに、こういうとき遅いだとかとろいだとか難癖をつけてくるのが跡部と言う人である。釈然としない。釈然としないけれど、そういうのも含めてほにゃららだから仕様がない。とは日々痛感している。
「」
「はい?」
自分に続いて入ってきた影に返答しつつ、は窓の傍らへと移動した。ああ、少し邪魔だな、と目の前にあった会長机に先の封筒を置いたは、重いカーテンに手をかけ、いちどきに開いた。垂れ込めていた闇にわっと光が差し込み、生徒会室の全貌が眼前に曝される。
「その封」
「あ、ちょっと待って下さい、会長」
「ぁ?」
「紅茶が先です」
「………」 ALL
YEAR AROUND FALL IN LOVE!
朝のお勤めを従順にこなすのは悪いことではないが、これは本末転倒というやつじゃあないか、と跡部は眉間の皺を濃くする。第一あいつには臨機とか柔軟性というのが足りない。こうと決めたらこう、猪突猛進そのものである。聞こえよがしの嘆息を漏らして(しかし悲しくも届いてはいない)安楽椅子に腰掛けた跡部は、無造作に置き去られた先の白い封筒に目を留めた。ずいぶんぞんざいな扱いを受けているが、これは一体。
「………」
指を伸ばし、封筒を引き寄せた跡部は、がやってみせたように裏表をくるくると確認した。表書きはない。
「フン…」
言わずもがなダブルスタンダードを持ち合わせている跡部は、ほとんど躊躇いもなく封印として用いられている銀のテープを破いた。中には四つ折りの便箋らしき紙が1枚内服されている。引き抜き、開くまで一連の流れのようにやって見せた跡部は、飛び込んで来た冒頭の一文に不覚にも少々、わなないた。几帳面な文字で記されたそれは、自分にとって至極見覚えのある常套句ではあったものの。
『あなたのことが、ずっと好きでした、付き合って頂けませんか』
「はーーーーー!?」
紅茶をセッティングして、給湯室からいそいそと出てきたら、こともあろうに跡部が先の封筒を開いていたから面食らった。信じられない、という類の雄叫びをあげたに、跡部はうるせえなと眉を顰めたけれど、眉を顰めたいのはこっちのほうである。ガチャガチャと紅茶セットのトレイを揺らしながら、詰め寄ったは、いささか乱暴に、跡部の机上にそれらを置き遣った。
「なんで開けちゃうんです!?イミフ!イミフ!意味不明!」
「アン?テメェが俺の机に置いておくのが悪い、どう考えても」
「あれ…?……、いやいや、いやいや、どう考えても会長のほうが非常識でしょ!?封開いてませんでしたよね!?」
あまりある断定の形になぜか一瞬折れそうになったが、そんなわけあるか。は椅子の側に回り込んでさらに跡部に詰め寄るが、その気迫も、おそらく跡部にとっては猫がミャァと鳴いたくらいの効力しか持ち合わせてない。
「ああ、開けてやったぜ?」
「い、いけしゃあしゃあ!」
「…それにしても、こんなもんどこで拾ったんだ?」
「なんで拾ったって断言するんです!」
「拾ったんじゃなけりゃ、どこで手に入れる…、まさか、テメェの下駄箱に入ってたなんて言うなよ」
「その、まさか、ですよ、もう!返して下さい!」
跡部のスキをついてぶんどるコマンドを行使したは、暴かれた手紙の内容を即座に確認する。跡部は、いろいろと虚をつかれながら、の顔色をじっくりと見詰めていた。その気色が白くなって青くなって赤くなるのは、ほんの一瞬の出来事だった。予想こそすれ、愉快である。一方は、この封筒を拾い上げたとき、まさかのまさかの仮定として呟いた戯れが、真実とは夢にも思わず絶句した。
『ずっと好きでした』
「あわわわ…」
たいそれた一文に目を白黒させたのち、はふと我に返る。そしてまたたく間に頭が冷えた。安堵、とも言うべきか。
「ああ、そうか!」
「「下駄箱間違えたん」だ!」じゃねーの」
「……あとべかいちょう…?」
「ハ、なんだよ?」
なぜかハモった台詞は、が言ってしかるべきもので、決して他の誰かに推察されて気持ちのいいものではない。しかしまあ、この人にデリカシー云々を説いても徒労であるから、ぐっと口を噤むことにして、だとしたら一体、誰の下駄箱と間違えたのだろうと言う方向に思考を追いやる。しかし、その可能性は意外にもあっけなく、つぶさに塗りつぶされた。
「あっ……」
冒頭から続く文節を辿り、終着点。
なぜそのタイミングで、なのかは分からないが、送り主が自らを名乗るすんでで、まごうことなき事実が記されていたのである。
『さんの気持ちが少しでも傾いたのなら、ご連絡下さい』
と。
そののちに続くのは、2つ隣のクラスの男子生徒の名前とメールアドレスだった。彼とは中等部二年のときに同じクラスで、そういえばいくらかは言葉を交わしたことがある。自分を好きだなんでそんな素振り、まるで露呈させてはいなかったけど。
広い学園。同名はいくらかいるかもしれないが、手紙の内容を読み下すに、これは間違いなく自分のことだという確信がみるみる湧いた。これは…に惚れこんでいる人間が書く手紙である。
(そんな人間この世にいたのか)
はえもいわれぬ気持ちになって頭を抱えた。
(……マジかよ)
(……そんな人間この世にいたのか)
一方、静かに紅茶をたしなみつつ、の1人百面相を引き続き見呆けていた跡部は、ことのすべてをだいたいにしておそらく正確に悟った。そして、再び本人以外が所論してはいけないことを悪気無く考えて、不審な視線を投げた。ほどなくそれに気付いたは、かんばせをあげつつ、なんですか、と言わんばかりの視線を対抗的に送り出す。
「……私宛でしたよ、残念ながら…、名前がかいてありました」
「へえ、とんだ物好きがいるもんだな、世も末だ」
「く、口惜しいですけど……私もいささか、そうおもいます…」
「……なんて顔してんだよ」
「……どんな顔してるんですか?」
「ひでェ顔だ、…輪をかけて」
「ひでェ性格の会長よりマシです」
「テメェ、この俺」
「そんなことより!どうしたらいいですかこれ!」
跡部の言葉をあからさまに遮って、は会長机に乗り出した。勢いよく自分の数センチ先に詰め寄ってきた所謂ひでェ顔というやつに、不覚にも面食らった跡部は刹那言葉を失ったが、ひとつの咳払いののち、すぐにいつもの口調を舌に乗せる。
「どうしたもこうしたも…テメェの好きにしたらいいだろ?何に迷う必要がある」
「迷うというか…その」
申し訳ないことに、もともと好きか否がを判別するようなところに至ってない人物からの告白に、迷うと言うか正直当惑してしまう。恋愛から離れれば、まあ嫌いではないし、生理的にダメとかそういうことも毛頭ない。確か所属していたのはバスケ部で、中等部の折にはレギュラーで、この学園においてテニス部ほどではないが3本の指に入る花形だ。そしてからかい半分でこのような手紙を送ってくるような性質ではないと思う…多分。
「……んだよ」
「会長は、こまんないんですか!」
「ハァ?俺?」
「だって、こんな手紙下駄箱がブチ壊れるほど貰ってますよね?毎回毎回どうしてるんですか!」
「…フン」
跡部は不敵に微笑んだ。あ、聞かなきゃよかった、と思ったけれど時はすでに遅く。
「雌猫どもは俺を手に入れるなんざ恐れ多いと思ってる輩ばかりだからなぁ、薔薇一輪と、謝礼の手紙ひとつで事足りる」
「…聞く相手間違いました」
そこそこもてて、ごくごく一般的な、日吉あたりに質問すべき事項だった、とは反省した。日吉は定めてそれなりに充分悩んで返答するに違いないだろう。
「………で、どうするんだ?」
なんだかんだでの動向が気になるらしい跡部は、オレンジペコ最後の一口を味わいつつ問いかける。がむむむ、と唸るのがいささか釈然としなくて癪だ。
「べつに嫌いとかではないですけどね…」
「…まぁ、そいつの人となりを知るからに、何故なのか、と思うばかりの男ではあるな」
「デスヨネー……だったらまあ、試しに付き合ってみるのも、アリですね」
いつになく淡々と言ってのけたは、跡部の前に置かれたカップを下げつつ、うんうん、と頷いた。
「の癖に生意気じゃねーの」
「ぎゃっ!知ってます!?会長、それジャイアニズムっていうんですよ!」
「アーン?何二ズムだって?…まぁいい、好きにしろ」
「跡部会長の仰せのままに!」
その返答はなんだか違う気がするが、はなんだかご満悦気味である。まさかよもや、浮かれているんだろうか、と思ったら、さきほど覚えた釈然としなさが苛立ちめいたものに姿を変えた、気がした。意味がわからない。わからないけれど、とりあえず、今の跡部にとって確認しておきたいことはただのひとつである。
「!」
「ヒィ!?」
跡部に背を向け、給湯室へ向かっていたは、忽如飛んできた罵声に軽く飛び上がった。拍子に、ティーカップがトレイの上から浮かんで、そのまま足下に落下する。運良くそこは絨毯の上で、カップはほとんど音も立てず、毛並みにごろりと横たわった。それにすっかり気を取られていたは、いつのまに立ち上がった跡部が、自分の傍に控えていたことにまるで気付かなかった。カップに伸ばすその手を、ぐっと掴まれるその瞬間まで。
「あ、と、べかい」
「」
「は、はい」
見上げた跡部の顔は、思い違いでなければ怒りを孕んでいるような気がして、はいささか恐ろしくなった。おかしい、さっきまでわりと他愛なく言葉を交わしていたはずだったのに。もしかして、自分が少々浮足立っていたことがおもしろくなかった、とでもいうのか。だって仕様がないじゃないか、自分は跡部と違って、好意をぶつけられることに馴れきったさみしい人間ではないのだから、ほんのいっときひたらせてくれ、……もちろん、付き合う気など毛頭ないけれど。
「確認だが………」
「はい、…はい!?」
「……テメエが惚れてんのは、どこのどいつだ?」
「んな…」
「どこのどいつだ、アーン!?」
ほんの数センチの距離まで詰め寄られた所為で、跡部の求める回答が、眼前いっぱいに広がったから、どうしようもなくてはただ絶句した。たぶん、すっぽりと、話題の中心核にあったバスケ部期待のホープのことは抜け落ちて、かわりにめくるめく走馬灯のようなものが、呼んでもないのに頭をぐるぐる回りだす。
跡部を初めて壇上で見詰めた日のこと。
紅茶を淹れる役目を横柄に仰せつかったこと。
自分の淹れた紅茶なら、毎日飲んでもいい、と褒められたこと。
雪の日に唇をいともかんたんな気持ちで奪われたこと。
バレンタインチョコのお返しに、高級チョコを大量に貰ったこと。
卒業後、跡部の誕生日、中等部の生徒会室まで自分に会いに来てくれたこと。
高等部にあがっても、執行部へと誘ってくれたこと。
(………あれ?)
おかしい。
なにがおかしいのか。
なにが違和感なのか。
跡部はこんな一連のことを他の誰にでもするのか。
……跡部の性格上、そうは思えない。
それともすべて自惚れで、からかいの延長?ほんとうにすべて?ほんとうに?
「……」
ダメ押しのように名前を呼ばれて、びくりと身体が撓る。相変わらず深碧をした双眸は美しいばかりでつい引き込まれてしまう。ああ、どうでもいい、と思わされる。先の手紙も、跡部の気持ちすら。
どうでもいい、私はこの人が好きなんだ、と。
「………跡部会長です」
跡部は刹那、はっと目を見開いて、それから少しだけ、緩めた。
「跡部会長が、いちばん、好きです」
ずっと昔から、と継いで、は口を真一文字に結んだ。普段みたく、ちゃらんぽらんにできれば良かった。しかし、いざはっきり言葉にしてしまうと、なんだか下手なものがこみ上げてきてよろしくない。俯くと、手首に込められていた力がふと緩んで、その指がいやに優しくの御髪を掠めた。
「…………それでいい」
「…ハァ、今更……ホント、やめて下さい」
「ハ、好きでもねえ男に現抜かしてやがるからだろ」
「…ジャイアニズム………」
(好きにしろ、っていったのは誰だ)
なんだか途轍もなく疲労しつつ、ぼそりと呟いたは目線の少し上にある跡部の瞳を睨みつける。その色は、先程より随分穏やかで、今度はが釈然としなくなってくる。
別段、この人を独占したいとかできるとかそういうたいそれた異次元的なことは他の雌猫に違わず自分だって考えてはいないけれど。
(跡部会長のばかやろう)
腹が煮えたは、ことを終え、屈んだ身体を戻そうとした跡部の腕を掴み改めて跡部に鋭い瞳を送る。かすかに目を見張った跡部をことさらに見詰めて、はなるたけドスの聞いた低い場所で声を放った。
「………けっこんできなかったら、かいちょうのせいですからね」
「…は?テメェ何言ってやがる」
「すっとぼけないでください!こんだけホンローしてけっこんできなかったら、一生うらんでやる!」
齢15かそこらの発言とは思えないが、はわりかし真面目だった。わけのわからない孤高の君主にがんじがらめにされて、恋愛できるか心許ない。これでひたすら相手にされないその他エキストラの雌猫と同様だったら諦めもつくけれど、当の跡部と言えばなぜかおもしろがってにちょっかいをかけてくるからあまた存在する異性という生命体に目を遣るゆとりもないのが実情だったりした。
これで将来、男という男を跡部と比較して淘汰していってしまうようになったらいよいよ終いだ、とは思っていて、なぜならば跡部以上の男なんていうのはそんじょそこらに転がっているものではないからである。跡部は、といえば、珍しくの気迫に気圧されている、というように見えなくもない。
「私はおもちゃじゃないんですよ!跡部会長と違って暖かな血の通った人間なんですよ!」
「なんで一言多いんだ、テメェは、喧嘩売ってんのか!」
「売ってます!売ってますとも!」
「いい度胸じゃねーか…アーン?」
「とにかく、とにかく、とにかく!婚姻届に血判押す気概もないのにチャカさないでください!」
「血っ…そんな薄ら寒い婚姻届があってたまるか!」
「それともなんですか!?跡部会長は、こんなちんちくんりんでおつむてんてんのが!好きだとでも!言うんですか!?え!?」
そんな無様な質問に対する答えはわかりきっていたが、ここまで来たら威勢のみである。いままで、ある程度手玉にとられることは仕様がない我が君のためだと目をつむってきたけれど、ここまで来たらあとには引けない。わかりやすくいえば、今後の人生がかかっている。
ただ好きでいさせてくれればよかった、求められるものは受諾しても求めてはいけないと、思っていたけれど、余計な思い出が増えてしまったせいで、下手な思惑が頭を擡げる。そうさせたのは跡部だ。全部跡部が悪い。
「…………フン」
清々しいまでに鼻で笑い飛ばした跡部は、腕を組みつつを見下ろす。一瞥されるのを判りつつ、跡部の瞳を真っ直ぐ見上げるは、虚勢を張りつつ、実のところこみあげてくるものをぐっと堪えていた。
まあ別にいい、それはきっと、あまたいる雌猫達が味わってきた胸の痛みである。甘んじて、かどうかはわからないが、受け入れよう、とは心で頷いた。
「覚悟はあるのか?」
「…………へっ?かっ?」
「寸足らずで能無しのテメェは、俺様の女になる覚悟があるのか?って聞いてんだよ」
「…カクゴ、カクゴ………?」
の言葉をいらん要約で復唱した跡部は、いやに静かな口調でに質問を繰り返した。一方『テメェのことが好きだなんて、天地がひっくり返ってもありえねぇな、馬鹿馬鹿しい』という類の、手酷いふられ文句を待っていたは、なかなか頭が切り替えられない様子だった。まるで始めて聞く単語のように、片言で呟きながら、どうにか跡部の言葉を?み砕く。
「…?」
「…、その、あ、あああ、あるって言ったら、どうなるんです?」
「ハ、撤回出来ねぇぞ?…いいんだな、」
(よくないかもしれない!)
とは思ったけれど、予測不能の展開に思考がままならないまま、はこくりと頷いた。覚悟、といわれても、この暴君に、今まで至極勝手きままにやられてきた。黒にいくら黒を塗りつぶしても黒以上にはならないし、口惜しいかな、最終的には主犯格であるこのひとに、完膚なきまで救われて来た。
跡部はふ、と笑んで、ゆるゆるとその指先をのかんばせに伸ばした。大きく、節張った掌が、頬に触れて、はまさか、と思いつつ戦慄した。
「なら良い、言ってやる」
「え、ええええあとべか」
「黙れよ、聞きたいんだろ?アーン」
碧眼の双眸を間近に捉えながら、は自分の意識をいやに遠くに感じた。耳を塞ぎたい衝動や、突き飛ばしたい衝動が沸いて、それでもすんでで堪えたのは、どこかで耳を欹てたい自分が存在するから…かもしれない。怖いもの見たさに似ている、といったら跡部は怒るかもしれないけれど。
「いやあの、ちょっとあのその」
「……、お」
キーン、コーン、カーン、コーン…
キーン、コーン、カーン、コーン…
の言葉を掻き分けて、跡部が核心を音にしようとした瞬間、あまりにも無思慮な朝の予鈴が二人の間を劈いた。へっ、とは間抜けな声をあげて、跡部はぴくり、と瞼を震わせる。そういえば、今は朝礼前の登校時間だった、と言うことを、多分二人は途中からすっかり忘れていた。
「…ホームルームか」
まるで何事もなかったかのように、から掌を引き?がした跡部は、さっと踵を返し、机の脇に置かれていた鞄に手を伸ばす。はぽかんとその場に立ち尽くしていたが、跡部の豹変ぶりにゆるゆると意識を取り戻す。
「えっ、えっえっぇ?かいちょう!?」
「あん?なんだよ」
「なんだよも何も………、ちゅうとはんぱすぎやしません!?」
「…油売ってると遅刻するぞ?…いいのか?」
「はっ!!!!」
生徒会室は教室棟の外れ。
しかもの教室からはほとんど一番離れている、と言える距離にあった。始業ベルのタイムリミットまで5分。廊下を走るわけにはいかない、となると………シビアに危うい。執行委員が遅刻など、もっての外である。
「う〜〜〜〜!!!」
は軽くじだんだを踏んで、何故か余裕癪癪に腕を組む跡部を睨みつけた。言うまでもなく、蚊でも止まったような表情でを見下ろした跡部は、物言わず扉の方角を顎で指した。は悔しさをありありと滲ませつつ踵を返した。けれど、間髪入れずにまたそれをひらりと返す。
「跡部会長!!!!!!!!!!!」
「…なんだ、」
「…ひとつだけ、言わせて下さい」
はいつになく真面目な顔で、眉を顰める。跡部は平生を張り付けて顎で続きを促した。確かにまあ、この仕打ちでは流石のも釘を刺したくなるだろう、仕様がない。甘んじて受け入れよう、と跡部の内心に爪の先ほどの仏心が生まれる。しかし無意味だった。
「……食器は休み時間、洗いに来ますので、お許しを!」
「………………テメェ、…………………」
(こいつは………、)
(こいつだけは………!)
この一連の流れの後、放置プレイのような仕打ちをされてなお皿の心配を念頭に追いやる眼前の人間の頭の中をかち割って覗いてやりたい。否、探求心云々は抜きにして、こいつの頭をかち割ってこらしめたい、と跡部は強く思った。腕に力を籠めて、わなわなと震える跡部を後目に、はもう完全に自分の教室へ意識を移していた。しかし、開け放った扉へ跡部を「どうぞ、」と誘導する心配りは辛うじて残っていたらしく、愚臣の極みとも言えないところが口惜しい。
「あ、そうだ」
「……あん?今度は何だ」
「へんじのことですけど」
「返事……、ああ」
「はじめから、1ミクロンも付き合う気なんてなかったので安心して下さい?」
「あんし……」
「少し、会長がどんな顔するのか見たかっただけです」
…これじゃあ、どちらが翻弄されているのかわからない。
跡部の眉間の皺を確認したは、少し悪戯っぽく微笑んでのち、颯爽と扉を閉ざした。室内で翻ったラブレターが、机からふわりと床に落下したのを、気にも留めずに、二人は廊下をいつもより少し足早に進んでいく。
|