10月。日盛りを終えた外気はほどほどに秋めいて、いよいよやってくる冬さえ彷彿とさせる。かじかまないまでも冷たくなった指先に鍵をぶら下げながら、は廊下を滑るように歩いていた。黄昏を過ぎ、雨雲が近付いているらしい空はすでに暗い。忘れ物を救出するため、生徒会室を解錠し扉を引いたは、いるはずのない人影に頗る驚愕する。ひっ、と声にならない声をあげ、固唾を呑んだは、恐る恐る目を凝らした。恐れ多くも会長机の安楽椅子に、その人はのうのうともたれている。不埒な侵入者、とはじめは恐怖にわなないたであったが、よくよく見れば、誰よりも安楽椅子に馴染むその人は、昨年卒業した元生徒会長であった。

「…かいちょ……、跡部先輩…!」



 つ

  も

   の

 ア

  を




の言葉にぴくりと瞼を揺らした跡部は、暗がりの中、ゆるゆると意識を取り戻す。長い睫毛を瞬かせ、目前の人を捉えた跡部は、口角をあげるいつもの笑みをありていに貼り付かせた。

「…何シケたツラしてやがる、
「…はあ、第一声がそれすか」
「俺様が逢いに来てやったんだぞ、光栄に思え」
「暗がりにぬっと現れたら、いくら跡部先輩でもただのホラーです」

定めて倒錯的な台詞をすり抜けて、照明のスイッチを探し当てたは、溜息と同時に人差し指へ力をこめた。ちかちかとまたたいて、部屋に明かりが灯る。不満気に眉を顰める跡部を通過して、その後方に視線を送ると、カーテンがひらひらと風を受けていた。まさか。

「…跡部先輩、つかぬことを伺いますけれど」
「なんだ、言ってみろ」
「まさか窓から侵入されたんですか?」
「他にどんな方法があるってんだ?あん?」
「…そんな踏ん反り返られましても」
「俺様的には都合が良かったが、通常戸締りはしっかりしておけよ」
「…………いや、だからそんなに踏ん反り返られましても」

なんでこの人はときどきこうも馬鹿なんだろう、と思いながら、跡部の後方に回り込んだは窓のクレセントに手をかけた。ここは窓の立て付けが少々緩んでいて、クレセントの引っ掛かりが甘い。よって手前の窓を押し込んで施錠しないと閉まらないことがしばしばあるのだが、跡部はそのことを知っていたのだろうか。窓の外はすでに夜の色味を帯びている、上に秋雨の気配が濃厚だ。しかし、なんとなく今日は早く帰れそうにないな、と変な予感を覚えながら、は跡部の方向へ向き直る。ふと、跡部の視線もこちらに寄せられていたから変に心臓が上擦った。それを見て取ったのか、跡部の口元は改めて片笑まれる。

「今日はまた何しに来たんです?」
「言っただろ、テメェに逢」
「いや、そういうのいいですから、第一今日、誕生日じゃありませんでした?」
「…は、上出来だな、
「忘れようったって忘れられません、悪夢の日でしたから」
「…前言撤回、口を慎め」
「いや、事実ですし」

10月4日、この何の変哲もない日が跡部景吾によって激動した2年間をは決して忘れないだろう。例えるなら生徒会執行部はきっと正月の平安神宮、鶴岡八幡宮、明治神宮あたりの宮司や禰宜さながらと言った殺伐さを備えていた。生徒会室へ賽銭のごとき投げ込まれるプレゼントの数々を受け止めるのまで自分の仕事なのか、と言う不条理さが頭を掠めるも、勢いを増した雌猫達に何を言っても無駄だから仕様がない。跡部の所属するもの全てを受け口として考えられていたことを思うと、きっとテニス部の面々もさぞかし苦労したであろうことは想像に容易かった。

「日吉くんも、今年は平和だって呟いてましたよ」
「あん?面識あったのか、意外だな」
「あ、言ってませんでしたっけ?クラスメイトです」



3年のクラス替えで、テニス部部長の日吉とは同じクラスになった。別段、今までさして接点もない2人であったが、ふと跡部のことに関して意気投合することがしばしばあって、わきあいあいとは言わないが(日吉がそのような気質を持ち合わせていない)時折言葉を交わすくらいの間柄には進展した。と、言うか寧ろ2人の会話の糸口はもっぱらそのことに偏りつつある。今日も数学教師にクラス全員のノート回収を指示されて、着席していた日吉に話しかけた際に会話が自然とそちらに逸れた。

「…平和だな、今年は、…お互い」

ノートを差し出しながら、日吉がぽつりと呟く。主語はなかったが、人より思考が幾分かのろまなでも何が言いたいかすぐに判別できる重厚な一語であった。頷いたは、ノートを受け取りつつゆるゆると首を振る。

「平和が一番ですよ…」
「…同感だな」
「テニス部室も賽銭箱だったの?」
「近いものはあった、しかしそれよりその他レギュラー部員へのアプローチが酷かった」
「…え、跡部先輩の誕生日なのに?」
「直接プレゼント渡せるようにとりつけろだの、特別なモーションでプレゼント渡せだの注文してくる輩がいやがるんだよ」
「…あー、なるほど、介して跡部先輩へ向かうわけ?」
「俺は言うまでもなく突っぱねてやったけど、鳳と樺地は苦労しただろうな」
「優しいもんねえ、鳳くんは日吉くんと違って」
「…お前、今さらりと喧嘩売りやがったな?」

要らぬことまで声にしてしまったは慌てて口に手を遣るけれどもはや時すでに遅く日吉の眉間にはしっかり皺が刻み込まれている。誤魔化すようににこりと笑みを作って身を翻すと、の後頭部で深い溜息が響いた。

「…話の通りだな」
「……どういうこと?」
「いや?こちらの話」

かように、時折日吉が跡部から自分のことを聞き及んでいる風の言動をするのがはいささか気にかかった。何の変哲もないいたいけな一般女子であるこの自分をわざわざ会話に出すいわれもよくわからないけれど、跡部と言う変哲の塊を通過することによって胡乱めいたものになっていやしないだろうか。何の変哲もないいたいけな一般女子であるこの自分が。



「平和、ね…」
「そんなことより、いいんですか、こんなところで油売ってて?」
「大きなお世話だ」
「ええまあそうとは思いますけれど、高等部で私達のような犠牲者が出るかと思うと、とても人事とは」
「テメェは本当に口が減らねえな…

低めの声をあげて立ち上がりつつ、自分の名前を呼んだ跡部には一瞬びくりと身じろぎした。しかし跡部は距離を詰めて自分を見下ろしては来たものの、それ以上何もしようとはしない。まあ思い返せばこのような威圧は1年くらい前まではいくらでも経験してきた。大方軽くはた くくらいしかしてこない跡部だけれども、今回ばかりは何かもっとひどいことをされるのではないかと身構えてしまうのは、跡部が与えてくる威圧感が並大抵を軽く超えているからだろう。

「お前、縮んだか」
「の、伸びましたよ!」
「そうかよ、見えねーな」

失礼な物言いでの頭に掌を寄せた跡部は、くつくつ笑いながらの頭をボールさながらにぽんぽんと軽く叩く。眉を顰めつつ見上げた跡部の顔からは、自分が見知った時まだありありと滲んでいた少年らしさがほとんど抜けていたから、少し驚いた。どんな賛辞を与えても有り余るほど綺麗なその面立ちは、歳を重ねて青年に近づく毎一層人を引き付けて止まないのだろうと率直に思う。もともと日本成人男子の平均を超えていたのに、ことさらすらりと伸びた身の丈もまた。
進学して校舎の離れた跡部はそれでもしばしば愛着のあるらしいこの教室のドアをノックする。そして淡々と挨拶しがてらは毎回月並みに思うのだ、ああやっぱり自分はこの人のことが好きなのだ、昨日よりもっと好きかもしれない、と。

「…流石に去年の今日は俺様も命の危機を感じた」
「ああ、なんかそういえば死ぬかと思ったぜとか漫画めいたことぼやいてましたね」
「一言多いな、テメェはよ…、だからまあ今年は影武者を立てたわけなんだが」
「うわ、漫画の次は戦国時代…」
「俺様になりすませるやつなんざこの世界に存在しねえからな、時間稼ぎにしかならねえだろうが」
「あー、左様でございますね?」
「ひとまず、ここまで逃げてくりゃ大丈夫だろ」

の髪のてっぺんをぐしゃぐしゃと弄びながら、嘆息した跡部を見上げつつ、なんだそういうことかと心で呟いたは爪の先ほどではあったけれど落胆した。まあ本当に、自分に逢いに来てくれた道理などないと頭では判っていたけれど。

「…………紅茶、いれましょうか、跡部会長」

少しだけ
うやうやしげに告げたに刹那跡部は頓悟したけれど、直ぐ満足気な笑みを口元へ称えて、返答を零す。

「ダージリンだ」

一礼してその場を去るに目を細めて、跡部は再び、どっかりと安楽椅子に身を沈める。
肘置きを撫ぜる自らの指先の向こうに控える景色は、喧騒に波立つ心を凪ぐのに充分で、自分が離れて久しいにも関わらず、懐かしいを通り越しまだここが自分の居場所であるという錯覚すら沸き起こった。今秋から高等部の生徒会長に就任した跡部は、中等部に用意されていたものとほとんど同様の安楽椅子とソファを誂えさせた。しかし何故だろう、馴染み深い所為で愛着が沸いているのか、此処のほうがずっと居心地もおさまりも良く感じてしまう。やがて鼻腔を擽る紅茶の香りが、一層気持ちを高ぶらせた。

「…らしくもねえ」

安楽椅子に深く腰掛けひとりごちた跡部の視界に、紅茶の用意を終えたらしいがひょっこり現れる。そこで景観の何もかもが完成した気すらして、跡部は聞こえないよう舌打ちを漏らした。中等部の活動時間を考えれば、侵入したのはすでにもぬけの殻であっておかしくない時間帯であったから、本当は少し身を隠してほとぼりが冷めた頃迎えを呼ぶ算段であった。(窓の施錠が甘いことは知っていたが、修理されていた場合正攻法で職員室に向かうつもりではあった。)その前にへ一報を入れることも頭を掠めなかったわけではないが、(樺地はすでに跡部の雌猫から包囲網を張られている。)自分がうたたねしている間にが現れたのはまったくの誤算である。のろくさ後片付けするとかちあう可能性はなきにしもあらず、とは思っていたけれど。

「お待たせしましたあ」
「待ってねーよ」
「あ、その返し、レアですね」
「………なんだよ、その無駄な皿は」
「あー…これですかー」

の持ってきたお決まりのトレイの上には、紅茶のポットと、ティーカップがふたつ、ソーサーがふたつ、そして何も乗せられてないお茶受け用の小皿が配置されている。それからジノリのソーサーにカップを重ねて、ダージリンを注いだの一挙一動は手馴れたものであったけれど、表情だけはいやにそぞろであった。不審を顔に張り付かせ、肘をついた跡部は、おい、と続きを促した。跡部に渡すカップへゴールデンドリップを落としてから、はい、と間の抜けた返答をしたは、少々脇見をして、それから跡部の眼前を少しだけ離れる。怪訝な瞳のまま見詰めていると、は作業机の下を覗きこみ、あった、と小さく呟く。奥から引き出されたのは何の感情も持ってないようなクラフト素材の紙袋であり、がこの教室に戻った何よりの理由であった。

「先輩、この前来たときフランスのお土産下さったじゃないですか」
「ん……、ああ、エシレバターか」
「びっくりするほど美味しかったんですけど、超熟に塗って根絶やしになるのは少々気が引けて…パスコには申し訳ないのですが」
「…………超熟?パスコ?」

聞きなれない庶民用語の乱立に首を傾けながら、なかなか迫らない核心に跡部は少々焦れ込んだ。は説明にやたら回り道をするくせに、焦ると主語もなく結論だけ伝えて来たりするからわけがわからない。国語の成績はさぞかしお粗末なのだろうと思っていたら10段階評価の10だというから勉強は必ずしも日常生活の役には立たないのだなと痛感せざるを得ない。

「結局皿はどういうことで、その紙袋は何なんだ」
「あー……、いちかばちか、と思ったんですが」
「だから、何がだよ」
「……お礼を兼ねて、クッキーを焼きました」

紙袋の中からそっと取り出されたのは、ワックスペーパーの包み紙である。エアメールの色を編みこんだ麻紐で結ばれたそれには、スカイブルーの小さな荷札がついていた。跡部は柄にもなく一瞬首の後ろが粟立つ感覚を覚えて、それからわけのわからない安堵感のようなものに苛まれた。

「…直接渡せるとは夢にも思いませんでしたけど」
「……ふん、今度こそ上出来だな、
「食べたら前言撤回かもしれませんよ」
「いいから寄越せ」

手を伸べられてのち、また一瞬躊躇いを見せたではあったけれど、元来渡すつもりではあったわけだからすぐに観念した。きっと今年も跡部を想うあまたの女性達は万策尽くしてこの日を迎えただろうに、とんで火に入る夏の虫と言ったら我が君に失礼千万ではあるけれど、かように瞳を交わしたまま祝いの言葉を述べられる自分はきっとひどく幸運なのだろう。のためだけに緩められた瞳。定めて卒倒もののそれをいかに涼しげに受け止められるかが自分の腕の見せ所だと思うのだけれど、身勝手に熱くなる頬はきっと反射神経によるところのものだから、頭で制御しようとしたところでどうにもならない、ということにしておくことにする。

「お誕生日おめでとうございます」
「ああ」

荷札には几帳面な文字で筆記体の祝い文が並べられていた。昨年のバレンタイン事件で隠しても無駄だと身に染みたのか、今回は最後にの名前が付け加えられている。それを指の腹で撫でつつ、跡部は吐き捨てるように、しかし確かめるように次の言葉を紡いだ。

「…来年からはテメェも高等部だ、
「あ、はい、次の考査でトチらない限りは!」
「テメェは馬鹿だが頭の出来はいいから問題ねえだろ」
「うわあ跡部先輩にだけは言われたくない」
「んとにテメェは…、まあいい、無論、委員会は決まっているんだろうな」
「その眼力に逆らえるような気質はありませんね、いたいけなので」
「何寝言言ってやがる、毛の生えた心臓の癖に」

麻紐を解き、包みを開くと中からバターの芳醇な香りがした。中からはシンプルなプレーンのクッキーが覗く。実にらしいと思いながら、一枚つまんだそれを齧ると、の口からは、あ、と驚愕めいた声が漏れた。あえて感想は告げず、ダージリンで口を潤した跡部は二枚目のクッキーに指を伸ばす。

「言ったよな?紅茶をいれる腕だけは買う、と」
「私以外にも、上手な人はごまんといますよ、たぶん」
「………俺様に惚れているんだろ、

忽如引っこ抜かれた核心に、わなないたは跡部の顔を見ていられなくなって爪先を睨む。だから何だと言うんだ、そんな人間こそごまんじゃ利かないだろう。翻弄、という二文字が頭に浮かび、なんだか非常に不快な心地になった。は自らの意思で跡部の傍に居るのであって、そこに跡部の思惑や画策など要らないのだ。つまり、実ることなど随分昔に放棄している、ということである。

「…2月の話ですよ」
「ハ、心変わりした、とでも?」
「……はい、まあそんなところです」

二枚目のクッキーを咀嚼し終えた跡部の眉尻がぴくり、と動くのを、は見逃さなかった。なんとなくどきり、と心臓が揺れたのは、嘘を吐いてしまった後ろめたさによるものだろう。しかもこんな判りやすい嘘を。第一、こんな日にわざわざ手作りのプレゼントまで用意する健気な人種が自分のことを悪からず思っていない道理などあろうか。

(…あれ?)

しかし、予想に反して跡部の顔は次第に鬱屈したような色味を帯びて来たから驚いた。そうか、自尊心を傷つけたのかと思った頃には遅く、唇から舌打ちに次いで飛び出したのはひどく低い声色である。

「留守の間に、俺様の所有物をたぶらかすとはいい度胸だな」
「えっ?はっ?所有物って、私のことですか?」
「他に誰がいるんだ?あん?」
「所有契約、結んだ覚えありませんけど」
「俺がそうだっつったらそうなんだよ!…誰だ?まさか日吉じゃねーだろうな」
「な、は?日吉くん!?」

思いもよらない名前が飛び出して、の咽喉元に思わず笑いが込み上げた。日吉は確かに見目格好いいし、跡部の居なくなった一年間、宇宙レベルのプレッシャーに物怖じすることなく200人の部員を束ね、テニス部の部長を務め上げたという素晴らしい功績すら持ち合わせている。偏屈なやつではあるけれど、話して見ればなかなか面白いやつだということも判った。しかし、そこでの中の恋慕を突き動かしたかと言えば答えは断固としてノーである。と言うより、恋とかいう陳腐な二文字に納まらない程度に、の内側の跡部は肥大していて、もはやその胸懐は忠誠と類似していた。そういう意味では、跡部の言う通り、自分は彼の所有物なのかもしれない。ただ、求められるものは受諾しても求めてはいけないという暗黙のルールを心に定めているにとって、この狼狽は予想外のものであったけれど。

「す、すみません、先輩」
「あん!?」
「う、……嘘です、嘘八百です」
「…んだと」
「ごめんなさい、つい、あの、出来心で…」

できごころ、とオウム返しした跡部はいつのまに乗り出していたらしい半身を再びどっかりと安楽椅子に沈めると、ティーカップに唇を寄せた。まだ口をつけてない自分用のカップは、すでにはかない湯気を吐いている。かぶりを僅かに上げて、上目で確認した跡部はいかにも怒ってますと言うオーラを余すところなく垂れ流していた。自尊心を傷つけられた上にたばかられたとあっては無理もない。かつて跡部の下で働いていた折は自分の不手際で罵声を浴びせられることもしばしばあったが、血を這うマグマのような怒りはさほど経験したことがないから居た堪れなかった。沈黙が耳に痛い、と思っていたら遠くで雷鳴が木霊した。そろそろ一雨やってくる。証拠に、この場所の雲行きはひどく怪しい。

「………弁明」
「ふわっ!?」
「あるだろ、なければ絞り出せ」
「あ、あの、そのう…」

口籠るを尻目に、最後の一口を飲み干した跡部は、奥にあるのカップに手を延べた。よく考えれば、へらへらと薄情に見えて実のところ物堅いのような人間が簡単に掌を返すべくもないことは道理である。しかも、かような自分に一度惚れておいて、他に心を奪われるなどあってはならないことだ。(この自惚れは跡部ならではと言える。)見抜けなかった自分もまた愚鈍であったと思う一方、それでも腹の虫の治まらない跡部は鋭い眼差しをに差し向ける他術を持たない。

「……あ」
「あ?」
「…跡部会長以上の人なんて、この世界に居るわけないじゃないですか…」

の放った一語は申し開きと呼ぶにはありあまるほどで跡部は不覚にも面食らった。先に考えていた通りその自覚は恐ろしいほど持ち合わせている跡部であったが、よもやそのような文面がの口から齎されるとは露ほども思っていなかったからである。恥ずかしさからか打ち震えつつ物申したは、うああ、と呻いてしゃがみこんだ。

「そんくらい判って下さいよ、んもう、バカなんじゃないですか!?」
「なっ…、テメェ!」
「あー、死にたい、もういっそ殺して下さい…」

定めて真っ赤に変貌した顔を両手で抑える様はいとけなくもありまた滑稽だった。弁明しろ、と言って勝手に愛の告白まがいのことをしておきながら羞恥に乗じて逆ギレ、人をバカ呼ばわりとはふざけんなよと跡部は思ったけれど、決して声には出さず代わりに長く細い息を吐く。後方、自分が侵入してきた窓の向こうからしとしとと柔らかく降りはじめた秋雨の音を聞きながら、跡部は二杯目の紅茶を飲み干した。

「…もういい、立て、
「…………ぅ」
「俺様が立たせてやろうか?」
「え…遠慮します!」

驚くほどの速さで立ち上がったが気に食わなかった跡部は、やや乱暴にカップをソーサーに置き遣る。カチャン、という陶器特有の音が響いて、の身体がびくりと揺れた。まだ赤く染まる頬に、くっと笑いを零した跡部に対し、今度はが不服な声を漏らす。

「あー…私の分の紅茶」
「テメェが飲まねえからだ」
「先輩って意外にいじきたないところありますよね?」
「テメェの立ち直りのはやさと可愛げのなさは筋金入りだな?
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」

しかし、空いた食器の群れを片付けたのち、もの言わず二杯目(数字的には三杯目)の紅茶をいれてくるであろうことを跡部は知っている。後頭部を煽るように雨の音が強まったから、跡部はお茶受け用の皿に残りのクッキーを移した。予報は通り雨、と言えども、あと30分は降り続くはずだ。

「…帰らないんですか」
「…雨が強いからな」
「…車ですよね?」
「…それが、どうかしたのか?」
「…いえ、なんでもないです」

ありていに見えているものを見ないふりで終わらせた2人は顔を見合わせてふと微笑った。踵を返したの後ろ姿を見つめながら、春に思いを馳せ始める気の早さにふと自嘲して、跡部はお茶受け皿に指を伸ばす。こんな誕生日も悪くはないな、と柄にもないことを心で呟いて。

 


20131004 いつものドアを
Happy birthday Keigo!