欲しいものは昔から何が何でも手に入れる主義だった。俺が焦がれてこのてのひらに収まらないものなんて、この世界にはない。手段を選ばないのは昔からの遣り口だったから、腕を伸ばしてほんのゆびひとつぶん足りないくらいの下らない距離なんてどうとでもなると、
もう手に入れたのも同然だろうと、思っていたのに。
ド ロ ッ プ
軋む床、伏せられた瞳。掠れながらも、毅然とした、声の響き。
「ごめん、わたし、跡部のものになることは出来ない」
胸がこんなに痛いのなんて、嘘だ。
顔料を塗りたくったような空の色が目に痛い。こんな折、誰もコートに姿を見せないのはとんでもない違和感で、そこに佇むと、まるで世界でたった一人きりになったような気がした。俺は軽く息を吐いて、そのあたりにひしめいているらしい光化学スモッグに舌打ちをする。タイミングの悪いことに、面数の少ないインドアテニスコートは補修工事が行われていたから、部活中止の通達が流れるのは当然のことだった。目に見えないものに翻弄されるのは気分が悪い。不可抗力に支配されるのは大嫌いだ。
「あとべー!?」
思案の内側に、高い声が響いた。の声だな、と俺は思って、半身を翻す。コート脇の翳りから、俺を見つけたは大層驚いて居た。
「何してんの、ほとんどの運動部、今日練習中止だって知ってるでしょー?」
「…知ってるもなにも、措置の最終決定は俺の権限だ」
「威張るな!っていうか、早く帰りなさい!」
「っは、教師命令か?」
「そうよー、いくら跡部くんだからって、特例は認めませんからね」
フェンスぎりぎりまで身を乗り出して、たしなめるような瞳をこちらに向けるは、教員免許を持ったれっきとした教師だったけれど、まだ学生のようなあどけなさを残している。氷帝学園大学部を卒業し、すぐに高等部で教師生活を始めてまだ2年余りなのだから、周りの生徒とさほど相違がないのも仕様がない。生徒に対等のように扱われるは扱われるでコンプレックスも持ち合わせているようだが、は持ち前の明るさと人好きのする性格で、自分の卒業した勝手知ったるこの学園に誰よりも馴染んでいるような気がした。
俺はしぶしぶの居る場所へ移動すると、格子戸に手をかけた。は満足したように笑って、さっさと帰りなよ、と促す。生徒の声がまったく聞こえない学園内。一人きりだった世界に、が訪れて、世界は二人きりになった、ような気がした。
「わーったよ、お前の沽券に関わるからな?」
「…あんたは、いつまで経っても…、先生だって言ってるでしょ」
「あん?女子生徒には呼ばれて喜んでるじゃねーか、チャンって」
「それとこれとは……、違います」
ぷい、と背を向けたは、先導するように歩き始める。職員室とは別方向だ。定めて、俺をクラブハウスまで見届けてから帰るつもりだな、と推測する。別にとやかく言われなくても帰れると、発言する暇はいくらでもあったに違いない。しかし、これは好機だと呟く邪心が芽生えて、俺は口を噤む。ひとつに縛ったの長い髪が風で揺れる様を、ぼんやり眺めながら、俺は早すぎる蝉の音に耳を傾けていた。
「それじゃあ、気をつけて、ちゃんと帰るのよ」
後ろ手を振って、職員室に戻ろうとするの腕を取って、部室内に引き込むのは造作もないことだった。唐突なことに声も出ないのか、眼を見張ったの面立ちは、最早教師でも何でもない。寧ろ、俺にとってはすでに、は教師ではなく、一人の女以外の何ものでもなかったけれど。
彼女を始めて捉えたのは、まだ大学部に所属していた彼女が教育実習に訪れた中学の折だった。拭えないたどたどしさは致し方ないものとして、時折見せる凛とした面持ちや、媚びない姿勢、気位と言った類ではない自持の姿勢、相反して、持ち合わせている屈託のなさ。いい女かもしれない、と思った。第一印象では俗受けしないありふれたものだと感じていた彼女が、唐突に彩画から飛び出して、俺に訴えかける。それから、彼女が教師になった高等部に、俺が進学したのはほどなくしてのことだった。授業で徒然草を美しく朗読するを見て、欲しい、と思った。かくして、の一挙手一投足は不覚にも俺の視線を奪い去る羽目を追う。ただ柄にもなく尻込みしていたのは、曲がりなりにも世間的には俺が生徒で、は教師だと言うただそのクソみたいにちっぽけな問題ひとつだった。
「ちょ、あとべ?」
「…あん?」
「あん、じゃなく、今、これどうなってるの」
カーテンの引かれた、暗い部室の内側で、両腕の動きを制御されたはぽかんと呟く。背中には扉。磨りガラスからほんの僅かに零れる光は、の頭の影でほとんど意味をなさなかった。小さな逆光の中、たじろぐ。戯れとでも思っているのか、その腕は、拒絶の色味を大きくは伺わせない。面白くなくて、ワイシャツから覗く鎖骨に前触れもなくくちびるを落とすと、冷たいものにでも触れたかのような声をあげてようやく否むような力が篭る。
「あ、とべ、いい加減にしなさい!」
「いやだね」
「っ、ふざけ、ないでよ」
「ふざけてるつもりはないぜ?」
いよいよ身を捩り始めたけれど、高校生男子の力に最早適うべくもない。首や顎のラインをなぞるようにしてこれ以上ないほど近い場所に面立ちを寄せる。喘ぐようなの吐息が、鼓膜を擽った。
「、俺のものになれよ」
「………は…」
「俺の女になれ」
「なに…、っ、それ」
ほとんどくちづけに近い距離で、感情をほのめかすと、はかんばせを思い切り逸らして、眉を潜めた。くちびるを軽く噛む仕草に、背中が粟立つ。
「命令、だ」
腕に痛いほど力を篭めて、強い言葉で縛り付けた。無防備な耳元によせられたくちびるから、駄目押しのように名前を呼ぶ。そんな、生半可なことでは靡かないのは薄々判っていた。けれど、撥ね付けるような力が次第に強くなると、腹の中からもやもやとした苛立ちが募る。唐突に瞳がこちらを捉えて、心臓が跳ねた。
「ごめん…」
「あん?」
「わたし、跡部のものになることは出来ない」
追い詰められて、なおもそんな口が利けるとは、強情だな、と表面上は多分そんなことを考えていた。可笑しくもないのに、咽喉からくつくつと笑みが溢れる。さらに距離を詰めると、はかすかに怯えを孕んだ表情で俺の顔を見上げた。胸の奥の奥が、痛んだのは、きっと気の所為だと自分に言い聞かせて、の顎に中指を滑らせる。
「っは、意思なんて関係ねえ、俺がそう決めたんだから、テメェは俺のもんだ」
「……ないで」
「……聞こえねーよ」
「見損なわせないで、跡部」
すでに掠れ切ったその声色は、先刻まで俺を呼んだそれとはまるで別人のもののように思えた。そして、そうさせたのは他の誰でもない、俺自身だ。
「…跡部のことは、好きだよ?でもわたしたちは…」
「煩い、黙れ」
『好き』という単語が鋭利な刃をもって残酷に突き刺さる。腕がかすかに震えたのに気付かれたくなくて、また一段と力を篭めた。しかし、意図せず項垂れた俺は、そのまま成す術を持たなかった。躊躇う、なんて俺らしくもない。こんな女、捻じ伏せるのなんてきっと容易いのに。ああ、希う、とはこんな心地だろうか。胡散臭い単語だと覚えていたのに、今の自分にいやにしっくりくる気がして、気分が悪かった。
「そんな不都合、俺がどうとでもしてやる」
「…そんなこと、させたくないから言ってるの」
「…、なんで…!」
「……言ったでしょ、跡部が好きだから」
「…それは、俺の欲しいもんじゃねぇ」
は息を呑み、俺は継ぐ言葉を模索する。少しの間、暗闇を沈黙が支配した。先に沈黙を破ったのはだった。
「違う」
「……何が、だよ」
「多分、これが私の、本心」
こともなげに齎されたのは、意外な一語だった。俺は不覚にもまた言葉を失って、こんなに強く求めていたのに、どうしたらいいか判らなくなった。だったら、どうして、こんなにも拒絶するのか。俺はの首元に顔を埋める。そのまま、腕を引き払い、腰を抱き寄せて、それでも俺は、なにひとつ言葉に出来ない。解き放たれて戸惑う腕は、暫く空を彷徨っていたけれど、やがて、俺の肩口にゆっくりと落ち着いた。
「跡部、ごめんね」
「傷つけたくないよ、きみを」
「だから、これ以上求めないで」
ぽつり、ぽつりとは漏らした。涙声だった。堪えていたのもよく判った。小さい肩が震えている。反論の言葉はいくらでもあてがあったけれど、何故か音にする気はさらさら起きなかった。捻じ伏せることが出来なかったのは、単純で滑稽な事実。
そんなを、本当に愛していたからだ。
最後、後悔するぜ、と笑った俺に、そうだろうね、とは嘆息した。
「私がまだ高校生だったら」
「私がまだこの学園の生徒だったら、跡部と、遠慮なく恋が出来たのにな」
部室を去る間際、背を向けたは、果敢無げにそう呟いた。振り向いた時には、すでにいつもの顔で、気をつけて、と微笑んだ。俺の好きな、いつもの表情だった。
仄暗い部室から出ると、空は矢張り眩暈を覚えるほど青すぎる青。
胸のけだるい不快感はきっと、光化学スモッグの所為だろうと思い過ごしながら、俺は重い身体を引き摺って、その場を後にした。
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