上の空、と言う慣用句は、大抵の場合、跡部景吾には当て嵌まらない。眠っているときでさえ、隙が無いように見受けられる彼の、どこに虚ろげと呼べる部分があるだろう。今日の跡部景吾もきっとそうだった。定めて、大方の人間にとっては。
「かいちょう」
「・・・何だ」
「元気ないですね」
チャイナボーンのソーサーがかちゃりと音を立て、跡部の視線の先に現れた。次に揃いのカップ。そこに、湯気を立てた紅褐色の液体がゆっくりと注がれていく。紅茶の薫りがふわりと鼻を掠めた。
「お前の眼は相変わらず節穴か?」
「では本日も実に見目麗しく思える会長のお姿も私の幻覚ですかね?」
「・・・やめろ、お前に言われると空寒い」
「風邪じゃないですか?さ、ダージリン、温かいうちに飲んでくださいね」
言われなくても、と零して、跡部はカップに手をかけた。旨いとも不味いとも言わず嘆息して、跡部は集会室へ続くドアのノブへ手をかけたが、その奥へ消えるまでぼんやりと眺めている。こうして、ひとり残った跡部に紅茶をいれるのは、いつのまにやらの役目になっていた。
雑務の覚えや、仕事の速さにかけて、人一倍不出来なだが、紅茶をいれるのだけは上手だった。だからと言って、そこに跡部が目をかけたとかそういう訳ではなく、人の三倍仕事をこなして一息ついた跡部のタイミングと、人の三倍時間をかけて自分の仕事を終わらせたのタイミングがまるで一緒だったから、利用されたと言うことに他ならない。他に誰もいなければ言うまでもなく紅茶くらい自分でもいれられるが、誰か残っているのなら小間使うのが当たり前、というのは、跡部の血に染み付いたしょうもないセオリーなのだ。
「おい、そこの、…的場、だったか?」
「…、です、跡部会長」
「そうか、まあどっちでもいい…、ダージリンだ」
「…へ?ダージリン?紅茶?えっ、あ?もしかして、いれろってことですか?」
「それ以外何があるんだ?てめぇ」
それが多分、二人の交わした始めての会話である。はその後、主語が不自由な人だなあと思いながら紅茶をいれ、跡部はその後、まったく気の利かないやつだと思いながら、のいれた紅茶を飲んだのだった。
カップを揺らしながら物思いしていると、集会室へ消えたはずのが、扉の奥からひょっこりと顔を出した。跡部ははっとして、即座に冷静な表情を貼り付ける。
「どうした?」
「…疲れてるんなら」
「アーン?きこえねえよ」
「疲れてるんなら、今日は早く帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「くどいんだよ、俺は別に…」
「それ!」
言葉を遮って、は跡部を指差した。そして、よく見ると指の先は跡部の持っているティーカップを示している。跡部はわけがわからず、ティーカップとの顔を暫し交互に見比べた。顔を出していただけのが後ろ手に扉を閉めながら、やれやれと肩を落とす。片手には、紅茶の缶が握られている。
「ディンブラです」
「……………!」
「あまりにも違います、普通じゃないです、会長」
いつもだったら手渡した瞬間でこれがダージリンの香りなわけあるか馬鹿にするなとかなんとか言ってくるに違いないし、それでなくても口に含んだ瞬間に渋みがうんぬんとか癖がどーこーだとかクレームまがいのうんちくを垂れてくるだろう。しかし、今日は何らお咎めする様子が見受けられない。この手のことに関して特にスルースキルを持ち合せていない跡部が、かように些細なことに気付かないだけでプライドに関わると思っていそうな跡部が、だ。
「……ハメやがったな?」
「会長が意地張るからですよ」
「意地?ッハ、てめぇ、喧嘩売ってんのか?」
「滅相もないですよ、めんどくさい」
「…っな…」
「っていうか、
いいじゃないですか、別に、落ち込みたいときは落ち込んで、疲れたときはちょっと休むくらい」
ディンブラの紅茶缶を振りながら、独り言のようには零した。跡部は柄にもなく絶句して、ほんのわずかに俯いた。は背を向けている。
「………まさか、同情か?100年早いんだよ」
「何のことです?」
は眉を潜めながら、冷めちゃいましたね、と跡部のカップを取り上げた。そして、今度こそと言わんばかりにダージリンの紅茶缶を見せつけてから、おもむろに缶の蓋を開く。ぱこっ、と言う間抜けな音が生徒会室に響いた。ティースプーンで茶葉を計る、伏し目がちなは、何故だかいつもより物憂げに見えた。しかしそれは自分の気持ちの問題だろうと跡部は思い直して、手持ち無沙汰になった右手を瞼に寄せる。今度こそ、跡部の好むダージリンの香りがふわりと漂った。
―――氷帝テニス部が全国敗退した、というニュースを、学園内で知らないものはいなかったに違いない。だからと言って、別段跡部は自分が努めて毅然としようとしていたとか、何か雲るものをひた隠しにしようとしていたとかそういう覚えは毛頭なかった。ただ、の言う通り、柄にもなく、少々上の空だったのは事実である。少なくとも、自分の好きな紅茶の香りや味を認識できない程度には。
目指していた確固たるものが途切れた、といえば多少御幣があるが、自分の中に唐突に出来上がってしまった空洞のようなものがあって、それが時折ふと跡部を感傷的にさせるのであった。
鈍くさいだが、たまにこういう風に誰も気に留めない部分を見破る鋭いところがあって、時折、こいつのとろさは全て計算ではないかとさえ思わせるほどである。勿論、そんなこと恐ろしいことあっては堪らないけれど。
「お待ちどうさまです」
いつの間に垂れていたこうべを持ち上げると、声の先には、いつも通り惚けた面立ちのが佇んでいた。確かに、慰めてやろうとか、悲しんでやろうとか、そういうきらいはまるで見受けられない。ただいつも通り紅茶をいれて、目の前のソーサーに置き遣るだけだ。ただ、いつもの通りに。
跡部もまた、いつもの通りにカップに手をかけ、湯気を立てる紅褐色の液体に形の良い唇をつける。ほとんど同時に、が恐縮したように口を開いた。
「・・・同情するような器量がないから、こうやって紅茶をいれてるんですよ」
「・・・あん?」
「私が会長に出来るのは、これだけですから」
暗に
その一語は定めて、もっと跡部に何かしてやりたいというの願いのようなものが孕んでいた。馬鹿げているなと自分でも思う。自分が淹れる紅茶なんて、あってもなくても構わない娯楽のひとつで、つまりそれしか与えられない自分こそ、あってもなくても構わないのだ。こちらに差し向けられた跡部の顔は訝しげで、整った眉の形が少しだけ歪になっている。ああ、この人が好きだなあとは思って、同時に、自分の小ささをひどく寂しく感じた。いつからだろう、少し、否、かなり変な先輩だなあと思っていた跡部が、自分の中で形を変えたのは。執行部の仕事を覚え始めた1年の初夏あたり、跡部に紅茶を
いれることを頼まれたあのときだろうか、1年の冬ごろ、紅茶をいれるのを忘れて早々帰宅しようとした自分の首根っこを掴んで嫌味を言われたあのときだろうか、1年の終わりに、いつになく美しい、淀みのない声で卒業生への言葉を読む凛とした姿を見たあのときだろうか、それとも月並みに、はじめてテニスをしている彼をフェンスの外から垣間見た瞬間だっただろうか。大方、そのどれもがそうであり、どれもが違うのだろう。紅茶を
いれることがの内側で義務ではなくなったことのきっかけもまた。
自分が連れてきたのかもしれない沈黙に耐えかねて、ポットの持ち手をぎゅっと握りしめたは、さきほどの言葉はなかったと言うように、跳ねた口調を漏らす。
「美味しいですか?」
「…いつも通りだ」
誉めたわけでもないのに、ありがとうございますと会釈したに、何だかむず痒さを感じながら、跡部は再びカップを口に運ぶ。挙句、じゃあ余りを私も一杯、とかなんとか言われたからまるでこちらがあちらのために毒見でもしたかのような気持ちにすらなった。つくづく変なやつだ、と跡部は思いながら、カップの縁の裏側で薄い笑みを零す。
「安心しろ、お前はでくのぼうだが…」
「ふわっ…!」
逆にすがすがしいほどの罵倒を浴びせかけられて、は口をつけたばかりの紅茶を軽く吹きあげた。僅かに入ってきた水分が器官に飛び込んで、咽せ返りながら、は非難の視線を跡部に突き刺す。咳がこみあげて何も言えないのをいいことに、跡部は言葉を続ける。
「いれた紅茶の味は評価してやる、毎日飲んでやっても良い」
ありがたく思え、と継ぎ足す勢いで、跡部は踏ん反り返った。それから、ふと、さっきまでどちらかと言えば慰められる立場だったような気がする自分が何故今なんとなく慰める立場に回っているんだろうと言う思いが頭を掠めたが、まあ、それは置いておくことにした。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
そして、もしかしすると、もしかしなくても自分は今結構とんでもない台詞を言い放ったのではないか、と言う極めつけの疑問が過ぎったのは、それからまた数秒経過したのちのことである。証拠に、の耳が心なしか赤く染まっている。いや、それはさっきまで咽せていた余韻かもしれないが・・・だが、しかし。
上の空から一転、急に物流速度が増えた跡部の脳内は辛くも混線した。押し黙られているから、余計に気が滅入る。
馬鹿、早く何か言え、俺がこれ以上墓穴を掘る前に、と跡部はすでに飲み干した紅茶のカップから目が離せないでいる。
「・・・それは、あの」
「・・・・・・・・・んだよ」
窒息しそうになった頃、沈黙を破ったの声は、わかりやすいくらいたどたどしかった。胸のあたりをてのひらで抑えながら、は細やかな声で呟いた。
「・・・まいにち、おれのみそしるをつくってくれ、ってことですか」
「ばっ・・・」
かじゃねえの?と言いかけて、声も出なかった。指先からカップが滑り落ちて、丁度真下に置かれていたソーサーに音を立てて零れる。割れなかったのが救いであった。何もかもすっ飛ばして、それかよ、恐れ入る、と跡部は心で呟いて、あーあ、やっぱこいつは変だ、かなり、ぶっとんでる、と思った。
そしてこんなこいつを気に入っている自分も、相当ぶっとんでいるだろう、と自嘲気味に笑んだ。
「・・・そこまで自惚れられる度胸、買ってやるよ」
「いや、跡部会長には適いませんよ?」
「・・・・・・てめぇ、やっぱ喧嘩売ってんだな・・・」
「ふふ、良かった!少し元気になりましたね」
お粗末さまです、とやけに上機嫌そうに口にして、は空になったカップとソーサーを引き上げる。そして鼻歌交じりに、生徒会室にあつらえてある小さな給湯室へと姿を消した。
例え言葉のあやだとしても、毎日でもいい、なんて嬉し過ぎて心が跳ねる。ああ、こんなことで喜んでいるなんて、ほんと愚かかもしれない。てゆうか、さっきまでどちらかと言えば慰めるような立場だったのにも関わらず、何故自分がこんなに浮かれているのだろう。まあ、それは置いておくことにした。跡部が元気になってくれれば、それでいい。
ああ、そうだ、言っておかなければならないことがある。
給湯室からにゅっと顔だけを曝して、跡部を見る。跡部はなんだか釈然としない顔で机上に目をやっていたが、すぐにこちらに気付いた。えへへ、と微笑んだは、すっと跡部の、恐らく頭部のあたりを指差した。
「大丈夫!」
「・・・・・・あん?」
「その髪の長さもじゅうぶん、お似合いです」
「そっちかよ!」
そっちはどうでもいいだろうがよ!と言う抗議は、すでに流しで洗い物を始めたには、聞こえていなかったに違いない。
|